百二十日目(火) 俺の彼女は120円だった件

 昨日とは打って変わって暖かくなり、春の陽気がやってきたホワイトデー。何事もなく卒業式予行を終えた俺は、誰もいなくなった教室に一人残り続けていた。

 途中まではアキトも一緒だったが、店の手伝いがあるということで先に帰宅。ホールで演劇部が練習を行う中、四月にある英語のクラス分け試験に備え二週間振りとなる勉強に励む。

 家ではなく学校に残ってやっている理由は、大事な待ち合わせをしているためだ。


『ヴヴヴヴヴ……ヴヴヴヴヴ』


 四時を少し回ったところで、携帯に届いたメールを確認する。

 その本文を読んだ後で勉強道具を片付けると、昇降口を出てから駐輪場へ。ようやく膨らみ始めた桜の蕾を眺めながら、自転車を押して校門前に向かった。


「………………」


 始まりは一体いつからだったんだろう。

 阿久津から陶芸部に誘われ、夢野のネームプレートに値札が付いていた高一の夏か。

 再会と仲違いの入り混じった小学生時代か。

 三人で一緒に遊んでいた幼稚園の頃からだったのかもしれない。

 いずれにせよ、俺達の関係も卒業と共に節目を迎える。


「お待たせ」


 今日までの日々を振り返っていると、待ち合わせ相手である少女が姿を見せた。

 ショートポニーテールの髪を揺らしながら、自転車を押してやってきたのは可愛い女子生徒。桜の花びらを模したヘアピンで前髪を留めており、左手の小指にはホクロがある。

 以前に俺がプレゼントしたトランちゃんの手作りストラップを鞄に付けているもう一人の幼馴染――夢野は、透き通るように綺麗な声で俺に尋ねてきた。


「待ってる間、退屈じゃなかった?」

「全然。勉強するには丁度良い時間だったよ」

「ふふ。ありがとう」


 後輩達と別れを告げてきた少女は、見ているだけで癒される笑顔で応える。

 音楽部の送別会が二時間から三時間程度だったことを考えると、日が暮れるまで遊び続けていた陶芸部がどれだけ異質か実によくわかる。良い意味で……だけどな。


「合格した後も勉強なんて、米倉君って本当に真面目だね」

「逆だっての。不真面目だから勉強してるんだよ。高校のスタートはそれで失敗したからさ」


 この二週間で充分に自由を満喫したし、そろそろ少しずつスイッチを切り替えるべきだろう。そういう意味では、今日の自習の時間は最適だった。

 受験期間はもっと色々やりたいことがあった筈なのに、いざ終わってみると何をしたかったのか忘れたり、欲が薄れたりしていくのは本当に不思議でしかない。


「すっかり忘れてたけど、まだ直接は言ってなかったっけ」

「ん?」

「米倉君。合格おめでとう!」

「おう。サンキュー。夢野のお守りのお陰だな」

「ううん。米倉君が頑張ったからだよ」


 ペダルに足を乗せると、いつもと同じ帰り道を走り出す。

 結局最初から最後まで、二人乗りするような青春はないままだったな。


「音楽部の送別会は何をしたんだ?」

「みんなでお菓子食べて、クイズ大会とかもやったよ。でも最後に後輩達が一生懸命練習してくれた歌を贈ってくれてね。思わず感動して泣いちゃった」

「へー。歌のプレゼントなんて、音楽部ならではだな」

「うん。私達も卒業生に歌ってきたから知ってた筈なのに、いざ自分の番になると本当に嬉しくて……昨日今日と泣きすぎて、卒業式の涙が無くなっちゃったかも」

「火水木とか冬雪と一緒に号泣だったもんな」

「だって陶芸部にはあんまり顔出せてなかったのに、あんな風にお祝いしてもらえるなんて思ってなかったから、本当にビックリしちゃって」

「何言ってんだよ? 夢野が陶芸部の一員なのは、アルバムを見ても一目瞭然だろ?」


 パーティーにだって、合宿にだって、いつでもそこには笑顔の少女が写っていた。

 それに昨日持ち帰ってしまったが、この半年間に渡ってモールの展示棚に大皿も飾られている。例え誰が何と言おうと、夢野は紛れもない陶芸部員だ。


「そういえば米倉君は『彼女の名は』を見た時は泣いてたのに、今回は泣かなかったね」

「結構ウルっときてたけど堪えた」

「堪えたんだ」


 信号で立ち止まった少女に、クスっと笑われた。

 寄せ書きやアルバムといったプレゼントは、少人数の部活だからこそできるもの。メジャーな部活で得られる一体感や団結力は味わえなくとも、狭い付き合いであるが故に深まる絆だってあるだろう。


