六十二日目(日) 俺の得意教科が数学だった件
センター試験二日目の今日は理系科目。俺の場合は得意教科が多いということもあり一日目に比べるとプレッシャーは少なく、昨日のようなフワフワ感もない。
セットした目覚ましの音で起きると、身支度を済ませて家を出発。家族からは緊張しないようにと言われたが、寧ろ緊張感を持った方が良い気がするくらいだ。
「…………」
音楽を聴きつつ路面凍結している道を歩いて駅に着くと、自分から来なくて大丈夫と言っておきながら夢野の姿をキョロキョロと探しつつエスカレーターに乗る。
電車は遅延もなく平常運転で、昨日と同じように二駅先で下りてから会場へ向かう。二日目は受けない生徒もいるためか、一日目に比べると応援の先生が結構減っていた。
(リッチに貸そうかな。まあ当てにすな、酷過ぎ借金。Pbまでが希酸、Agまでが酸化力のある酸、PtとAuが王水に反応。王水は一升三円……硝酸と塩酸を1:3の割合で――――)
最初の科目は数学Ⅰ・Aだが、試験前の待機時間は物理と化学の復習をしておく。
数学という教科は覚えるものが公式くらいしかない上に、センターを受ける段階ともなれば何百という数の問題を解いてきているため、今更確認するようなこともない。
そして何よりも数Ⅰ・Aは、模試やプレテストで毎回90点近く取っている俺の得点源。得意教科で上手く勢いに乗って、数Ⅱ・Bでも高得点を取っていきたいところだ。
「………………ふー」
最後の確認を終えてからチョコレートで栄養補給して臨戦態勢。ゆっくりと呼吸を整えた後で時間になると、昨日と同じように試験官の指示に従って準備を進めていった。
開始時間が迫る中、会場には沈黙が訪れる。
耳に入るのは暖房の音と、時折誰かがする小さな咳のみ。
時計の秒針が一定のリズムを刻みながら、ゆっくりと上がっていく。
やがて真上に到達すると、一時間に渡る戦いが始まった。
「解答始め」
試験官の合図に合わせて、数Ⅰではなく数Ⅰ・Aのページまで問題用紙を捲る。
まずは基本から……今まで解いてきた問題と、大して変わらない内容だ。
流れるように鉛筆を動かして、素早く正確に計算式を解いていく。
出てきた計算結果は解答枠にピッタリ当てはまり、その数字をマークシートに記入した。
その勢いが止まることはない。
与えられているものと、求められるものを駆使して先へと進んでいく。
…………どうして数学を嫌いな人がいるんだろうと、不思議に思うことがある。
数学が苦手という人は多い。苦手になる理由は人それぞれだろう。
しかし算数の時から不得意な人は、そこまで多くない気がする。もしも嫌いだった人がいるなら、それは中学年や高学年で習う小数や分数くらいからかもしれない。
低学年の算数が数を扱う勉強なら、中学年以降の算数や数学は量を扱う勉強だ。
幼児は千円札一枚よりも、百円玉を十枚貰う方が喜ぶ。数は具体的であり理解するのは簡単だが、量は抽象的であるため理解するまでが難しい。
その小さな躓きが積み重なると理解が追いつかなくなり、公式や解き方を暗記するようになるんだろう。ところが解き方を暗記したところで、テストに同じ問題は出てこない。
その結果、勉強しても点が取れないと思い始める。
こんな計算なんて身につけても意味はないだろうと、不満を言うようになる。
逆に言えば数学を好きになるきっかけも、始まりは些細なものだろう。
小学生なら親に褒められたからとか、中学生ならテストで良い点が取れたからなんて単純な理由かもしれない。実際のところ、俺はそんな感じだった。
ただ今では数学の面白さとは何なのかが、少しわかり始めた気がする。
問題を解くために必要な知識は限られており、それをパズルのように組み上げて解を導く。答えがいくつもある国語と違って、辿り着く正解は一つだけだ。
更にゴールへの道は一つではなく、自分の予想もつかないような道がある。
『2を四つ使って、最も大きい数を作れ』
例えばこんな問題があった場合、小学生なら『2222』と言うだろう。
