戦争娼家 ①

 このまとめの最初の話でも述べましたが、近世までの出征では、娼婦が軍隊の後をついて行っていました。ですが戦争の方法が変わるにつれて――機動戦が陣地戦に移り変わるにつれ全ての戦線に軍用の娼家が出現するようになりました。こうした娼家の一部は、放棄された城郭や戦争被害の小さかった民家、あるいは「そのために」作られた木造のバラックや空の貨車などが利用されていたそうです。もっとも、こういった娼家は抱える娼婦の数といえば数人程度の、短期間しか営業できないようなものがほとんどだったそうですが。


 対して、半永久的に利用される娼館として、以前から民間人に利用されている施設というのもありました。興味深いというべきか男性――ひいては人間社会の虚しさの一例と見做すべきか、こういった娼館においてさえ、軍内の階級差別は厳守されていたそうです。

 兵士用の娼家と将校用の娼家(さらに、下士官用の娼家も加わり、階級ごとに三種類の娼家が並ぶ地区もあったとか)はどの戦線でも厳格に区別されていました。いくつかのフランスの都市の、連合国軍用の娼家では、将校用の場合は青い軒燈を下げ、兵士用の場合は赤い軒燈を下げていたそうです。確かにぱっと見だけでも分かりやすい区別ですが、一般兵が間違って将校用の娼館に入ろうものなら、きっとボコボコにされていたんでしょうね……。


 さて。ここで皆さんに(特に男性に)一つ質問があります。それは、「軍用娼家における売春に、何らかの幻想を持っていないか」ということ。例えば、金さえ払えば一晩はたっぷり楽しめるのだろうとか、一晩でなくとも自分が満足できるまでは……とか。もしもそう考えていた方がいれば、メルヘンを壊すことになって恐縮なのですが、答えは「残念はーずれ」です。


 まず、軍用娼家で働く娼婦というのは多忙を極めます。なぜなら彼女たちは、一週間で一大隊(※)のほとんど全員を相手にしなくてはならない。前線から帰って来た兵士百五十名が、娼婦を三人しか抱えていない娼家の前で長蛇の列を作ることもあったといいますから、娼婦たちは単純計算で一晩で四十から五十人の相手をしなくてはならなくなる。もっとも、これほどの数をこなさねばならないのは特別な場合だけなのかもしれませんが。ある軍用娼家のある時期の客の数を調査してみると、娼婦一人の一日あたりの客の数は六名から十二名であったという結果が出たそうですから(だとしても多すぎる)。


 現代では、一大隊はだいたい三百名ぐらいに相当するそうです。第一次世界大戦前後においてもそうだったかは分かりませんが、大して変わっていないのではないでしょうか。


 ここで皆さんは、ある疑問を抱いたのではないでしょうか。――一人の女が、本当に一晩の間に何十人もの男の相手をできるのか? この数は誇張されているのでは、と。所が世の中にはもっと凄い話があって、「<鹿島茂著>パリ、娼婦の館 メゾン・クローズ」には一晩で百二十人を相手にしたという娼婦の事例が紹介されています。

 「パリ、娼婦の館」は十九世紀パリ――に代表されるフランスの性産業の在り方について軽妙な語り口で紹介された本です。当時、フランスは「社会を性病から守るため」、認可した娼館だけに経営を許可していたそうなのですが、この事情、そっくりそのまま第一次世界大戦前後のドイツ軍だと思いませんか?

 「パリ、娼婦の館」によると、当時のフランスの娼館はSMや特殊プレイ・特殊サービスを売りにする高級店と、質よりも量で儲けを出す大衆店に大別されていたそうです。そしてこの大衆店では、一晩で二十四人の客を取っても経営者に頑張りが足りないと謗られ、四十九人でまあまあだと言われていた……。また、こういった商売では「回転率を上げる」ことが何より重要ですので、客は一発済ませたらそれで終わりでした。でないと一晩でこれだけの数を相手にできないですものね。


 大都市における売春と戦地における売春を同一に扱うのも考え物ですが、むしろ戦地のほうがマシなのではないかと思ってしまうような話ですよね。何はともあれ、そんな苛酷な労働・・を強いられていては、娼婦たちの心と身体はすり減っていくばかりで、快楽など感じる余裕はどこにもない。

 もしも、「でも娼婦も少しはいい思いをしてるんだろう」と思っていた方がいらっしゃったのなら悪いのですが、そんな甘ったるいファンタジーは今すぐ捨てましょう。少なくとも、大衆向けの娼館には女の快楽はありません。そして恐らく、軍用の娼館においても。


 話が少し逸れてしまっていましたね……。まあ何はともあれ、軍用の娼館は、女将が司令部から任命されるか、管理人として認可され、司令部が定めた取締規則を守りさえすれば、あとは自由に経営できていました。これは裏を返せば、女将は思うがままに娼婦たちを搾取できていたということでもあります。前述の「パリ、娼婦の館」によると、娼婦たちは娼館から支給されるはずの生活費すら徴収されていたらしいので(そして、借金はどんどん膨らみ、娼館から決して逃げ出せなくなる)、似たような地獄絵図が軍用の娼館でも繰り広げられていたのでしょう。


 ドイツの軍用の娼館とそうでない娼館の明確な違いといえば、娼館の隣の小さな一軒家に衛生兵が泊まり込んでいて、娼婦を買おうとする兵士は皆この衛生兵の許に顔を出し、軍務手帳を出して姓名と所属部隊を伝えなければならないという決まりがあったことぐらい。そうすれば、後日相手の娼婦が性病にかかっていると判明した場合、性病の拡大を防ぐことができますから。

 他にも、姓名などを伝えるだけでなく、分身を衛生兵の目に曝け出して性病に罹患していないか調べられたり。前のまとめでお伝えした性病防止策を実践させられたり。相手の女の名前を報告させられたり……。想像するだけでもうんざりする前後の処理が、泡沫の快楽を求める兵士たちには待ち構えていたのです。その対価として得るのは、あまりにも儚い夢なのですが。

 ※ただし、これらの制度が適応されるのは一般兵士のみで、将校の場合は野放しでした。だから将校は一般兵よりも性病持ちが多かったのでは……。

 

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