三十日目(水) 悩んでる時は運動する時だった件
「使うか?」
阿久津が落ち着き埋めていた顔を上げたところで、ポケットからハンカチを取り出す。
目を赤くした少女は鼻をすすってから頷くと、ハンカチを受け取り涙を拭いた。
「…………俺はペットとか飼ったことがないから、今のお前がどれくらい辛いのかわからないけど、泣いてるお前を見てたら婆ちゃんのことを思い出したよ」
気付かない間に雲から顔を出していた三日月を見上げつつ呟く。
母方の祖母は今も元気だが、祖父は俺が生まれる前に他界。父方の祖父も俺達が幼い頃に逝去しており、葬式や告別式にも参列したが断片的な記憶しか残っていない。
そして婆ちゃんというのは父方の祖母のこと。優しく温厚な母方の祖母とは裏腹に、婆ちゃんは気が強めでタバコを吸っていたこともあり少し近寄り難かった。
「丁度三年前くらいか。中三の年末に、脳卒中で亡くなってさ。入院中は親がしょっちゅうお見舞いに行ってたんだけど、俺は勉強するって言って行かなかったんだ」
当時俺同様に受験生だった姉貴でさえ、一度は顔を見せに行っている。
姉妹の会話を聞いていた限りでは、婆ちゃんは調子が良い時は元気そうだったが、調子が悪い時だと誰が見舞いに来たのか認識すらできない状態だったらしい。
「亡くなったって聞かされた時も何も感じなくて、我ながら薄情な奴だと思ってた。でも納棺する前の婆ちゃんの姿を目の前にしたら、色々と昔のことを思い出してきてさ」
新年やゴールデンウィーク、お盆を迎える度に赴くものの、何もなくて退屈な家だった。
時には留守にしており、パチンコ店にいる婆ちゃんを迎えに行ったこともある。
近くの公園で転んで泣きながら帰ったら、男なら泣くなと怒られた。
虫が出た時は躊躇なく、問答無用に素足で踏み潰す。
お昼にラーメンの出前を頼むと量が多いと言って、いつも麺の半分を分けてくれた。
夏休み宿題を持っていき、漢字の書き方を教えてもらったのは俺だけらしい。
携帯ゲーム機を手に入れてからは、婆ちゃんの家に行ってもゲームをしてばかりだった。
今になって思えば、もっと色々と話しておけば良かったと思う。
いつまでも元気でいると思っていた。
ぶっきらぼうで、時には厳しく、時には優しい……そんな婆ちゃんだった。
「そうしたら、不思議と涙が出てきたんだ。泣くことなんてないと思ってたから、自分でも驚いたよ。ああ、これで本当にお別れなんだなって」
死に化粧が施され冷たくなっている婆ちゃんには、最後まで触れなかった。
葬式から告別式……火葬されて骨になるまでは、あっという間の出来事だった気がする。
「母さんが「屋代の制服姿を見せてあげたかった」って言ってたのが特に印象的で、今でも覚えてる。見舞いに行っておくべきだったなって、何度も後悔したよ」
唯一の償いは、屋代に合格できたことか。
普段は忘れてこそいるものの、仏壇を前にする度に思い出す後悔だ。
「お前は俺と違ってアルカスにできることを全部やり尽くした上で、最後までしっかり見届けてあげたんだろ? それならきっとアルカスも嬉しかったと思うぞ」
「…………そうかもしれないね」
黙って話を聞いていた阿久津が、ハンカチを返しつつ答える。
半分ほど燃え終わった線香を眺める少女は、自分へ言い聞かせるように言葉を続けた。
「前に進まないといけない……そう頭では分かっているんだけれどね」
「それで無理に進もうとした結果が、あの物理演習の点数だろ?」
「どうして知っているんだい?」
「見るつもりはなかったけど、顔色が悪いお前を心配してたら偶然目に入ってな」
「そうかい。普段通りやっていた筈なのにあんな点数を返されたから、正直ショックだったかな。解き直してみたらケアレスミスが50点近くあったよ」
仮にセンターでそんなことになったら目も当てられない。
しかし阿久津が今のままなら、充分に起こりうる話だった。
「無理に進もうとしても駄目なのはボクもわかっているんだ。時には足を止めることも必要だと思う。ただそんなゆっくりと休んでいる時間は残っていない。そしてボクが足を止めている間も周りは走り続けて、どんどん追い抜かれていく」
「…………」
「突然だったならまだしも、櫻の言う通り別れを言う時間は充分にあったんだ。気持ちの切り替えはできている筈なのに、どうしてなのか思うように前に進めない。いつまでも足を止めている訳にもいかないのに、一体ボクは何をしているんだろうね……」
焦りがミスを生み、そのミスが更に焦りを生むという負の連鎖。
止まることもできず、進むこともできないとなれば八方塞がりだろう。
「櫻……キミならどうする? ボクはどうすればいい?」
走り方を忘れた少女はこちらを振り向くと、助けを求めるように問いかけてくる。
阿久津を待っている間、その答えを考え続けた。
俺はハンカチをポケットに入れると、ゆっくりと立ち上がる。
「よし阿久津。バスケしに行くぞ」
別に意識したつもりはなかったが、どことなく姉貴を彷彿とさせる言い方だった。
突然の提案に対して、阿久津はポカーンとした表情でこちらを見る。