それが中学生になって累乗を習うと『2の222乗』という解答が出てくる。
数Ⅰ・Aを学べば『2222!』なんて階乗を使う輩もいるに違いない。
2以外の記号を使うのはルール違反ということで却下されるかもしれないが、だからといって最大の数が『2の222乗』になるかと言ったらそうでもなかったりする。
その答えは『2の2の22乗』。2の22乗は400万を超えるため、実質『2の400万乗』ということになり『2の222乗』なんて目じゃない膨大な数になる訳だ。
記号を使っていいなら数Ⅱ・Bの対数を駆使すれば、どんな自然数でも作れるし∞にも届くとのこと。数学の先生が授業の際に出したクイズのような問題だが、この話を聞いた時には納得すると同時に数学の面白さを感じずにはいられなかった。
学生が嫌いな教科の一位は数学だと、前にテレビで見たことがある。
しかしながら好きな教科の一位もまた数学という事実を知る人は少ない。
恐らく数学という教科を『数楽』ではなく『数が苦』に感じている人は、クイズやパズルが解けた時の快感を知らなかったり、忘れているだけなんだろう。
そしてどんなものでも分かれば面白く、面白ければ好きになる。
それは数学だけでなく、英語だろうと国語だろうと同じこと。勉強に限らずゲームや趣味だってそうだし、仕事だってそうかもしれない。
「――――――」
難なく第一問を解き終えると、机の上の時計を確認した。
掛かった時間は僅か十分少々と良いペースであり、そのまま第二問へと移る。
「?」
最初の数問マークを埋めた後、次の問題を解いたところで手が止まった。
導いた答えが、解答の枠に合わない。
どこかでミスをしたんだろうか。
計算を確認してみるが、ざっと見直した限り間違いは見当たらなかった。
「…………」
しかしこの程度で動揺はしない。
傍から見れば単純なミスも、先入観にとらわれると見えなくなるもの。三分ほど悩んだところで第二問を保留して飛ばすと、第三問の問題を解き始める。
「………………」
再び鉛筆が止まった。
今度は最初の問題から。それも先程のように解答の枠に合わないのではない。
一体何をすればいいのか、解き方が全く見えてこなかった。
何かを見落としているだけなんだろうか。
与えられたピースと当てはめるべき枠を、幾度となく見つめ直す。
五分ほど試行錯誤した後で、第三問は丸々飛ばして残りの問題を解いていった。
「……………………」
試験時間が刻々と過ぎていく中、ただひたすらに鉛筆を走らせていく。
第二問を保留したこともあって、俺は少しずつ焦り始めていた。
大丈夫だ。
そんなことある訳がない。
数学だけは今までずっと真面目に頑張ってきただろ。
高校受験の時だって、数学で点が取れたからこそ屋代に入れた。
定期テストで100点を取ったことだってある。
模試やプレテストでも、毎回高得点を維持できてた。
俺の取り柄と言っても過言ではない。
米倉櫻から数学を取ったら、何が残るって言うんだ?
「っ」
途中で何度か手は止まったものの、ひとまず最後まで問題を解き終える。
時計を確認すると、試験の残り時間は十五分を切っていた。
すかさず第二問に戻るが、未だにミスの原因は見つからない。
それならば第三問へと移るものの、こちらはこちらで何一つ進展がなかった。
何一つ進展がないまま五分、十分と時間だけを浪費していく。
「!」
自分のミスに気付いたのは試験終了の五分前だった。
詰まっていた第二問の問題が、ようやく先へと進み始める。
まずい。
どうする。
必死に問題を解いていくが、とても最後までは終わらない。
ましてや、第三問は手を付けていないままだ。
頭が真っ白になっていく。
終わる。
終わってしまう。
試験だけじゃなく、何もかもが――――。
「解答やめ」
無情にもチャイムは鳴り響き、試験官が冷酷に試験終了の合図を告げる。
大問一つが丸々空白になっているマークシートを前にして、震えが止まらなかった。
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