「今日も寄っていく?」


 代山公園が近づいてくると、俺が提案するよりも先に夢野が口を開いた。

 そう、こうして一緒に帰るのは久し振りではない。


「ああ」


 昨日立ち寄ったばかりの公園に、今日も俺達は自転車を止める。

 そして二人で並んで、のんびりとジョギングコースを歩き始めた。


「いよいよ明日で本当に卒業なんだね」

「そうだな」

「卒業したら離れ離れだし、こうして話せる時間も無くなっちゃうのかな?」

「今は文明の利器もあるんだし、会おうと思えばいつでも会えるだろ」

「…………それでも高校生が終わっちゃうって思うと、何だか寂しいね」


 屋代の制服に袖を通すのも、明日で最後になるだろう。

 複数あったジャージは部屋着になりそうだが、テツが欲しいということで一枚だけ提供。学年毎にジャージの色が違うため、三色コンプリートを目指すそうだ。

 三年間に渡って毎日のように自転車で走り続けてきた景色も見納め。小学校の通学路と同じで、次に来た時には俺の知ってる道ではなくなっているかもしれない。


「本当、いつまでも続けば良かったのに……」


 隣を歩いていた夢野が、俯き気味にポツリと呟く。

 高校での三年間が楽しかっただけに、その気持ちは痛いほど伝わってきた。


「確かに寂しいし、ずっと高校生のままでいられたらいいなって俺も思ったよ。でもそうしたら、これから先にあるかもしれない楽しいことは知らないままなんだよな」


 時間は決して止まらない。

 俺達は常に、未来に向かって歩き続けている。

 いずれは大人になり、終わりを迎える時だって来るだろう。

 だからこそ可能な限り、毎日を楽しむべきだ。


「そっか。それは嫌だよね」


 俺の答えを聞いて、夢野がゆっくりと顔を上げる。

 感傷に浸りながらベンチの前に着くと、昨日と同じように腰を下ろした。


「…………さくら…………」

「え?」

「ううん。今年は開花が遅いって言ってたし、卒業式には間に合いそうにないね」

「まあ、満開にはならないだろうな」


 夢野の視線を追って桜の木を見上げる。蕾は膨らみ始めており僅かに花も開いているが、まだまだピンク一色には程遠く枝の茶色が目立っていた。


「…………うん、もう大丈夫!」

「ん? 何がだ?」

「せっかく米倉君といるのに、こういうの良くないなーって思って。ね?」


 人差し指でほっぺたを押し上げた少女は、ニコッと笑いかける。

 その可愛いらしい姿を見て、俺は笑顔を返した。


「ねえ、米倉君。どうして私の送別会が終わるまで待っててくれたの?」


 夢野はこちらをジッと見つめつつ尋ねてくる。

 まるで中々本題を切り出せない俺に、助け船を出しているようだった。


「………………夢野には受験中に色々貰ったから、お返しをしたくてさ。クリスマスプレゼントも、誕生日プレゼントも、バレンタインも、本当にありがとうな」

「どう致しまして。マフラー、センター試験の時にちゃんと巻いてくれてたね」

「ああ。それで……これ…………」


 俺は鞄の中から紙袋を取り出す。

 本来なら、昨日返すつもりだった。

 しかしながら、どうしても言い出せなかった。

 明日も一緒に帰れないかと、夢野を誘うことしかできなかった。


「ひょっとして、ホワイトデー?」

「その……ホワイトデーと…………」

「…………?」


 脈拍が速くなっていき、思うように口が回らない。

 それでも、今日はちゃんと手渡す。

 不思議そうな表情を浮かべつつ、夢野は受け取った紙袋を覗き込んだ。

