後宮の女性たち 後宮に入るまで①

 中華といえば(別に中国に限らずどこにでもあったけれど)後宮! 漢~唐代で最も後宮の女性が多かったのは楊貴妃で有名な(というか、楊貴妃の方が有名な)玄宗の御代なのですが、この時期は女性六百人につき一人、約四万人が後宮に入っていたそうです。幾らなんでも多すぎますよね。そんなんじゃ、ナニが原因とは明言しないけれど玄宗はそのうち倒れてしまうのではないか、と心配になってしまいます。玄宗はとっくの昔に亡くなっていますが。

 でもご安心を! 後宮の女性と聞いて一般的にイメージされるのは「后妃」のことでしょう。ですが、後宮の女性には高貴な彼女らに仕え、彼女らの手足となる宮女のことも指します。むしろ、圧倒的多数を占めるのは後者の方。なのでこの点を踏まえれば上記の四万人もおかしなものでは――いや、やっぱり多すぎますけれど、少しは納得できますよね。でも、ここで一つ疑問が芽生えませんか? そんな数の女性を、どこからどうやって集めてきたんだろう、と。という訳で、以下で後宮の女性たちがいかにして後宮に入ったかをご紹介していきます。


①礼をもって迎えられた場合

 唐の皇族は名族と姻戚関係を持ちたいと望み(このあたりは、唐の皇帝が漢民族ではなく北方異民族に属することと関係しているんでしょうね)、皇族の子が身分低い女から生まれないようにしていました。なので、後宮に入る前から后妃となることが約束されたような女性たちは、ごく一部の例外を除けば皆、名家や権力者の娘でした。唐の皇帝のうち幾人かは縁戚の女性(※)を皇后にしています。いとことか。こういった女性たちはもちろん後宮入りしてすぐ高位の妃嬪ひひんや女官に封じられます。


 また、上記の「ごく一部の例外」といえど、官吏や士大夫の家の女性なので、決して身分低い家の出ではなかったのです。あくまで私のイメージなのですが、后妃候補として後宮に入れられるのは「上の上」。「上の中。もしくは上の下」な官吏や士大夫の娘は、ずば抜けた才能・学識や美貌(則天武后は美貌によって後宮に招かれました)がなければ、后妃候補にはなれなかった、ということでしょう。

 漢の武帝は歌妓であった衛子夫を皇后にしていますが、唐においては皇后を立てる際に第一に重要視されるのも「家柄」でした。どんなに皇帝に寵愛されまた皇帝が望んでも、大臣たちに反対されるので、家柄が低い女性は皇后にできなかったのです。家柄が低い女性は、息子が皇帝となって太后となるか、死後に位を追贈されなければ、后と呼ばれることはありませんでした。


 ※これは私の根拠のない推測になりますので、興味がない方は読み飛ばしてください。

 中国には清代まで「同姓不婚」という、同じ姓の相手とは結婚できないという制度があったので、皇后になる女性は縁戚は縁戚でも、皇室や諸王の娘ではなく皇室に連なる母を持つ女性であったはずです。例えば皇帝の父方のおじの娘とか祖父のきょうだいの息子の娘なんかは、姓が同じなので結婚できない。このタブーを破れば、分かりやすいイメージを挙げると、近親相姦したみたいな目で周囲から見られることになります。でも父方のおばの娘や父方の従姉の娘とかなら、姓が違うから大丈夫。


 漢を建てた劉邦の妻呂后は、夫の死後自身の権力基盤をより強固なものとするため、自分の息子である恵帝と、自分の娘の娘を結婚させました。つまり叔父と姪の結婚です。周囲に反対されなかったとは思えないこの結婚が成立したのは、恵帝劉盈と皇后張氏の姓が違ったからかもしれませんね。異議を唱えた者は呂后に粛清されただけなのかもしれませんけど。

 呂后といえば則天武后と共に中国三大悪女に挙げられる人ですが、彼女が政治をやっていた時代は結構安定していたという、興味深い人でもあります。なので、興味を持たれた方は呂后についてググってみましょう☆ ←呂后は☆じゃ済まないことをしている人なので、閲覧注意ではありますが。キーワードは「人豚」です。


 では、補足の分量が多くなりすぎたしキリがいいので今回はこの辺で終わりにします。

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