「こういうときは身体を動かすに限るのが阿久津流だろ?」
「…………確かに一理あるけれど、一体どこでするつもりだい?」
「勿論、南小だ。この時間ならまだクラブチームが活動中だから校門は開いてるし、校庭の照明があればこの暗さでもリングは見えるだろうしな」
「ふむ…………でも…………」
「いいからほら。ちょっと気分転換がてら散歩に行って来るって親に言ってこい。もしも許可が下りないようなら、俺も一緒にお願いしてやる」
迷っている少女の手を握ると、引っ張り上げて立ち上がらせた。
最後にもう一度アルカスの墓を見た後で裏庭を後にすると、阿久津は家の中に戻っていく。阿久津家は色々と厳しいため、すんなりOKが貰えるかは微妙なところだ。
「あんまり遅くならないようにしなさいよ」
「はい」
阿久津がドアを開けて出てきたと同時に、心配する母親の声が聞こえてきた。今の娘の状態を理解しているからこそ、今回は許可が下りたのかもしれない。
俺も我が家に鞄を置いた後でバスケボールを用意すると、未だに何とも言えない表情を浮かべている少女にパスしてから、一緒に南小を目指して夜の通学路を歩き出す。
「お前とバスケなんて、梅が部長になった時以来か?」
「そうだね」
「あれがもう二年前だもんな。俺は体育の授業くらいでしかやらないけど、阿久津は休日にやったりする時もあるのか? 早乙女とかとさ」
「二年生の頃はあったけれど、三年生になってからは一度もないかな」
「そうだよな。お前の場合、予備校も忙しそうだし……そういえば今日は?」
「それどころじゃなかったから、休むことにしたよ」
「そりゃ休んで正解だったな」
例えどんな一流講師だろうと、今の阿久津が求めている答えはわからない。
もしもあのまま陶芸室でアメと戯れていたとしても、立ち直ることはなかっただろう。
「今年も……じゃなくて来年も元旦は親戚が集まるのか?」
「恐らくね」
「またハル君に引っ張り回されたりしてな」
「流石に受験直前である以上、今回は従兄夫婦も気を遣ってくれるさ」
そんな話をしているうちに、黒谷南小学校へ到着する。予想通り校庭ではサッカーのクラブチームが練習しており、大きな照明が灯っていた。
こんな時間に制服姿でバスケットをしに来る高校生なんて滅多にいないだろう。若干の視線を感じながらも、俺達は校庭奥にある誰もいないバスケコートへ向かう。
「小学校のリングってこんなに低かったのか。今ならダンクできそうだな」
「やってみたらどうだい?」
「おっしゃ!」
阿久津からボールを受け取ると、ドリブルもせずに抱えたまま全力でダッシュしてからのジャンプ――――が、僅かに届かないと判断しギリギリのところでボールを手放す。
それこそ某有名バスケ作品で説明されていたレイアップのやり方のように、置いてくるかの如く放り投げられたシュートは、綺麗にリングへと吸い込まれた。
「ナイッシュー」
「うーん……ほっ! リングに手は届くし、できそうなんだけどな」
下手に失敗したら受け身も取れずに背中から落下しそうではある。
改めて挑戦してみるも勇気が出せず、やはり普通のシュートになってしまった。
「よし阿久津。踏み台ダンクだ」
「櫻が踏み台になるのなら構わないよ」
「わかった。バッチ来い」
「冗談のつもりだったんだけれどね。クリーニング代を請求されるのはゴメンだし、遠慮しておこうかな。そもそもダンクしたいのは櫻だろう?」
踏まれる気満々で四つん這いになったものの、結局阿久津は挑戦しない様子。仮に跳んだらスカートの中が見えたかもしれないとか、そんなことは考えていないぞ。うん。
中学時代の帰り際に男バスの連中が体育館の壁を蹴ってダンクに挑戦していたのを見たが、思いっきり叩き込むことができたら間違いなく爽快だろう。
「ボールを片手で掴めたらいけるかもしれないけれどね」
「片手で? ほっ!」
「できるのかい? 凄いじゃないか」
「いや、ギリギリだ。ちょっとでも動かしたら落ちそうだし……滑るっ!」
「それでも手が大きくて握力がないとできないよ」
「握力か。陶芸部のお陰だな」
梅に聞いた話だと身長が185cmありダンクのできる男子がバスケ部にいるらしいが、実際に試合でする機会はあまりないとのこと。というのもリングの上から叩き込むダンクは簡単に見えて案外難しく、レイアップの方が成功率は高いからだそうだ。
最後にもう一度ダンクにチャレンジしてみるものの、結果は変わりなし。それでもこのゴールの高さならシュートは簡単に入るし、良い勝負ができそうである。
「よし。そろそろ1ON1といくか」
ウォーミングアップで身体も暑くなってきたため、学ランを脱ぎ土台のポール部分に掛けてからYシャツを腕まくり。ボールを拾うとコートを着たままの阿久津にパスした。
「ボクの先攻でいいのかい?」
「勿論。さあ来い!」
ボールを手にした阿久津が俺にパスする。
そのパスを返した瞬間、俺達の勝負は始まった。
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