 中に入っているのは、苦戦しながらも家で作ったラッピング済みのクッキー。






 ――――そしてクリスマスに夢野から貰った、ネズミ色のマフラーだった。






「…………受験の時に物凄く助けられたんだけど、それは返そうと思うんだ。俺には夢野が見つけるきっかけになったマフラーがあるし、それに――――――」


 泣くほどの送別会の後では、とても言えなかった言葉がある。

 楽しい気分を台無しにして良いのかと、躊躇ってしまった言葉がある。

 彼女の笑顔を見る度に、幾度となく目を背け続けてきた。

 最後の最後まで言えなかった言葉を、はっきりと声に出して告げる。











「――――――俺、阿久津のことが好きなんだ」











 この時の夢野の表情は、一生忘れないと思う。

 悲しみでも、怒りでもない。

 瞳に映し出されたのは、優しい微笑みだ。


「そっか…………うん、そうだよね」


 それでも、今ならはっきりとわかる。

 その表情は俺が初めて見る、夢野の営業スマイルだった。


「………………ここまで待たせた癖に、本当にゴメン…………謝って済む問題じゃないと思うけど、何て言うか…………その………………」


 受験が本格的に始まる前、夏祭りの時に伝えるつもりだった。

 三人で行くことになったから言えなかったというのは、単なる言い訳にすぎない。

 話す機会はいくらでもあったのに、俺は最初から最後まで小心者のままだった。


「本当は言わなくちゃいけないってわかってたのに、ずっと言えなかったんだ。我儘だと思うけど、夢野と気まずい関係にはなりたくなくて……本当、ずるいよな…………」


 小心者どころか、どうしようもないくらい卑怯だと思う。

 気付いた時には、夢野の目を見て話せなくなっていた。


「米倉君は謝る必要なんてないし、謝るとしたら私の方だよ。本当にゴメンね」

「そんなこと――――?」


 言葉を遮るように、俺の唇に柔らかい物が触れる。

 それは幾度となく経験した、夢野の人差し指の感触だった。


「本当は米倉君が水無ちゃんのことを好きだって、ずっとずっと気付いてた。蕾のままで花が咲かないってわかってたのに、どうしても米倉君と一緒にいたかったの」

「…………」

「我儘を言ってたのは私の方。米倉君が謝る必要なんて全然ないんだよ? だからね、そんな顔しないで。だって私達、これからもずっと友達でしょ?」


 軽く当てられていた夢野の指が、ゆっくりと離れていく。

 俺に向けられた表情は普段と変わらない、見ていて癒される優しい微笑みだった。


「あ、でも米倉君が今日その話をしたのは、卒業後なら気まずい関係になってもいいってこと? さっき「会おうと思えばいつでも会える」って言ってたのは真っ赤な嘘で、私とはこれでバイバイってことなのかなー?」

「え? い、いや別にそう言う訳じゃ……」

「本当にー?」

「ほ、本当だって! 神に誓う! 仏陀もといゴータマ・シッダールタにも誓う!」

「ふふ。冗談だよ。ねえ米倉君、私があげたお守りって今持ってる?」

「あ、ああ」

「その中身、開けてみて」

「いいのか?」

「うん」


 胸ポケットに入れたままだった、合格と書かれている手作りのお守りを取り出す。

 見てはいけないと言われていた中を開くと、入っていたのは小さな紙切れ。そしてそこには幼い子供が書いたような上手とは言えない字で、短い手紙が書かれていた。


『さくらくんへ。かっこよくてやさしいさくらくんがだいすきです。ジュースかってくれてありがとう。またいっしょにあそぼうね。さくらくん、ずっとずっとだいすきだよ。つぼみ』


