六十二日目(日) マイナス×マイナス=プラスだった件
「阿久津氏? これはまた奇遇と言うか何と言うか……」
「火水木君。何かあったのかい?」
「その…………実を言いますと、米倉氏の数学が……あまり芳しくないようでして」
言うべきか言わないべきか、アキトは言葉を詰まらせながらも正直に話す。
コイツに余計な心配は掛けさせたくない。
しかしながら、その言葉を途中で遮る余裕すらなかった。
仮に俺が平静を装ったとしても、コイツは簡単に見抜くだろう。
アキトから理由を聞いた少女は、口元に手を当てつつ淡々と答えた。
「ふむ。成程ね。道理で死んだ魚みたいな目をしていると思ったよ」
「…………なあ阿久津。第二問と第三問って解けたか? 今回の数学、難しかったか?」
藁にもすがる思いで、アキトに聞いた内容と同じ質問をする。
阿久津はやれやれと言った表情を浮かべると、腕時計を見て現在時刻を確認した。
「火水木君。すまないけれど、席を外してもらえるかい? 後はボクが面倒を見よう」
「さいですか。そういうことであれば、宜しくオナシャス」
「ありがとう。感謝するよ」
「…………」
アキトは二、三度こちらを見た後で、阿久津に頭を下げて去っていく。
入れ替わりで隣に腰を下ろした少女は、ポケットから棒付き飴を取り出した。
そして俺の質問に答えることなく、別の質問を返してくる。
「お昼はもう食べたのかい?」
「…………」
「第二問と第三問について聞いてきたということは、マークミスではないんだろう?」
「………………」
「キミも困ったものだね。黙っていたら何も始まらないよ」
「……………………悪い」
「何がだい?」
「本当に悪い……」
「いきなり謝られても、意味がわからないかな」
「俺のことはいいから、放っておいてくれ……」
「やれやれ……何を言い出すのかと思えば、随分と重症みたいだね」
自分でも何がしたいのかよくわからない。
言うに事欠いて、悲劇のヒロイン気取りか?
女々しいこと、この上ないと思う。
こんなことを言ったところで、今の阿久津が素直に放っておく訳がなかった。
当然のように、深々と溜息を吐かれる。
くるくると指先で回していた棒付き飴が、ピタッと動きを止めた。
「もう諦めるのかい?」
「…………諦めた訳じゃない……けど……」
「それなら謝る必要なんてないじゃないか」
「………………でも……もう……」
「まだ試験は残っているんだ。落ち込んでいる暇はないよ」
今の自分がやるべきことは、こんなところでクヨクヨすることなんかじゃない。
数Ⅱ・Bや化学や物理に備えて、一分でも多く確認をしておくべきだろう。
「わかってる……わかってるけどさ…………」
「頭では理解していても……といったところかな」
「…………」
薄っぺらな自信を剥がされた今、俺には何も残されていない。
アルカスを失ったショックで、一時的に自分を見失っていた阿久津の時とは違う。
単に米倉櫻の本来あるべき姿が露呈しただけ。
高三の夏休み明けから始めても、受験という大きな壁の前では付け焼き刃に過ぎない。
今回ばかりはアキトでも、そして阿久津でも、どうすることもできない問題だった。
「……………………ふむ…………仕方ないね」
阿久津は考え込んだ後で、棒付き飴をポケットに入れて立ち上がる。
流石に諦めたのかと思いきや、断じてそんなことはなかった。
「気分転換に、もう少し静かな場所へ行こうか」
「………………」
「動く元気すらないのなら、強引に引っ張ってでも連れて行くよ」
廊下には見知らぬ受験生が何人もいるが、コイツなら本当にやりかねない。
重い腰を上げて立ち上がると、阿久津の後に続いて階段を下りて行く。
一体どこへ行くつもりなのか、二号館から外へ出ると受験生には縁のない方向へ。生徒の姿は全くもって見当たらない、校舎と校舎の間にある中庭へと足を踏み入れた。
「火水木君には助けを求めても、ボクに対しては求めないんだね」
「…………アキトは合格が決まってるけど、お前は大事な休み時間だろ?」
「大事さ。大事な時間だからこそ、大事な相手に使っているんだ。ボクがキミの鉛筆に何て書いたのか、もう忘れたのかい?」
『もしも足が止まった時は、お互いに助け合おう』
「今の櫻は、いつぞやのボクにそっくりだからね。放ってはおけないよ」
「…………」
「ふむ。この辺りでいいかな」
木々に囲まれた中庭の端で、阿久津は足を止めた。
太陽の日差しで解けた雪が水滴となって垂れる中、幼馴染の少女はこちらを振り返る。
そして俺の顔をジッと見つめた後で、決意を固めるように大きく息を吐いた。
「櫻。目を瞑って、歯を食いしばれ」
