三日目(金) 水族館がまたいつか行きたい場所だった件
「阿久津っ?」
「やあ。元気そうで何よりだよ」
驚きのあまりヒトデが掌からこぼれ落ち、チャポンと水の撥ねる音がする。まさかこんな所で会うことになるとは思ってもいなかった。
「お、驚いたな」
「何をそんなに驚いているんだい? ボクの自由行動がキミ同様に水族館からスタートすることは、確か前に部室で話していたと思うけれどね」
「そりゃそうだけど……」
「あ~、閏ちゃんだ~」
「!」
阿久津の後に続いてやってきたのは女子二人組。どうやら如月の知り合いらしいが、確かこの二人は文化祭の時にブラックライトアートの展示前で声を出していた気がする。
「……ミナ、おはよ」
「おはよう音穏」
「あ~、この子が噂の音穏ちゃん~?」
「どもども。いつもウチの水無月と閏がお世話になってます」
「……こちらこそ」
「一体ボクがいつお世話になるようなことをしたんだい?」
「(コクコク)」
女子同士での挨拶が始まる中、水槽内のナマコの如く孤独になった俺は再び手洗い場へ。とりあえず冬雪の依頼も無事に達成したことだし、一足先に進むとするか。
「へ~。タッチプールなんてあるんだ~」
「何これ? メッチャブニュブニュしててウケるんだけど!」
俺があれだけ敬遠していたナマコを、いとも容易く触るだけじゃなくガッチリ掴み上げている女子二人。どの辺がウケるのか教えてくれませんかね? いやマジで。
若干自分の情けなさを感じつつアキトと合流しようと先へ進めば、そこは綺麗なサンゴの海。エメラルドグリーンに輝く世界に、思わず目を奪われる。
「ふむ。水槽に屋根が付いていないから、直接太陽の光が差しこんでいるんだね」
「ああ……ふぁっ?」
「何を変な驚き方をしているんだい?」
「いやお前、さっきの連れは?」
「まだタッチプールでナマコやヒトデと戯れているかな。音穏がナマコの口を見せてほしいなんてリクエストをしていてね。少し時間が掛かりそうだったから、混み始める前にメインスポットを見に行こうと思ったんだよ」
「メインスポット?」
「キミも一緒に来るかい? いくつか水槽を飛ばすことにはなるけれど、空いているうちに足を運んでおいた方が良いらしいからね」
「ほー」
こういうときはコイツに付いていく方が、何かと正解だったりするんだよな。
そんな長年の経験に基づき、俺は阿久津の後に続いて『サンゴ礁への旅』がテーマの三階から『黒潮への旅』をテーマとしている二階へ降りると先に進む。
「――――――」
その先に待っていたのは、紛れもない海そのものだった。
何もかもがでかい、水の中の世界。
あまりの美しさに圧倒され、完全に言葉を失う。
『黒潮の海』
俺達の目の前に広がっているのは、そう呼ばれているこの水族館のメインスポット。建物は四階建てだが、その一階から二階をも貫く世界最大級の水槽だった。
まるで映画館のスクリーンみたいに巨大な水槽の中をジンベエザメが、マンタが、カツオの群れが、色鮮やかな魚達が優雅に泳いでいる姿は、まさに圧巻としか言いようがない。
未だかつて見たことのない光景を前にして、俺はすっかり魅入ってしまっていた。
「凄いね」
「ああ」
少しして阿久津がポツリと呟く。
恍惚とするあまり、それ以外の言葉は浮かんでこない。
幼馴染の少女が隣で写真を撮り始める中、時間が過ぎるのも忘れて夢中になっていた。
何分くらい眺めていただろうか。
三階から順に回ってきた人達も徐々に集まり始め、開館して間もないにも拘わらず見所だけあって混んでくる。すると阿久津が頃合いを見計らって口を開いた。
「そろそろ次の場所に行ってみるかい?」
「まだ他にもメインスポットがあるのかっ?」
「この『黒潮の海』を下から見上げるアクアルームもオススメだそうだよ。時間限定で水槽の上に行けるプログラムもあるみたいだけれど、流石にそこまで見るのは難しそうかな」
「下からっ? 行こう!」
阿久津が移動を始めると、俺もそれに合わせてついていく。
テンションも上がりワクワクしながら先へ進むと、目的地に到着するなり思わず声を上げてしまった。
「うおー。でっけー」
再び目の前に広がる壮大なパノラマ。半ドーム状になっているアクアルームの天井をなぞるように悠々とエイが下りていき、再び上へと戻っていく。
実際にやった経験はないが、スキューバダイビングをしている人の気分とでも言うべきだろうか。前後左右に加えて上方向を水に囲まれた中、先程見たジンベエザメやマンタを今度は下から見上げる形だ。
「これはまた凄いね」
阿久津は感心しながら再びスマホを取り出すと、別アングルの魚達を撮り始める。
陶芸部の合宿や文化祭の時に写真を撮っているイメージはなかったので、単純に水族館が好きなのかもしれない。まあ、こんな光景を見せられたら撮りたくもなるか。
水槽が背景になるように子供の写真を撮っている親を見て、俺はいつになく生き生きしているように見える幼馴染の少女へ声を掛けた。
「なあ阿久津。せっかくだしお前も撮ってやろうか?」
「いいのかい? それなら、あの辺りで頼めるかな」
あんまり撮るのは得意じゃないが、まあ何とかなるだろう。
俺のガラケーより数段画質の良いスマホを受け取ると、阿久津の指差した方向へ移動。この位置って要するに、バッグにジンベエザメを写せってことだよな?