「これって……?」

「筍幼稚園の卒園式の時、米倉君はインフルエンザでお休みだったの覚えてる? 本当はその時に120円のお返しと合わせて渡そうと思ってたの」

「じゃあ、ずっと持ってたのか?」

「うん。気付いたら十年以上経っちゃったけど、ようやく渡すことができて良かった。ずっと止まりっぱなしだった私の時間も、これで動き出したかな……なんてね」

「…………俺さ、夢野に会うまでは、自分のことなんて大嫌いだったんだ」


 中学生から高校生になっても、変わると思っていた毎日は退屈なままだった。

 二学期以降は陶芸部に入るという変化はあったものの、仮にそれだけだったなら阿久津との進展もなく、下手したら幽霊部員になっていたかもしれない。


「でも夢野と話していくうちに、つまらなかった毎日が楽しくなってきてさ」


 偶然の再会だけでは始まらなかった。

 値札のことを指摘して、同じ幼稚園だったとわかって、新たな謎を出される。

 夢野との関係を探していくうちに、積極的に行動するようになっていった。


「少しずつ……ほんの少しずつだけど、自分に自信も持てるようになってきたんだ」


 こんな俺でも、誰かを救っていた。

 単に自分が気付いてないだけで、必要としてくれる人はいる。

 そのことを教えてくれた少女に、俺は深々と頭を下げた。


「だから俺がここまで頑張れたのは、夢野のお陰だよ。本当にありがとうな」

「どう致しまして。私の方こそ、今までありがとう」


 幼稚園、小学二年、三年、六年、そして高校と、幾度となく出会ってきた。

 しかし、もう忘れはしない。

 手紙をお守りの中に戻して胸ポケットに入れると、夢野が大きく身体を伸ばした。


「そろそろ行こっか」

「そうだな」


 ベンチから立ち上がると、代山公園を後にする。

 少しして俺と夢野が再会した、思い出のコンビニが見えてきた。


「もう水無ちゃんに告白はしたの?」

「いや、明日しようと思ってる」

「そっか。もし振られちゃったらどうする?」

「その時は間違いなく、死ぬほど後悔するだろうな」

「ふふ。きっと大丈夫だよ」


 夢野が優しく微笑むと、横断歩道の信号が赤から青に変わる。

 車が止まり歩行者が渡り始める中、ペダルに足を乗せた少女は小さく手を振った。


「それじゃあ、またね」

「ああ」

「…………」

「………………?」


 別れを告げたものの、夢野はジッと俺を見つめ続ける。

 そうこうしているうちに、青信号は点滅を繰り返し赤へと変わった。


「どうしたんだ?」

「ううん。最後くらい、私が見送ろうかなーって思って」

「…………そうか」


 背中を見送られるのは、コンビニ店員だった時以来かもしれない。

 俺がハンドルを捻ると、夢野は精一杯の笑顔を見せた。


「ねえ米倉君。もう後ろを向いちゃ駄目だよ?」

「ああ……」

「ちゃんと恰好良い米倉君でいないと、また水無ちゃんに嫌われちゃうからね?」

「わかってる。それじゃあ、またな」

「うん……」


 そしていつも通り交わされる、別れの挨拶。

 ペダルを漕いでその場から去ろうとした俺に向けて、彼女の声が微かに響いた。






 ――――ばいばい、米倉君――――。






 小さな小さな呟き。

 小心者だが難聴ではない俺は、涙交じりの声を聞き逃しはしなかった。

 それでも、振り返ることはない。

 120円から始まった一つの恋は、今ここに終わりを迎えるのだった。

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