三十日目(日) 時には休憩も必要だった件

「よう。テツと早乙女はどうしたんだ?」

「鉄君なら夜に備えて準備室で仮眠を取っているよ。星華君は数分前に帰ったところさ」

「そうか。伊東先生は――――?」


 そう尋ねかけたところで勝手口が開くと、糸目の顧問がタイミング良く登場。話を聞けば窯場での焼成は既に始まっており、温度も安定したところだったらしい。

 文化祭準備で来るのが遅くなり心配させてしまったことを詫びつつ、鞄を置くと桜桃ジュースで水分を補給。テツと交代するのは大体日付が変わる頃になるだろうから、ここから先は睡魔との長く苦しい戦いが始まる訳だ。


「それでは先生は一旦帰りますので、今回も三時くらいまで宜しくお願いします」

「わかりました」


 窯番も三度目になるが今までと何ら変わりない様子。特に新しい注意もされないまま伊東先生は一旦帰宅し、陶芸室には俺と阿久津の二人が残される。

 目の前で幼馴染の少女が黙々と古文の参考書のページを捲っていく中、俺は以前の定位置だった向かいの椅子に腰を下ろすと、机へ突っ伏すように身体を預けた。


「だいぶ疲れているようだね」

「まあな。今日も暑かったし、朝から走り回って流石に疲れた……」

「良かったら使うかい?」

「ん……? ああ、サンキュー」


 阿久津が差し出してきたのは汗拭きシート。普通なら単なる親切心と受け取るところだが、俺は中学時代の苦い記憶である体臭事件を思い出してしまう。

 ひょっとしたら汗臭いことを遠回しに伝えようとしているんじゃないか……そんな不安に駆られて鞄からタオルを取り出すと、身体を拭く前に水道へ移動。一日分の汗が染み込みベタついていたYシャツを脱ぐと、蛇口を捻って豪快に洗い始めた。


「…………」


 上半身裸になった俺を気に留めることもなく、阿久津は黙って視線を参考書に戻す。前にテツの奴が同じようなことをやった時は、早乙女がギャーギャー騒いでたっけな。

 水の滴っているYシャツを強く絞ってから、机の上に逆向きで乗せられている椅子に引っ掛けると扇風機の風を当てておく。その後で今度は流れている水の中へ頭を突っ込み、グシャグシャと思いっきり髪を洗った。


「ぷふぃー……」


 用意したタオルで髪を拭いてから席へ戻ると、阿久津の汗拭きシートを数枚貰い身体を拭いていく。頭も身体もスースーして全身さっぱりしたし、これで臭いも大丈夫だろう。

 頭と一緒に顔も洗ったことで、訪れつつあった眠気も少しマシになった気がする。


「サンキュー」

「どう致しまして」


 拭き終えたシートをゴミ箱に捨ててから礼を一言。幼馴染の少女はサラリと答えた後で汗拭きシートを片付けるが、俺の身体を観察するようにまじまじと眺めていた。


「ん? 何だよ、ジッと見て」

「いいや、何でもないよ。着替えは持ってきているのかい?」

「まあな」


 勉強や文化祭準備に追われて筋トレができない日も増えてきたが、プールに誘われたら行ける程度には引き締まっているとは思う。まあ結局のところ女子からプールに誘われることなんて、三年間の高校生活の中で一度もないまま終わりそうだけどな。

 阿久津の質問に答えつつ鞄の中から取り出した着替えは、ペシャ猫の絵が描かれている紫色のクラスTシャツ。昨年の『HEY! HEY! お姉ちゃんお茶しない?』とは違って、これなら普段着としても充分に使えそうなデザインだ。


「良いクラスTシャツだね。音穏から色々と話を聞いているけれど、今年はキミを中心に文化祭準備を随分と頑張っているそうじゃないか」

「まあ、クラスの皆の協力があってこそだけどな。このTシャツだってデザインしてくれたのは女子だし、技術関係はアキトに頼りっぱなしだ。中心って言っても所詮は建前だけで、俺は大したことを何一つやってないし一人じゃ何もできないっての」

