三十日目(水) 一番暗いのは夜明け前だった件

 冬の日は短く五時に空が紅色に染まり、五時半になると遠くが明るい程度。六時を過ぎた辺りから日は完全に沈み、今ではすっかり暗くなっている。

 夜空に浮かぶ星を時折眺めつつ、幾度となく流れるホームのアナウンスを聞いていた。

 どれくらい屋代の生徒が通り過ぎていっただろう。

 待ちに待っていた幼馴染の少女は、ようやく姿を現した。

 容姿が似ている黒タイツの女子生徒が遠くから歩いてくる度に気を引き締めては、別人であることに気付き肩を落としての繰り返しだったが、今回は見間違いじゃない。


「っ!」


 街灯に照らされた道を、敗残兵のような足取りでやってきた阿久津と視線が合う。

 幼馴染の少女は一度立ち止まったものの、少しして止めた足は再び動き出した。


「よう。全く、何時間待たせる気だよ?」

「櫻……どうしたんだい?」

「それはこっちの台詞だっての」

「こんな所でボクを待っている暇があるなら、勉強すべきだと思うけれどね」

「そうかもな」


 普段なら心に刺さる一言だが、今は切れ味がなく容易に受け止められる。

 いくら平静を装ったところで、心の傷は隠せない。

 泣いていた跡は消えているものの、その目は生気を失ったままだ。


「…………」


 阿久津は何事もなかったかの如く、そのまま俺の前を通り過ぎる。

 こうなることは予想できていた。

 だからこそ呼び止めたりはせず、黙って隣に並ぶと階段を上がっていく。

 そのまま一緒に改札を抜けると、ホームに下りてから電光掲示板を確認した。


「………………」


 俺がついてきたことに対して、阿久津は何も言ってこない。

 五分ほど経ったところで、混雑している電車が駅にやってくる。

 ドアの前に立った少女は、ずっと窓の外を眺めていた。

 決してこちらを向きはしない。

 重そうな身体をドアに預け、暗闇の世界を見つめ続ける。

 そんな阿久津の何とも言えない表情が、ガラスに反射して映っていた。


『次は黒谷ー、黒谷ー。お出口は左側です』


 駅前にあるクリスマスツリーが見えなくなったところで電車が止まる。

 外に出た後も、お互いに言葉を交わすことはない。

 電飾が灯っている夜道を二人で歩きながら、何もない時間だけが過ぎていく。

 普段と変わらない道が、不思議と短く感じられた。


「…………それじゃあ、失礼するよ」


 家の前に着いて、ようやく阿久津が沈黙を破る。

 定型文のような別れの挨拶。

 その言葉に対して、俺は閉ざしていた口を開いた。


「季節外れの花粉症か?」


 門扉に手を掛けていた阿久津が足を止める。

 背を向けたまま振り返る様子を見せない幼馴染に対し、俺は質問を続けた。


「人が泣く理由は色々あるよな。感動の涙。悲しみの涙。悔し涙。玉葱の涙。高校生にもなって涙を見られたことが、そんなに恥ずかしいのか?」


 いつだって輝いていた。

 俺にとって最も尊敬できる存在だった。

 例え辛いことがあったとしても、決してそんな素振りは見せなかった。


「容姿端麗で文武両道。努力を欠かさない頑張り屋で、後輩には慕われて気配りもできる。確かに俺はそんな凄いお前ばっかり見てきたかもしれない」


 人が人であるため。

 阿久津水無月は、阿久津水無月としてあり続けたい。

 それが阿久津の望みだったのだろう。


「だけど……だけどな、お前の駄目な姿を見たくないなんて、誰が言った?」


 少なくとも俺は一度だって思っていない。

 寧ろ少しくらいドジなところもあった方が、ギャップ萌えで可愛いくらいだ。

 人間である以上、恰好悪い姿を見せたくない気持ちはわかる。

 それでも、完璧な人間なんて絶対いない。


「逃げるのを悪いとは思わない。寧ろ逃げない方がおかしいくらいだ。それでも、時には逃げられない敵だっている。そのことを教えてくれたのは、他でもないお前だろ?」

「……………………………………………………」


 長い沈黙だった。

 俺の言葉を黙って聞いていた阿久津は、門扉から手を離す。

 そしてゆっくり振り返ると、こちらを真っ直ぐに見つめながら静かに答えた。


「…………櫻。聞いてほしい話があるんだ。少し長くなるけれど、付き合ってほしい」

