四十一日目(日) ラッキースケベが終点だった件
「マジかっ?」
「さっき一回ベリって音がして、最初は気のせいかと思ったんだけど少ししてからもう一回ベリベリって聞こえてきて……とにかく来てくれっ!」
穴から腕を出して脅かすことに夢中だった俺は慌てて立ち上がると、太田黒の後に続いて回転ドアの先にあるペシャ猫ゾーンを確認しに行く。
その状態は朝の時よりも深刻で、ダンボールと壁の境界面だけではなくダンボール同士の接合部分まで剥がれたのか、大きく斜めに傾き宙ぶらりんな状態になっていた。
「よいしょっと」
「!」
外の光が隙間から完全に漏れている中、客は止まることなくやってくる。俺は慌てて太田黒と共に回転ドアの裏へ戻ると、如月がペシャ猫の声を再生させ始めた。
『ニィーーッヒッヒッヒ! よく来たなァ――――』
「どうする?」
「とりあえず続行だ。こっちで何とかする」
残り時間は少ないが、このまま放置すれば丸々剥がれてしまうかもしれない。
ひとまず太田黒には仕事を続けるように指示し、俺は早足で修理道具を取りに戻る。
「背が高い奴、何人かちょっと手伝ってくれるか?」
いざこういう事態になると、手の空いている人員が集まっていたのは幸いかもしれない。この控室②にいるのは今の時間に仕事が入っていない、謂わばフリーのメンバーだ。
三人を連れてペシャ猫ゾーンへ向かうと、俺は窓の淵を足場にして両腕を伸ばし上部の補修。仲間達には剥がれている接合部分を再度ガムテープで貼り合わせてもらう。
「ょぅぶ?」
「ん? ああ、こっちは大丈夫だから、如月は気にせずそのまま続けてくれ」
下から心配するか細い声が聞こえてきたが、親指をグッと上げつつ応えておいた。言うまでもなくこの作業は客から丸見えだが、仕方ないとしか言いようがない。
「よし、オッケーだ。そっちはどうだ櫻?」
「駄目だ。くっつかない」
何度テープで貼り付けても、ダンボールの壁は重さでずり下がってしまう。
確かに補修した分だけ質量が増しているかもしれないが、ガムテープの質量なんて誤差程度の重さであり支えられなくなる筈がないのに、一体何が原因だと言うのか。
「ちょっと待ってろ。よっと」
俺同様に窓の淵へ乗った仲間がテープでガチガチに固めてみるも結果は失敗。もしかしたらテープの上からテープを貼っていることで、粘着力が足りないのかもしれない。
色々と試行錯誤をしてみたが、事態が好転する気配はなし。壁を押さえている今は一応光を防ぐことができているものの、手を離せない状態になったまま十数分が過ぎていく。
「もう残り時間も少ないし、いっそこのまま支え続けた方が早いかもな。人数が多いと目立つし、ここは俺一人で大丈夫だから三人は戻っててくれ。サンキューな」
「良いのか?」
「ああ。他の場所で何かあったら、悪いけど呼びに来てくれると助かる」
「応」
いつでも助けに来るぞとばかりに答えた仲間達が、回転ドアを抜けて引き返していく。できれば最後までちゃんとした形で披露したかったが、今はこれ以外に対処法がないため見て見ぬ振りをしてもらうしかない。
トンネルを抜けてやってきたお客さんは俺を見て困惑するものの、こうして壁を押さえている理由は見れば大体伝わるだろうし、ペシャ猫の音声が再生されたり回転ドアが動いたりすればそっちに意識を向けてくれる。
「…………」
お客さんが回転ドアを通り抜けて次のお客さんが来るまでの間、何度もこちらを見上げてくる如月。相変わらず前髪で表情は見えないが、恐らく心配してくれているのだろう。
いざこうなると筋トレも無駄じゃなかったかもしれない。ここ暫くの間は勉強なり文化祭準備で何かと忙しかったから、かなりサボり気味だったけどな。
「如月。そこ、暑くないか?」
「(フルフル)」
「そうか。後少しだから、頑張ってくれ」
「(コクコク)」
俺が当番をやった時に比べると改良が施されており、ペシャ猫役の待機スペースは少し広くなっている。如月が小柄なこともあって、今はもう一人くらい入れそうだ。
平気だと首を振る少女の頑張っている姿を見せられては、こちらも負けていられない。合間合間で右腕を休めたり左腕を休めたりと交互に繰り返しているが、流石に痛くなってきた腕をブンブンと振って気合いを入れ直してから、携帯で残り時間を確認した。
「…………あっ!」
しかしながら携帯を戻そうとした際、ガラケーがポケットから零れ落ちる。
反射的に拾おうと腕を伸ばし、俺は壁から手を離してしまった。
やばい。
慌てて壁を押さえなおす。
しかしながら、壁は不思議とずれることも落ちることもなかった。
「……………………?」
携帯が傷つきそうな嫌な音を立てて教室の床に落下する中、恐る恐る手を離してみる。
先程までは何度やっても下がってしまった壁は、しっかりと貼りつき光を抑えていた。
「ぃた?」
「ああ。一応くっついたみたいだけど……」
携帯を拾い壁の様子を窺いながら答えるが、いつまた再発するかわからない状況に変わりはない。俺が押さえ続けておけば問題ないが、やはりそれは景観を損ねる。
ベストなのはお客さんの視界には入らず、壁が落ちるようなことがあっても即座に対応できる位置で待機することだが、そんな都合のいい場所が……あるにはあるか。
「………………如月。そこ、俺も入れたりするか?」
「(コクコク)」
