2章:俺の彼女が300円だった件

初日(水) 後輩のお父さんが切り株だった件

『あだ名』


 とても身近なこの言葉には、実は二つの意味がある。

 一つは誰もが良く知る、愛称や蔑称としてつけたニックネーム。漢字で書けば渾名とか諢名、綽名なんて書くらしいが、いずれもぼやかすとか曖昧という意味の当て字だ。

 ならもう一つとは何か。

 漢字で書くと徒名または仇名……その意味は男女関係についての噂や色事の評判、濡れ衣など根拠のない悪い噂を示す言葉らしい。


「…………はっ?」


 そして古文の勉強中に『あだし』の意味を検索していた米倉櫻よねくらさくらは今、電子辞書という名の文明の利器が仇になったことに気付く。

 明日はテスト最終日。

 現在時刻は午後十時だが、ネットサーフィンならぬ電子辞書サーフィンを楽しんでいた結果、現代社会という暗記科目に未だ手を付けていない。


「何故俺はあんな無駄な時間を…………」

「お~邪魔~虫~」

「梅先生……勉強がしたいです……」

「はえ? すれば?」


 諦めた。試合終了した。

 パジャマ姿のマイシスター、米倉梅よねくらうめは登場するなり首を傾げる。ちなみにコイツも昨日まではテスト期間だったが、俺より一日早く地獄から解放されていた。


「ノックもせずに人の部屋へ入るなって言ってるだろ?」

「ノックならしたよ?」

「ん? ああ、俺が気付かなかっただけか」

「心の中で」

「気付けるかっ! ただの心音じゃねーかそれっ!」

「お前なぁんか勘違いしとりゃせんか? お前の為にノックをするんじゃねぇ……ノックの為にお前がいるんだ!」

「ワンテンポ遅れた名台詞を言ってないで、用が無いならさっさと去れ。お兄ちゃんは今、時を賭ける青年だ。タイムリーブとかじゃなくて、時間との勝負中なんだよ」

「ふっふっふ……これな~んだ?」

「?」

「あ、ちょっ……ちょっとタンマ! テイクツーで」

「時間押してるから、巻きで頼むな」


 後ろ手に回した後で、尻ポケットから何やら取り出そうとして失敗したらしい。

 改めて準備ができたらしい梅は、二枚の紙切れを見せつけてきた。


「ジャン!」

「ん……? 捨てる神あれば拾う神ありって諺はあるけど、まさかお前が神を紙と勘違いしてるとはな……そんなの、どこで拾って来たんだ?」

「拾ってないよっ!」

「どこで拾ったか知らんが、ウチじゃ捨て紙は飼えないって前々から言ってるだろ。散歩に食事に、ちゃんと世話できるのか?」

「捨て紙って何っ? そうじゃなくて、後輩から貰ったの」

「あー、ジャンってのは後輩の名前か」

「も~お兄ちゃん、そんなにふざけて、後悔しても知らないよ?」

「後輩と後悔って似てるな」

「はぁ~……これこれ、よく見て。注目!」

「んー? なっ? こ、これはっ!」


 梅に近づけられた紙を見れば、どうやら映画の割引券らしい。

 しかもこれは今、絶賛話題沸騰中の名作『彼女の名は』を激安価格で見られる様子。とある少女の名前を思い出した俺にとっては、色々な意味でタイムリーなネタである。


「お、お前、これを一体どこでっ?」

「後輩のお父さんが切り株らしくて、それで貰ったんだってさ」

「それを言うなら株主だ」


 お父さんが切り株って、後輩は植物人間か……って、これはこれで怖い意味になるな。


「本当なら梅がマーちゃん達と行く筈だったんだけど、何かマーちゃんもミーちゃんも都合悪くなっちゃったんだよね~」

「そ、そうなのか」


 ならムーちゃんを誘えばいい。お前も入れたらメーちゃんまで完成じゃないか。

 普段ならそんな突っ込みを返すところだが、ここは様子を窺って梅を立てておく。俺にも兄としてのプライドがあるし、馬鹿正直に欲しいなんて口が裂けても言えない。


「お兄ちゃん、これ欲しい?」

「べ、別に余ってるって言うなら、貰ってあげなくもないんだからねっ!」

「無いわ~。お兄ちゃんツンデレとか聞かされると、梅引くわ~。チェリーボーイなんてあだ名付けられても仕方ないって、悲しくなっちゃうわ~」

「何故お前がそれを知っているっ? 阿久津かっ? 悪苦痛なのかっ?」

「あ、そうだ。ミナちゃんと見に行こうかな~」

「!」

「お兄ちゃん、欲しいの? 欲しくないの?」

「はい、欲しいです」


 あ、口裂けたわ。口裂け男になったわ。


「じゃあ三回回ってワンって鳴いて」

「ウゥ~~~ワンッ!」


 ベッドという名のステージ上ではないが、スケーターみたいなターンを決めてから鳴いた。何かこのやり取り、逆の立場で一週間ちょっと前に見た気がしないでもない。


「よしよし。じゃあお兄ちゃん、梅と一緒に見に行こっか」

「何でだよっ?」

「冗談冗談。梅はマーちゃん達と一緒に見るもん」

「ん? マーちゃんもミーちゃんもムーちゃんも、行けないんじゃなかったのか?」

「一人増えてるし……ふっふっふ。三人で行く筈だったのに割引券が二枚だなんて、おかしいと思わないお兄ちゃん? ちゃ~んと……あ、ちょいタンマ! テイクスリーで」

「ま、まさかっ?」

「ジャン!」

「おお!」

「ジャジャン!」

「おおっ?」

「ジャカジャン!」

「お、おお……?」

「ジャラジャジャジャンジャジャーン!」

「いや多過ぎだろっ!」

「梅だって最初は三枚でいいって言ったけど、くれるって言うんだもん」


 十枚はあろう割引券を、ババ抜きみたいに広げて見せられた。

 これがバスケ部の新世代部長によるカリスマの力なのか……我が妹、恐ろしい子。


「だからこれ、残ったの全部お兄ちゃんにあげるから!」

「あげるって……おいっ?」

「蕾さんとか相生さんとか、冬雪ちゃんにプレゼントしておいて! お休み梅梅~」


 言いたいことだけ言うなり、妹は俺に六枚の割引券を押しつけ去っていった。


「プレゼントって言われてもな……」


 机の上に置いたまま、未だ飲めずにいる桜桃ジュース。他の物は冷蔵庫の中なのに、一つだけ特別なペットボトルをチラリと見た俺は深々と溜息を吐くのだった。

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