四日目(金) 心の余裕と仲間の存在だった件

 どれくらいの間、癒してもらっていたのだろうか。

 一分か、三分か……もしかしたら十分近く経っていたかもしれない。

 時間経過すら分からなくなった頃になって、夢野は動かしていた手を止めた。


「少しは癒しになったかな?」


 抱きかかえた時の巻き戻しをするように、頭から両肩へと手が移される。

 お互いの身体がゆっくりと離れていき、再びベンチの背もたれに寄りかかった俺は馬乗りになっている少女の問いに答えた。


「ああ。サンキューな」

「良かった。私が知ってる癒しって、子供を安心させる方法くらいしかないから」


 太腿を包んでいた柔らかい感触がふっと消える。

 心なしか頬を赤く染めているように見えなくもない夢野は、微笑みつつ立ち上がった後で再び俺の隣へと腰を下ろした。


「私ね、今までは自分のことを知ってもらいたいって思ってばかりだった。でも今は、もっと米倉君のことを知りたいの。だから、辛い時には辛いって正直に言ってほしいな」

「夢野……」

「米倉君は見られたくないって思ってるかもしれないけど、私は米倉君の恰好良いところだけじゃなくて、恰好悪いところも見てみたいと思ってるよ?」

「見たらドン引きされる気がするけどな」

「それでも、良いところも悪いところも全部含めて米倉君でしょ?」


 何事にも表があるのなら、必ず裏は存在する。

 確かに少しは成長したかもしれないが、本質というのはそう簡単には変わらない。


「去年の合宿で早乙女さんから米倉君の中学時代の話を聞いた時にね、もしも私も南中に通ってたらどうなってたかなーって考えたことがあるんだ」

「…………」

「誰だって思い出したくないようなことはあるけど、それを受け入れて乗り越えるからこそ人って強くなるんじゃないかなって私は思うの」


 時には目を背けることも必要かもしれない。

 それでも、いつかは逃げられない時が訪れる。


「ただ、一人で乗り越えるのは大変でしょ?」


 人は一人では生きられない。

 世間はそんなことを言っているが、別に一人でも生きていくことはできるだろう。

 少なくとも俺は、そう考えていた。

 例え普段は一人で問題なくても、人は常に強くはいられない。

 精神的や肉体的に弱くなる場合だってある。


「楽しいことだけじゃなくて、辛いことも分け合っていこう? 悩んでる時は一緒になって悩むし、苦しい時は何も考えず私に甘えていいんだよ?」


 そして一人よりも二人でいる方が、心に余裕を持って生きることができる。

 色々な共有をすることで、一人よりも開けた世界だって見えてくる。


「中学生の時は何もできなかったけど、今はこうして傍にいるから……」

「!」

「今ならきっと米倉君の力になれるから、もっと私を頼ってほしいな」


 夢野の柔らかい手が、俺の手を優しく握り締めた。

 一人じゃない。

 俺には頼れる仲間がいる。


「私の辛かった時に米倉君が全部受け止めてくれたみたいに、今度は米倉君の辛いことを私が全部受け止めてあげる。だから、一人で抱え込んじゃ駄目だよ?」

「夢野…………ありがとう」

「ふふ。どう致しまして」


 改めてその実感をすると共に、心から感謝した。

 いつになく可愛く見えた少女に笑顔で応えつつ、大きく息を吸った後でゆっくりと吐き出す。


「そうだな……長くなるかもしれないけど、ちょっと色々と話を聞いてくれるか?」

「うん。喜んで♪」


 俺は最近あったことについて、一から十まで夢野に話していった。

 毎日が勉強の繰り返しで嫌気が差していたこと。

 模試で一向に良い判定が取れず、焦りを感じていたこと。

 周囲では仲間達の合格が次々と決まっていき、羨ましく思っていたこと。

 しかしそれは全て自分の自業自得であること。

 そんな面白さの欠片もない俺の愚痴を、夢野は嫌な顔一つせず真剣に聞いてくれた。


「――――本当、何でこんなに勉強しなくちゃいけないんだろうな」


 幾度となく抱いてきた疑問を、夢野にもぶつけてみる。

 すると今まで俺の話を聞いてくれていた少女は、少し考えた後で口を開いた。


「米倉君は後悔したことってある?」

「え? そりゃまあ、山ほどあるけど……」

「うん。私もいっぱい。きっと人生って、後悔の連続だと思うの。あの時ああしてれば良かったなとか、どうしてこうしなかったんだろうって」


 夢野は何かを思い出すように、空を見上げながら遠い目をする。


「私も勉強が嫌いだったから、中間とか期末の度に米倉君と同じことばっかり考えてたよ。最終的にテスト当日になる度、もっと勉強してたらなーって後悔してた」

「…………」

「だけどこの前の入試の時は少し違ったの。何ていうか「もうできることは全部やった」とか「これだけやったなら大丈夫」って、そんな感じで開き直ってね。受かった今だから言えることかもしれないけど、きっと落ちても後悔はしなかったと思う」