仮に無理なら太田黒のいる回転ドアの裏で待機しようと思ったが、俺の考えが伝わったらしい。如月は嫌な顔一つせず(といっても表情は見えないのだが)首を縦に振る。
それならばと少女の言葉に甘えて、新たなお客さんがやってくる前にペシャ猫裏のスペースへ。少し広くなったとはいえ流石に二人で入るには厳しく、腰を下ろすと如月の細い腕や太腿がピトッと触れ合い、女子特有の柔らかい感触が伝わってきた。
「やっぱりちょっと狭かったか。悪いな」
「(フルフル)」
「音声とライト、どっちか手伝うぞ」
「(フルフル)」
大丈夫だとアピールする如月だが、首を振る度に良い匂いがして困るのは内緒だ。
新たなお客さんがトンネルを抜けてやってくると、目の前に広がる森と再生されるペシャ猫の声に驚く。壁を押さえていた時も驚いてくれてはいたものの、一度雰囲気をぶち壊してしまってからの衝撃だったため、やはり反応の違いは大きい。
依然として落ちてくる様子はない壁を黙って見上げていると、ライトで照らした回転ドアをお客さんが抜けて行った後になって、如月が消え入りそうな声で小さく囁いた。
「…………りがとぅ……」
「ん? 何がだ?」
「…………ぅちのこと……黙っとってくれて……」
「黙って……? ああ。そのことか」
「…………その……ずっとお礼……言えんかったから……」
「別に気にすんなって」
如月が博多弁を喋ると知ってから既に一年が経過しているが、お礼を言われるようなことは特にしていないし、そもそも何を今更といった感じではある。
「寧ろこっちとしては美術部の準備だって忙しいだろうに、クラスの方まで色々手伝ってくれたことに礼を言いたいくらいだよ」
「(フルフル)」
そういえば今年の美術部は一体何をやったんだろうか。
如月に詳しく聞こうとした矢先、視界の端を小さな黒い塊が素早く飛んでいく。
「!?」
どうやら開きっぱなしだった窓の隙間から、虫が入ってきたらしい。
別に蜂やGといった誰もが怯えるような虫ではないものの、耳元を飛ばれて驚いたのかビクッとした如月が虫から逃げるように俺に抱きついてきた。
「おっと。大丈夫だって」
別に助けを求めて身を寄せてきた訳じゃなく単に逃げ場がないだけなのだが、俺の左手にマシュマロみたいに柔らかい物がムニュっと食い込む。小柄な身体の割に大きいとは思っていたが、ひょっとして夢野くらいあるんじゃないだろうか。
まあこれはこれでラッキーだし、如月が落ち着くまでは仕方ない……なんて合理化をしていると、新たなお客さんがトンネルを抜けてくる。
とりあえず怯える少女の代わりに仕事をしようとするも、この状態では左手が封じられているため、俺は何とか右腕を伸ばして音声を再生させた。
『ニィーーッヒッヒッヒ! よく来たなァ!』
無事にペシャ猫が喋り始めた後で、困ったことに気付く。
抱きついてきた際に落としたのか、如月はライトを持っていなかった。
「如月、ライトは?」
「(フルフル)」
相当虫が苦手だったのか、俺に頭を擦り寄せるようにして首を振る少女。こんな風に女子から懐かれることなんて滅多にないため嬉しいが、今はそれどころじゃない。
限られている制限時間の中、慌てて手探りでライトを探し始める。
ここか?
こっちか?
『残念ながらここは行き止まり! 何? 先に行きたい?』
ペシャ猫の台詞は昨日よりも短くなっている。
早くしないと間に合わない。
「!」
必死に動かしていた右手の人差し指が、ライトと思わしき物体を弾いた。
すかさず俺は、奥へと手を突っ込む。
「ひゃっ?」
『じゃあこのオレ様が魔法を掛けて道を作ってやろう』
手の甲が温もりある柔肌に触れる。
更に指先が謎の布を擦ると、如月がいつになく珍しい声を上げた。
ただ幸いにもその声はペシャ猫の音声にかき消され、お客さんには気付かれていない。
『ほぅら、道ができたぞ?』
壁の向こうにいる太田黒が、回転ドアをゆっくりと回す。
ギリギリのところでライトを掴んだ俺は、慌てて回転ドアを照らした。
『ただしここから先に行って何が起こっても、オレ様は知らないからなァ……』
驚いたお客さんが無事に先へと進んでいくのを見て、ホッと胸を撫で下ろす。
しかしながら隣にいた隠れ巨乳な少女は、俺から離れてスカートを抑えていた。
……………………何故にスカート?
そう思い、数秒前の自分の行動を振り返ってみる。
「…………」
「………………」
もしかしなくても、俺がさっき手を突っ込んだ場所って……如月のスカートの中?
よからぬ妄想が脳内に広がっていく一方で、虫よりも隣にいる狼の存在が恐ろしくなったのか完全に怯えてしまっている少女にそっと声をかけてみる。
「その……如月? ゴ、ゴメン……」
「…………」
『ニィーーッヒッヒッヒ! よく来たなァ――――』
如月は首を縦にも横にも振ることないまま、新たなお客さんが来ると黙ってペシャ猫の声を再生させる。ライトを持っていた俺は、音声に合わせて回転ドアを照らした。
「えっと…………如月……さん……? わ、悪気があった訳じゃなくて……」
「…………」
信頼というのは積み上げるのは大変なものだが、崩れる時は一瞬である。
結局その後は音声とライトを分担する形に。文化祭終了のアナウンスが聞こえるまで壁が落ちてくることはなかったが、俺が如月から言葉を返されることもないのだった。
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