その③
前回や前々回で述べた革新があって一時ヨーロッパを圧倒したフランス軍ですが、さてここで一つ大きな問題があります。それは、どんなに優秀な軍隊だって、数が足りなかったらどうにもならないということです。
早くも1793年には(バスティーユが襲撃されたのは1789年7月14日)義勇兵の補充はあてにできなくなりました。ということで、1793年2月23日には、志願兵の不足分を各
30万人募兵令が猛烈に非難され反乱も起きたのに対して、国民総動員令が上手く受け入れられたのは、当時のフランス市民が凶作とインフレーションと不況に苦しんでいたためでした。失業が広がっていたから、最も貧しい部類の若者は、喜んで徴兵に応じたのです。こうして、陸軍は1793年7月には約六十五万人にまで膨れ上がりましたが、この数はルイ十四世の軍隊の最大人数である三十万人の二倍以上にあたります。彼らの基盤たる総人口は、1700~1789年の間に、30%しか増えていないのにも関わらず、です。
徴兵の対象となる年齢の男性以外にも、女性や子供、高齢者の方々にも、それぞれの役割が課されました。若者が前線で戦うように既婚の男性は武器の製造や武器弾薬の輸送を担い、女性は天幕や衣服を縫い、まだ病院で勤務し、子供は古いリンネルから包帯にするリント布を作る。そして老人は、広場に出て行って兵士たちの勇気を湛える一方で、敵への憎悪を刺激する……。
官僚機構はたまにしか必要な物資を新設部隊に供給してくれないので、兵士たちはパリやその他の都市に送られるはずの食糧や物資を奪って自活し、そのために経済混乱に拍車がかかることはありました。しかし新たに、十分な数の熱意溢れる兵士を得た革命軍は、1793年の年末には国内の反革命派を抑え込んでしまいました。その後、革命軍はフランス国内から国外へと闘いに行くようになったので、それからは兵士を
こうしてフランス経済は回復していったのです。この経済の快復は、これから述べる配給制で分配されていた食糧が市場で入手できるようになるまでにも関係しています。
というのも、地方で消費される分は別ですが、全ての収穫は徴用され、配給カードと引きかえに「平等パン」なるものが配られるようになっていたのです。他にも、貧困層が植えないように「最高価格法」を発布し、全ての大衆消費物資の価格に上限を設けました。この「最高価格」は投機家たちが付ける値段よりもはるかに安かったので、生産者や仲介者は品物を売り惜しみしたり、公定価格での販売を拒否したりしました。そのため役人は武装した隊を引き連れて買占めや商品隠蔽を摘発したりもしたのです。また、物資を買いだめしたり闇市場で取引したりすると死刑になりました。
政府による統制は上記の事例だけでなく、贅沢品のストックは戦争物資を輸入するために輸出する品として徴収され、全ての外国貿易は中央によって規制されました。
外国貿易だけでなく、全ての輸送と工業生産は国営化され、兵器と弾丸と制服と装備は国家規模で生産されました。科学者たちは研究所に集められ、兵器製造に関わる冶金、爆発物、弾道などの問題を研究させられていたのです。
他にも、陸軍が緊急に物資を必要とした場合は地方派遣議員や軍の要員に政府官僚などが寄付を募るなどしてどうにか物資を揃えていました。もっとも、この寄付とは暗黙の脅迫にほかならず、
この体制、はっきり言って恐怖政治以外の何者でもないと思うのですが、当時のフランス人は正義の戦いだと信じていたので、耐えたのです。
この恐怖政治は1794年7月、
それにしても1793年の日本といえば、老中の松平定信が辞任した頃なんですが、この時からすでに国家総動員法の原型って出来上がってたんですね。
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