「………………は?」
「頭が駄目だと言うのなら、身体に理解させるまでさ」
手首をプラプラとさせる阿久津を見て、何をするつもりなのか察する。
てっきり外の空気を吸って気分転換させるつもりなのかと思いきや、わざわざ人目のない場所まで移動してきたのはそういう理由だったらしい。本当に容赦ないなコイツ。
「叩いて直すって、俺は壊れた機械かよ?」
「スポーツ選手だって、気合いを入れる時はやるじゃないか」
どことなく楽しそうに見えなくもない阿久津は、不敵に笑いつつ答える。確かに狂った歯車を戻すには、ビンタの一発でもされるのが一番かもしれない。
「そうだな。とびきりキツいのを頬に一発頼む」
「一発でいいのかい?」
「いや充分だから。何発するつもりだったんだよ?」
「勿論、直るまでに決まっているじゃないか」
「やっぱり壊れ物扱いしてるだろお前」
頬に一発と申告したから良かったが、危うく往復ビンタの応酬を喰らうところだった。ひょっとしたら油断させておいて追撃がくるかもしれないし、二発目にも備えておこう。
何度か深呼吸を繰り返し、覚悟ができたところで目を瞑った。
「準備はいいかい? 言っておくけれど、ボクは容赦しないからね」
「よし………………来いっ!」
いつ来るかわからない衝撃に備えて、強く歯を食いしばる。
過ぎた時間は戻らない。
終わってしまった以上は仕方がない。
この一発で数Ⅰ・Aの失敗は全て忘れて、心を新たにしよう。
そう思っていた。
――――――。
暫くして、頬に何かが触れる。
柔らかい感触。
指……とはまた少し違う気がする。
不思議に思い、恐る恐る目を開けた。
「っ?」
瞬間、衝撃が走った。
衝撃といっても、平手打ちが飛んできた訳ではない。
物理的ではなく、精神的な衝撃。
ビンタなんかとは比較にならない、天地を揺るがす衝撃だった。
阿久津の整った顔が、すぐ傍にある。
そしてその唇は、俺の頬に当たっていた。
……。
…………。
………………繰り返そう。
阿久津が。
あの阿久津水無月が。
米倉櫻のほっぺたに、キスをしていた。
「――――――――――――」
思考が止まる。
身体が硬直して動かない。
時間が止まったかのような感覚。
頭の中は一瞬にして真っ白へと上書きされた。
ゆっくりと唇を離した少女は、一歩退き元の位置に戻る。
雪解け水の滴る音と共に、止まっていた時間が動き出した。
白一色だった頭の中が「え?」の一文字で溢れかえる。
「――――」
言葉が出てこない。
目の前にいる少女は、俯き視線を逸らした。
先程までとは正反対に、真っ直ぐ見つめてくることはない。
心なしかその頬は、微かに紅潮している。
何とも言えない沈黙が訪れる中、先に口を開いたのは阿久津だった。
「そ、そんなに驚かなくてもいいじゃないか。言われた通り、とびきりキツいのを頬に一発したまで……だよ……」
「え……? あ…………お………………?」
「マ……マイナスにマイナスを掛け合わせたら、プラスになるだろう? 幼稚園の頃だってやっていたことだし…………その……唇にした訳じゃ……あるまいし…………」
後半はモニョモニョと口ごもり、再び少女は何も言わなくなる。
いやいや。
いやいやいやいや。
マイナスとかプラスとか、そういう問題じゃない。
折れた心を修復するのかと思いきや、折れた部分もろとも吹き飛ばされた。
キスって。
ほっぺにチューって。
マイナスどころかプラスもプラスだし、掛け算どころか累乗である。
――――ドクン、ドクン――――
ワンテンポ遅れて、脈拍が速くなり始めた。
顔を赤くしている少女は、ポケットから棒付き飴を取り出す。
普段通りを装っているのだろうが、包みを開ける動きはおぼつかない。
「お……おまっ…………ふもっ?」
止まっていた脳がようやく活動を始め、ポカーンと開きっぱなしだった口を動かした瞬間、何も喋るなと言わんばかりに棒付き飴が差し込まれた。
「言っておくけれど、質問は受け付けないからね。今キミがすべきことは違うだろう?」
「!」
「用は済んだし、ボクは先に失礼するよ」
言うが早いか、耳まで赤くなり始めた少女はくるりと背を向ける。
俺は棒付き飴を咥えたまま、去っていく幼馴染の後ろ姿を黙って見ていた。
抜けていた力が戻ってくる。
無意識のまま、棒付き飴を歯で噛み砕いた。
『センター試験は失敗するものだと思いなさい』
もうこうなったらヤケだ。
やるしかない。
駄目元で足掻くだけ足掻いてやる。
拳を強く握りしめた俺は、自分が向かうべき戦場へと早足で戻るのだった。
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