「はい、チーズ」
ピピッという音と共に撮影完了。撮った写真を見せるが、上手い具合にジンベエザメが寄って来てくれたこともあって満足してもらえたみたいだ。サメ君、サンキューな。
「ありがとう。キミも撮ってあげようか?」
「いや、俺はいいよ」
「旅の思い出は必要だろう」
「思い出は写真に撮って残すよりも心に刻む派なんだ。それにもしも欲しい写真があったら、後でお前とかアキト辺りから貰うからさ」
「そうかい。まあ無理にとは言わないけれどね」
やれやれと溜息を吐いた阿久津は撮影を再開する。口にこそ出さないものの、コイツが楽しそうに写真を撮っている姿を眺めているだけで充分な旅の思い出だ。
アクアルームの客も少しずつ増え始める中、あまりにも凄い光景を前にしたせいか少年が一人口を開けたまま固まっていた。さっきの俺、ちゃんと口は閉じてたよな?
「あのー、すいませーん」
「はい?」
「もし宜しければ、写真を撮っていただけないでしょうか?」
「いいですよ。場所はここで大丈夫ですか?」
「はい」
夢中になっている少年の母親と思わしき人から声を掛けられ、俺はデジカメを受け取るとカメラを構える。サメ君、もういっちょ良い感じで宜しく頼むぞ。
「撮りますよー? はい、チーズ」
「ありがとうございます」
「もし良ければ、お二人も撮りましょうか?」
「え?」
デジカメを返すなり、少年の父親からそんなことを言われた。思わぬ返しに驚いていると、いつの間にやら俺の背後にいた阿久津がスマホを差し出しつつ答える。
「すいません。お願いしてもいいでしょうか?」
「はい。構いませんよ」
「え? いや、俺は別にいいって」
「せっかく撮ってくれると言ってくれているんだから、ご厚意に甘えるべきだよ」
ここまで話が進んでしまうと、今更断るのもどうかという話。俺は阿久津と共に水槽を背にすると、スマホを構える御主人に向けて精一杯の作り笑いを浮かべた。
「それじゃあ撮りますよ? はい、チーズ」
「どうもありがとうございます」
撮ってもらった写真を横から覗きこんでみれば、まさに美女と野獣。この隣にいる不気味な奴は、一体どこのどいつなんだろうか。
自分の顔は普段視界に入らないため全く気にしないものの、こうして写真に撮られると傍からはこういう風に見えているのかと実感させられるため嫌になる。
「さっきまでは子供みたいな顔をしていたのに、どうしてこうも表情が硬いんだい?」
「写真は苦手なんだから仕方ないだろ。そんなことより、ここの次は何があるんだ?」
「さて、何だったかな。ボクは水族館のスタッフじゃないからね」
「ヒトデの口の位置まで知ってた癖に。メインスポットといい、事前に調べてきたのか?」
「まあ、ある程度はね。滅多に来ることができない場所だし、せっかくこうして行く機会ができたなら満喫したいじゃないか」
「確かに。下手したらさっきの水槽とここだけで、一時間半くらい余裕で過ごせそうだもんな。そういや阿久津は水族館の後はどこに行くんだ?」
「予定としてはこんな感じだよ」
「へー。午前中は俺達とほぼ一緒だな」
幼馴染に見せられたスマホの画面に映っている一日の計画を確認すると、次の目的地は俺達と行き先と同じで色々と体験できるガラス工芸館だった。
今回の自由行動が首里城ではなく水族館コースになった理由は、こうした芸術の鑑賞や体験といった要素が多いため。阿久津の班にも美術部員が二人いたことを考えると、冬雪や如月と同じような考えだったんだろう。
「すっかり置いてくる形になったけど、他の連中と回らなくて良かったのか?」
「ボクの班は男子は男子でつるんでいるし、あの二人は音穏達と一緒に回っているだろうから問題ないさ。そういうキミこそ、ボクと一緒で良いのかい?」
「ん? いや、俺はお前のお陰で楽しませてもらってるから、逆に礼を言いたいくらいだけどな」
アキトと川村は自由に歩き回っているだろうし、冬雪と如月は一緒だから問題ない。そもそも冬雪も如月も割とマイペースだから、芸術鑑賞となれば一人でも楽しんでいる気がする。よくよく考えてみると俺の班、マイペースな奴が多すぎじゃね?
