お姫様たち ①

 ついに後宮から抜けました! そして今からは、ワクワク・ドキドキ・キラキラお姫様編が始まります。八割ぐらい嘘です! どちらかというと野望とか欲望でギラギラしています。だけどお姫様=公主たちのことを扱うのは本当です。というかそれだけが本当だったりします。


 まず、皇帝の娘とは当然のように最も高貴かつフリーダムな女性であったのですが、唐代には「公主を妻にしたら、なにもしてなくても政府に捕まえられる」というような意味の諺があったそうです。早速先が思いやられますね!


 唐朝には、高貴な女性に授与する封号を定めた「命婦制」があり、命婦制は以下のように姫君(身分が高い女性、という意味で)を区別していました。

           

皇帝の娘………………公主

 (※皇帝の父方のおば→大長公主、姉妹→長公主、娘→公主と呼ばれます)   


皇太子の娘……………郡主


親王の娘………………県主


 なお、命婦制は皇帝の妃嬪について定める内命婦制と、公主以下、官僚の母や妻をも含む、皇帝の妃嬪以外の地位高い女性について定める外命婦制に分かれていたそうです。

 封号を授与されたのは、概ね唐の皇族である李氏の女性たち。ただし、則天武后の時代には武姓の女性や、則天武后と三代目皇帝の愛娘・太平公主の娘が県主に封じられたこともあったとか。あとは、楊貴妃の三人の姉たちはそれぞれ虢国夫人、韓国夫人、秦国夫人と呼ばれていたのですが、「~国夫人」って外命婦制が定める官僚の妻の最高のランクなんですよねえ。つまりそれだけ楊貴妃の姉たちが栄華をほしいままにしていたということ。

 また、公主と呼ばれた女性の中には、唐的に「野蛮。だけど攻め込まれないように、ヨイショしておきたい」周辺異民族に嫁がせるべく、「和蕃公主」に封じられた皇族の女性もいます。ただし、彼女ら和蕃公主が公主だったのは名目だけだったようです。それにしても「蕃」と「和」するってまんますぎるネーミングですよね。


 公主たちはそれぞれ、「~公主」、例えば太平公主や、代国公主などと呼ばれます。「~」に入る所が封号ですね。封号は実際に存在する地名(「代」という国は実際に五胡十六国時代に存在していました)や美称(例:太平公主)に因みます。しかし封号は一種の栄誉称号であり、国名や郡名など地名が付けられた場合も、その国・郡とは一切関係なかったそうです。「だったらその国や郡から税を徴収して暮らしてたのかな~」なんて思ってしまいますが。では公主たちの生活源が何だったのかと言うと――「食実封」! 

 はい、ここでまたよく分からないワードが登場しましたね! 

 食実封とは、

「国が貴族に対して、農戸を封戸ふこ(詳しくはググりましょう☆)として与えるもの。貴族はその封戸から、祖(米を税として差し出す)・調(布を以下略。ただし銭でもOK)を徴収して生活費にする」

 という制度です。ただし、これは公主が降嫁してからの話であって、婚前の、宮廷にいる間の生活費や物資は宮廷が支給していました。他にも彼女らは、嫁ぐ時などに皇帝からの贈り物を受け取ったので、それらも立派な収入源になりました。

 唐初の規定では、公主には三百戸、長公主には最高で六百戸が与えられていました。ですが太平公主は中国史上唯一の女帝である母親に溺愛されていたため、三千戸を与えられていたそうです。四代皇帝の娘たちの中にも、二千や三千といった食戸を持つ公主がいます。

 太平公主の食封は、兄弟である四代皇帝が即位すると五千に、そしてもう一人の兄弟である五代目が即位すると、一万にまで増加しました。が、さすがにこれが公主に与えられた封戸としてはマックスです。

 ところで太平公主は、安楽公主という姪と競い合って、「財産が多く、壮丁(成人男性)が多い」戸を自分の封戸としていたそうなのです。当時は、成人男子一名につき、税として粟二石(≒360リットル)、絹織物二丈(≒3m60cm)、真綿三両(≒78g)を差し出さなければならなかったので、成人男性が多い戸を取る程、税収は上がります。だから太平公主は富裕で男子が多い戸を選んで取っていたのでしょうが、そんな自由もあったなんてすごいですね! チョー目を付けられたくない! なぜなら公主たちは、定められた以上に封戸から搾取することがあって……このことは、次ぐらいにご紹介します。


 さて。そんな厄介なおば・太平公主を倒した玄宗は、最初は「長公主の食戸は一千戸、公主ならば五百戸を限度とする」「公主の食戸は、壮丁が一家に三人以内の戸のみ」と定めていました。ですが、玄宗は寵愛する武恵妃との娘に一千戸を賜ったため、他の公主の食戸も一千に増加され、以降はこれがだいたいの決まりとなったとか。玄宗、やらかしてますね。自分が定めた決まりを自分で破るとか……。ここらへんからも、後に安史の乱が起きて国が乱れる予兆を読み取れるような気がします。


 公主の食封は、公主の食封の管理専門の役所「公主邑司」が管理していました。

 ただ、


 玄宗の治世以前

 →公主邑司の官吏と国家の官吏が、一緒に公主の食封から税を徴収。


 玄宗の時代

 →国家の官吏が公主の食封から税を取りたて、公主に支給。


 唐後期

 →食実封は名目だけのものに。公主たちは、国家から直接支給する物資(布など)を受け取る。


 と変遷しています。

 郡主、県主も嫁いだ後に封戸を賜っていました。例えば玄宗の時代は、県主ならば一百戸。ただ全ての郡主・県主に規定の食戸が与えられたかどうかは断言しかねるそうです。郡主ならともかく県主って、めちゃくちゃ多そうですものね。そのせいなのかは分からないのですが、九代皇帝の時代には「夫が退職・死去した郡主には季節ごとに七万銭、県主だったら五万銭与える」から「夫が生存していてもいなくとも、あるいは官吏であってもなくとも、郡主には季節ごとに十万銭、県主には七万銭を支給する」と改められたのだとか。って、さりげなく額が増えてますよね!?

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る