「ボクはそんなことないと思うけれどね」


 阿久津のフォローは嬉しいが、これは謙遜ではなく本心である。

 企画を決め、ダンボールを調達し、必要な工程の一覧表を作る。こういった作業はアキトが手掛けたドア作りと違い、誰にだってできることばかりだった。


「そっちは、今年は何をやるんだ?」

「ポテトの食販さ。ただ予備校が忙しいから、手伝いにはあまり行けていないかな」

「まあそうだよな。ウチのクラスも大半がそんな感じだし」


 クラスTシャツに袖を通した後で、再び阿久津の向かいの椅子に腰を下ろす。

 そのまま疲れ切った身体を休めるために頬杖をつきつつボーっとしていると、目の前にいた幼馴染の少女は手にしていた参考書をパタンと閉じてこちらを見た。


「キミは大丈夫なのかい?」

「ん? 何がだ?」

「勉強だよ。調子はどうなのかと思ってね」

「言われなくても、ちゃんとやってるっての」

「いいや、別に責めている訳じゃないんだ。ただ少し不安になっただけだよ」

「不安って、何がだよ?」

「最後の文化祭に力を入れているのはいいけれど、それが原因でキミが後悔することにならないか心配なのさ。万が一にも不合格なんてことになったら、間違いなくこの夏が心残りになりそうだからね」

「確かにそうかもな」


 俺が文化祭準備に力を入れていた時間も、他の受験生は勉強していることは紛れもない事実。阿久津みたいに一年や二年の頃から真面目に努力していたならまだしも、俺のように不真面目だったとなれば尚更その差を埋めなければ勝負にもならないだろう。

 そう考えると、例え疲れていようが休んでいる暇なんてない。阿久津に言われて我に返った俺は、鞄の中から姉貴のお下がりで貰った語呂合わせで覚える古文単語の参考書を取り出すと、しおりを挟んでいた途中のページから暗記を始めた。


「……………………っ!」


 しかしながら、始めてから僅か数分で覚めた筈の眠気が舞い戻りウトウト状態。無意識のうちに瞼が閉じていき、首がカクンとなったところでハッと目を覚ます。

 そんな玩具みたいな動きを何度も続けているうちに見兼ねたのか、阿久津はやれやれといった様子で大きく溜息を吐いてから口を開いた。


「疲れている時に無理をして叩きこんだところで、頭には入らないし効率も悪いよ。ボクはまだ一時間くらい残っていられるから、今のうちに少し仮眠でも取ったらどうだい?」

「いや、流石にそれは悪いだろ」

「元々残って勉強していくつもりだったから、ボクのことを気にする必要はないさ。寧ろ今のままだとキミがそんな状態で窯の番すらできるのか不安で、帰るに帰れないくらいだね」


 …………確かにそれもそうか。

 ここで変に無茶をして窯に問題が発生しても気付かず、俺一人のせいで部員全員の作品が焼き上がらなかったなんて事態になったら、それこそ仲間達に顔向けできない。


「そうだな。それなら悪いけど、三十分経ったら起こしてくれるか?」

「構わないよ。膝枕は必要ないのかい?」

「もしもテツが目を覚ましてそんなところ見られたら、間違いなく発狂するぞアイツ」


 これ以上ない御褒美とも言える申し出だが、今回は遠慮しておく。俺にも面子ってものがあるし、この眠気では以前のように膝枕を堪能する前に眠ってしまうだろう。

 ここまで疲れを感じているのは初めてかもしれない。猛烈に瞼が重く、今なら横になって目を閉じれば一分足らずで眠りにつける……そんな自覚があるくらいだ。


「それにまたお前にアルカス扱いされるのは勘弁だからな」

「…………そうかい」

「じゃあ、三十分後に頼む」

「ああ。おやすみ」


 苦笑いを浮かべてそんな答えを返しつつ、へにゃりと脱力すると腕を枕代わりにする。

 心なしか突っ伏す直前、阿久津が曇った表情を見せていたような気がしたものの、疲れ切って頭が働いていなかった俺は数十秒後には眠りにつくのだった。

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