「それならお互い様だよ」
「?」
アクアルームを後にして歩いている途中で、阿久津がポツリと一言。俺が礼を言われるようなことをした覚えはないが、何がお互い様なんだろうか。
二階をざっと回り終わったところで階段を下りると、辿り着いたのは『深海への旅』と書かれた一階。どうやらここの水族館は入口のある三階が浅瀬から始まり、下の階へ行くにつれて海の底へと潜っていくようなイメージで作られているようだ。
深海という文字を見て文化祭で夢野と見に行ったブラックライトアートを思い出したが、一言で深海と表現しても定義としては水深200メートル以降の海域を示すらしく、中に入ってみると美術部の描いたような海底の世界ではなかった。
「部屋も深海って感じで暗くなってるんだな」
「確かに雰囲気のことも考えているだろうけれど、それ以上に飼育方法の都合が関係していると思うよ。水深200メートルなら光以外にも水温や圧力だって違うだろうし、深海の生物を育成するのは難しいんじゃないかな」
「はー。成程な」
一つ一つの水槽を眺めながら先へ進んでいくと、水深600メートル付近の温度を体験できるコーナーを発見。確かに阿久津の言う通り、その水温は9℃と物凄く冷たかった。
その更に奥にあったのは、海のプラネタリウムという名前の部屋。暗めの部屋の中ではまるで蛍みたいに光を発している魚や、紫外線を反射して輝くサンゴの様子が何とも分かりやすい。
「櫻。こっちに来てくれるかい?」
「ん? 何だよ?」
「キミにピッタリな魚がいると思ってね」
何かと思い見てみれば、阿久津が指さしているのはサクラダイ。名前にサクラが付く魚なんて割と結構いそうだが、突っ込むのは止めておいた。
滅多に見ることができない深海世界を前にして、普段はクールな阿久津も若干ウキウキな様子。それこそ子供みたいに水槽に張りついている姿を見せられたりすると、こちらも自然と口元が緩んでしまう。
「この水槽は空に見えるけれど、一体どこにいるんだろうね」
「あ! あれじゃないか?」
時には面白い動きをする魚を一緒に見たり、また時には水槽の中に隠れている生き物を二人で探したりと、水族館での会話は自然と弾んだ。
「どこだい?」
「ほら、あそこにいる小さい奴だって」
「んー?」
「っ!」
小さめの水槽の端に隠れていた変な形の魚を指差すが、見つけられない阿久津は身を寄せてくる。意図していなかった接近と触れ合う肩にドキドキさせられるが、今日はアルコールも入っていない当の本人は特に意識していないのか純粋に楽しんでいるようだ。
「あっ! ひょっとしてあの隅っこにいるのがそうかい?」
「そ、そうそう!」
「ふむ。流石にあれは中々気付か――――」
不意に阿久津がこちらを振り向く。
間近で見る整った顔立ち。
当然ながら目が合い、一時停止していた少女はハッと我に返ると距離を取った。
「つ、次に行こうか」
「あ、ああ……」
いまいち阿久津らしくない反応を見せられ違和感を覚える。まさかとは思うが、夢野が言っていた民泊で酒を奨められた生徒ってコイツのことだったりしないよな?
深海の旅も終わりを迎えると、抜けた先にあったのは出口とショップコーナー。改めて考えてみると、最初から最後まで阿久津と一緒に回る形になっていた。
しかし時間は思っていた以上に過ぎていたらしく、腕時計を見た阿久津が口を開く。
「ふむ。丁度頃合いだね」
「ん? うわっ? マジかっ! 最初に通り過ぎた三階とか、ほとんど見てなかったぞ? それに四階なんて全然行くことすらできなかったし」
「そんなことを言い始めたら、黒潮の海の水上観覧コースにイルカショー、アクアラボと行きたい場所はキリがないよ。また大学生になってからでも来れば良いじゃないか」
「うーん、大学生か。仮に来る機会があるなら、今度はあのでっかい水槽の前にあるカフェでのんびりできるくらい、充分に余裕を持ってゆっくり見たいもんだな」
「そのためにはアルバイトでもして、旅費を貯める必要がありそうだけれどね」
「だよな」
鼻で笑う阿久津に対し、俺は苦笑いを浮かべる。
集合時間まで残り十分という程良い時間配分をした少女と共にお土産に良さそうな物があるか探しつつ、シークヮーサーが出てくる蛇口の話など阿久津の二日目について聞いていると、程なくして冬雪達もやってきた。
「四人一緒に回っていたのかい?」
「……(コクリ)」
「うんうん。楽しかったよ~」
「?」
阿久津の友人二名が妙にニヤニヤしている気がするが、水族館特有の爆笑ハプニングでも見ることができたんだろうか。後で冬雪に聞いてみるとしよう。
それから少しして集合時間ギリギリになりアキトと川村、更には阿久津の班の男子達が早足気味に帰還。あの様子だと前半をゆっくり見て、後半の深海辺りは駆け足だったんだろうな。
「なんだい? ボクの顔に何か付いているのかい?」
「いや、何でも」
ツアーガイド阿久津による案内に、改めて心の中で感謝しておく。
またいつか来る機会があれば良いなと思いつつ、俺達は水族館を後にした。
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