「ああ」

「三分ほど待っていてくれるかい?」

「わかった」

「ありがとう」


 そう言い残した後で、阿久津は家の中へと入っていく。

 俺は大きく息を吐いた後で、本日何度目になるかわからない夜空を見上げた。

 先程までは隠れていた月が、雲の隙間から顔を出し始める。

 そんな綺麗な三日月をジッと眺めていると、再び阿久津家のドアが開いた。


「こっちに来てくれるかい?」

「ああ」


 線香と柄の長いライターを手にした少女に案内され、俺は家の裏にある庭へ向かう。

 一緒に遊んでいた小さな頃は、うっかり飛んでいってしまったボールを取りに来るようなことが何度かあったものの、こうして足を踏み入れるのは数年振りだ。

 阿久津の後に続いて進むと、庭の一角にある円形に並べられたブロックが目に入る。


『アルカス』


 囲まれているスペースの中心には、名前と足跡マークが彫られている小さな墓石。

 そしてその周囲には、綺麗な花が活けられていた。


「亡くなったのは、土曜日の夜遅くだったよ。一昨日、お別れをしたんだ」

「…………そうか」


 阿久津は墓石の前に屈みこむと、線香を二本取り出しライターで火を付ける。

 俺は一本を受け取ると、猫用なのか鰹節の香りがする線香を土に刺した。


「猫の平均寿命は十五歳くらいだけれど、マンチカンの平均寿命は十一歳と短めでね。アルカスはもう少ししたら九歳……人間で言うところの、五十歳くらいだったのかな」


 庭石に座った阿久津は、二筋の煙が立ち上っていくのを眺めつつ静かに語り始める。

 俺は少女の隣に腰を下ろすと、アルカスの墓を眺めながらその話を聞いた。


「春休みが終わった頃に一度、いぼみたいな物があったのを見つけてね。少しずつ大きくなっていったからお医者さんに見せたら、癌だってわかってすぐに手術をしたんだ」


 四月頃と言えば、俺が粉瘤ふんりゅうになった時期でもある。

 足の裏にできた良性の腫瘍を取るため、俺もまた人生初となる手術をした。


「手術をした後のアルカスは元気でね。まだ歩けないのに身体を起こして外に出ようとしていたくらいだし、食欲も普段と変わらない様子で回復は早かったんだよ」


 今になって思えば、あの時の阿久津は妙に心配していた気がする。

 わざわざ一緒に登校までしてくれたのは、アルカスの影響もあったんだろうか。


「ただ夏休みに入ってから、またできものを見つけてね。お医者さんに見せたら、二度目の手術はやらない方がいいと言われたんだよ」

「癌だったのか?」

「…………最初に手術をした時に、再発する可能性があることは言われていたんだ」


 少女は首を縦に振った後で、少し間を置きつつ答えた。

 手術ができないとなると、残る方法は限られている。

 もしかしたらお医者さんから、余命宣告をされていたのかもしれない。


「抗癌剤を飲ませている間も、アルカスは普段と変わらず元気でね。よく食べて、よく寝て…………少なくともボクには、痛みを感じているようには全く見えなかったよ」


 阿久津の声が震え始める。

 俺はアルカスの墓から、隣に座る少女へ身体を向けた。


「それがここ数週間で容体が急変してね。最後を看取ることができたのは、不幸中の幸いだったと思うよ。ほんの少し前まではあんな……あんなに……元気に…………」


 目元を潤ませていた少女が言葉を詰まらせる。

 それを見た俺は阿久津の肩へ手を回すと、優しく抱き寄せた。


「こんな俺の胸で良ければ、いくらでも貸してやる」


 もう一方の手を少女の頭に添えて、ポンポンしながら囁く。

 阿久津は抵抗することもなく、そのまま俺に身を預けた。


「お前には恰好悪いところを、これ以上ないくらい見られてきたからな。今日くらいお前の恰好悪いところを見たってバチは当たらないだろ」

「………………」

「だからな阿久津……辛いなら、思いっきり泣いても良いんだぞ?」


 空に浮かんでいた三日月が、再び雲に隠れた。

 線香の煙が風で揺れる中、少女は俺の胸の中で慟哭する。

 夜空の下で聞いた赤子のような泣き声は、いつまでも耳に残り続けるのだった。

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