三日目(木) 結果に繋がらない努力は苦痛だった件

「米倉氏。今日はまたどうしたので?」

「…………疲れた」


 何もやる気が起きず、死体の如く机に潰れていた放課後。俺の元へやってきたアキトの声を聞いて少しだけ顔を上げると、親友は前の席に腰を下ろした。


「疲れた時には美味しい物を食べて、お風呂に入って、ぐっすり寝れば解決だお」

「毎日が辛い」

「さいですか。随分とお疲れのご様子ですな」

「やることが多すぎて色々と無理だわ」


 人間の脳の容量は、単位にすれば一ペタバイト?

 文字情報なら2000万文字?

 そんなどうでもいい雑学は頭に残ってる癖に、肝心の覚えるべき知識が入ってこない。

 自分の駄目さ加減が、つくづく嫌になってくる。


「それが受験ですしおすし」


 人間の記憶には短期記憶と長期記憶、二種類の記憶がある。

 例えばdeviseの意味は工夫する・考案する。evidentの意味は明らかだなんて、今覚えていても明日になれば忘れてしまいそうな記憶が短期記憶。appleの意味がリンゴみたいに忘れようにも忘れられない記憶や年単位で保持されるのが長期記憶だ。

 新しく覚えた知識は短期記憶から始まり、その中のいくつかが長期記憶へと移っていく。その整理整頓を最も行っている時間は眠っている時であり、だからこそ記憶系は寝る前にやっておけば身につきやすいという訳だ。


「…………」


 だからこそ、もっと早くから毎日積み重ねておくべきだった。

 三年あれば一日5単語で済むものも、二ヶ月しかなければ一日90単語である。

 そんな馬鹿みたいな量、覚えられるわけがない。


(それでも他の奴は覚えてるんだぞ)


 そもそも仮に覚えたところで、将来何の役にも立たない知識ばっかりだ。


(いつどこで何の知識が役に立つかはわからないだろ)


 どうしてこんなことをしなくちゃいけないのか。


(自分で選んだ道だ)


「…………わかってるよ」


 そう、全部わかっている。

 過ぎ去った時間を悔やんでいても始まらない。

 元々は自分が悪いだけだと理解はしている。

 高校一年の頃から真面目に勉強していれば、こんなに苦しい思いはしなかった。

 どうしてこうもすんなりと事が進まないのか。

 ああ、またイライラしてきた。


「…………何かもう辛いわ」

「月並みな言葉ではありますが、今が踏ん張りどころだお」

「わかってるよ! 俺だって頑張ってんだ!」


 溜まっていた鬱憤が口から洩れ出す。

 合格を前にしている親友への嫉妬も含めて、気付けば憂さを晴らしていた。


「古典と英語は単語と文法! 化学と物理は丸々一から復習し直して、倫理に至ってはまだ授業でやってない予習部分を独学で覚えていかないといけないんだぞっ?」


 古典はともかく英語なんて一年の頃から毎週のように小テストがあったし、化学や物理も元々は習った時にしっかりと身につけておけば済んでいた話。倫理に至ってはその道を選択したのが自分である以上、アキトに八つ当たりするのはお門違いもいいところである。


「良いよな。もう合格が決まってる奴は」


 一年も二年も頑張った生徒が楽をできるだけで、俺みたいな奴は自業自得でしかない。

 一体コイツは何を言っているんだろう。

 普通ならそう反論してもおかしくないような不満に対し、アキトは静かに答えた。


「…………確かに、米倉氏は頑張ってるお」


 呆れもせず、怒ることもない。

 親友は文句一つ言わずに、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。


「ただここで諦めたら、今まで何のために積み重ねてきたのかわからなくなるのも事実。米倉氏の目指す夢がそこにあるのなら、今の拙者には頑張れとしか言えないお」


 頑張ってはいる。

 しかし頑張っても頑張っても、結果には繋がらない。

 じゃあ俺はどうすればいい。


「…………悪い」


 俺はそう言い残し鞄を担ぐと、アキトを置いて教室を出ていく。

 向かった先はFハウスの三階にある衛星通信方式の講義、サテラー用の自習室。阿久津とは毎週月曜日にここで会うものの、最近は推薦対策のためか姿を見ていない。

 空いていた席に座ると録画されている予備校講師の授業を再生してノートを取っていくが、いつも以上に内容が入ってこないため巻き戻しや一時停止を繰り返す。


「…………」


 文化祭が終わった後で一度、予備校に通うべきかを考えた時期があった。

 しかしながらその頃の俺は基本すら理解していない状態。他の生徒が夏休み中に身に付けていることを考えれば、授業についていくのは難しいだろう。

 サテラーでも最初の頃は一時停止や巻き戻しを何度も駆使してようやくついていけるレベルだったため、最終的に自分のペースで勉強することを選択……した結果がこれだ。


『バーティカルって言うのは垂直。つまりこの長文は人間がこう、両手足で歩いてた頃から進化して、地面に対して垂直の直立二足歩行をするって話で――――』


 画面の中の講師は学校の先生の授業に比べると、センターで出やすい問題や解いていく際の重要点などを遥かにわかりやすく説明してくれている。

 それでも結果が出なければ、一流講師の授業も苦痛であることには変わりない。

 勉強はゲームと違う。

 自分のレベルが上がると相手のレベルも上がるなんてゲームはあるが、勉強の場合は自分のレベル関係なしに周囲のレベルが上がっていく。

 更には経験値も加算方式ではなく、常に数値が減少し続けていくデバフ状態。そしていくら積み重ねたところで、目に見えるようなレベルアップはしない。

 前提である五教科七科目という総量も間違っている。明らかに高校生のキャパシティを超えているし、最初の町付近でラスボスを倒せるレベルまで鍛えるような途方もない作業をしている気分だった。


「………………」


 仮に今日100を覚えたところで一時間が経てば50を忘れ、翌日になった時には70が失われている。エピングハウスの忘却曲線というやつだ。

 ただその翌日に再度記憶することで、覚え直す時間は減っていく。所謂毎日の反復が大事という典型的な例だが、繰り返すことのできる回数はもう限られている。

 例え今日100を覚えたところで、覚えるべき量が100000だとしたら……?


「はあ……」


 余計なことばかり考えて集中を切らしていた俺は、巻き戻すのを止めると道具を片付けて席を立ち、自習室を出てから大きく溜息を吐く。

 家に帰った後は化学と物理をやらなければならず、入浴中は倫理の記憶。何も考えずのんびりできる時間なんて、自転車を漕いでいる時と眠っている時くらいしかない。


『…………ここで約束して合格したら、俺も少しは恰好良くなれたりしてな』


 今になって考えてみれば、目標が間違っていたんだと思う。

 俺が阿久津と一緒の大学に行こうなんて、そもそも無理な話だったんだ。

 アイツはいつだって頑張っていた。

 でも俺は違う。

 …………米倉櫻は阿久津水無月と違って、何一つとして成し遂げていない。


 陶芸部を三年間続けたのは、単純に楽しかったから。

 別に凄いことでもなんでもない。


 文化祭は大変だったけど、それも自分がやりたいことだったから。

 別に困難を乗り越えた訳じゃない。


 でも受験は違う。

 決して避けることができない自分との戦いだ。

 高校受験は運良く受かっただけだった。

 奇跡は二度も起こらない。


「…………」


 いくら後悔したところで、時間は戻らないとわかっていた筈なのにこのザマだ。

 結局のところ、俺は昔から何一つ変わっていない。

 相変わらず口だけで、約束一つ守ることができないクソ野郎だった。

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