 夢野の話を聞いて、ふと前に阿久津が言っていたことを思い出す。


『世間は『後悔するな』なんて謳うけれど、人間である以上そんなのは無理な話さ。まあ多少なり後悔を減らそうと努力することはできるから、間違ってはいないのかな』


 後悔するのは悪いことじゃなく、後悔から始まる成長だってあるだろう。

 ただ後悔しないように生きるということが大事であるという事実は変わらない。


「受験の本番って緊張するでしょ? 勿論、米倉君がくれたお守りも心の支えになってくれたけど、きっと最後に残るのは今まで積み重ねてきたものだと思うの」


 文化祭が終わってすぐの9月8日は夢野の誕生日であり、AO入試のために頑張っていた少女に対して俺は合格祈願のお守りをプレゼントしていた。

 受験が終わった今でも肌身離さず持っているのか、夢野はブレザーの胸ポケットからお守りを取り出すと大事そうに握りしめる。


「自分に自信をつけるため。それが勉強する理由なのかなっていうのが私の答えかな」

「自信……」


 俺が失っていたものは、まさにそれだった。

 中学時代は根拠もなく自信を持っていた癖に、現実を知った今は真逆の状態だ。


『人が人であるため』


 それが阿久津の勉強をする理由に対する解答であり、幼馴染の少女を尊敬していた俺は過去の汚点を薄めるため頑張り続けてきた。

 しかしながらどれだけ自分の理想である米倉櫻を追い求めたところで、何事にも限界というものがある。

 真面目に努力を続けてきた幼馴染の隣に、こんな短い時間で立てる訳がない。

 そう思い、諦め始めていた。


「そうか……そうだよな……」


 確かにそうかもしれない。

 ただそれは現実ではあるものの、事実ではなかった。

 無理だと決めたのは誰か。

 約束したにも拘らず、諦めようとしてるのは誰なのか。


「…………」


 やるだけやって不合格だった場合、一年の頃から努力しなかったことを後悔するだろう。

 だけどもし今できることをやらずに月見野に行ける可能性を自ら潰してしまったとしたら、俺は変えられたかもしれない未来を一生悔やむことになるに違いない。


「サンキュー夢野。やる気が出てきた」


 受からなかったら恰好悪い。

 しかし途中で諦めるような奴は、もっと恰好悪いだろう。

 いや、恰好悪いどころじゃない。

 それこそ、単なるクソ野郎だ。


「ふふ。良かった」

「よし! そうと決まったら早速帰って勉強だ! 自転車まで競走するぞ夢野!」

「もう。最初から飛ばしてると、家に帰った後でガス欠になっちゃうよ?」

「その時はまた元気を分けてもらうさ」


 ベンチから立ち上がり大きく伸びをした後で答えると、夢野は嬉しそうに微笑む。

 やがて俺達は代山公園を後にすると、コンビニ前の交差点で別れを告げた。


「邪魔にならないように私からはメールしないけど、連絡はいつでも待ってるからね」

「ああ。宜しく頼む。じゃあまたな」

「うん。またね♪」


 見惚れてしまいそうになる微笑みに最後まで癒されつつ、去っていく少女を見送る。

 帰宅後は日曜日の模試に備えて問題集を解き、夕飯前になると階段を下りた。


「…………」

「………………なあ、梅」

「……………………何?」

「その、一昨日は悪かったな」

「………………今日の夕飯、エビフライだって」

「わかった。俺の一本やるから、それでいいだろ?」

「…………二本ね」

「マジかよ」


 …………何と言うことでしょう。

 数分後には「魔法カード発動! 強欲な梅! お兄ちゃんのエビフライを二本ドロー」とか意味不明な発言をしている、普段通りのアホな妹がいるではありませんか。

 これには兄である櫻さんも呆然、思わず苦笑いを浮かべているほどです。


 ――大怪盗! エビ的ビフォーアホダー 終――


「ごちそうさまでした」

「ごち~ん!」

「はい。お粗末様でした」

「あ、お兄ちゃん!」

「何だ?」

「勉強ガンバ! 合格目指して音速ダァッシュ!」

「おう」


 こうして何はともあれ兄妹喧嘩も無事に解決。失いかけていた余裕を取り戻した俺は、自信を身につけるため再び勉強に励むのだった。

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