第5話 これから海に行かないと。
釣りに行く日の目覚めは良い。
仕事の時もいつもこれほど目覚めが良いと楽なのだが、そういうことにならないのが不思議だ。
思えばベッドに入ったのが十二時になろうとしていたのに三時には目が覚めてしまった。
ここからF町の海岸までは車でのんびり行っても三十分か四十分くらい掛かると思うのでぼちぼち準備してもいい頃かな。
日の出の時間は四時半過ぎになるが明るくなるのは今日の天気次第だろう。
車に荷物を詰め込んでマンションの駐車場から出発。
途中、近くのコンビニエンスストアに寄ることにする。
これは大変重要なことだ。
夏の海はなんだかんだ言っても暑くなる。水分や食料は大変重要なアイテムだ。
特に板氷。夏の釣りでは欠かせないマストアイテム。
クラッシュされた氷も悪くないが、板氷のほうが断然長持ちする。
ここではこれらを買い揃えないと魚と対戦する前に敗北する。
体調を壊すために釣りをするわけではないからきちんと準備をしておかなければなるまい。
しかし、食料といっても、コンビニ弁当というわけにはいかない。
すぐに食べるというならまだしも、夏は痛むのも早いので今日の所はブロック食やゼリー食が良い。これらは食後のゴミも小さくできる。
駐車場に車を置いてコンビニに入り、目当てのブロック食とゼリー飲料食を二つずつ買い物カゴにいれ、次に飲料コーナー。
すでに十リッターポリタンク一杯の水道水を車に積んである。
手洗いなどはこれで十分。
でも飲料となると水より吸収力の高いものが重要。
雨で太陽がでないとしても夏は夏。
二十五度を上回れば汗による消耗は避けがたい。
ここでは無難にペットボトルのスポーツドリンク。
一瞬ビールも…と思うがそれは家に帰ってからにしよう。
「本日の肴は魚」だ。
ついでに少しおやつも。
手が汚れる恐れもあるので個別包装のクッキーかビスケットが良いのだが、食料がブロック食なので粒ガムとキャディーを。
そして板氷を二つ。
レジで会計を済ませると二千円で釣りがくる。
車に戻ってそれらをクーラーボックスに詰める。
昨日の帰りに降っていた雨も現在は止んでいるが、アスファルトは濡れた状態のまま。
ハンドルを握る手もやや緊張気味になる。
何度か生あくびは出るもの、行き交う車は少なく、スピードを出さなくても車は順調に進んでくれた。
「T町の先の丁字路を左に曲がると近道だったよな。」
と、つい独り言が出てしまった。
T町に入る前のR町の辺りで赤信号に捕まる。
ちょっと車の窓を開けると海の潮の匂いが少し混じった重い感じの風が入ってきた。
それも海水浴場などの爽やかな海の匂いではない。
ヘドロを含んだような港の海の匂い。
この辺りは港に入ってくる船のための工場や倉庫が多い場所なのでどうしてもそういう匂いがしてくる。
嫌いな匂いではないのだがこの辺りで釣れる魚は食べる気がしない。
もっとも「釣れたとしたら」の話だが。
そこから先は信号機にも恵まれ、T町にある火力発電所の所まではスムーズに走っていくのだが徐々に風の匂いが変わってくる。
港から離れると全く匂いが変わる。
油を含んだ淀んだ匂いではなく、爽やかな潮の匂いになる。
火力発電所の横を海岸線に向かう車線に車を入れ、丁字路を曲がるとあっという間に風が海の風に切り替わった。
ちょっ湿り気の混じった潮の匂い。
雨上がりということもあって排ガスなどの匂いも少なく、海辺の町に来たという気持ちになってきた。
いや、これは釣り人にしてみたら「戦闘準備」の予兆。
いやいや、こんなに楽しい戦闘準備はない。
もう気持ちが逸ってくるのだが、いやいやいや、ここで焦るのは危険だ。車に乗っているのだから。
とはいうものの、この先のエル字カーブを左に曲がれば更に潮の香が強くなって、なんとなく波が堤防の消波ブロックにぶつかるような音が聞こえそうな、そんなイメージが強くなってくる。
暫く車を走らせると製材所が並ぶF町に入った。
たしか、製材所の先に釣りエサの自販機がある所の横に駐車場があるという話だった。
先の一角が妙に明るい。
自販機がいくつも並んでいる中に釣りエサの自販機が見えた。
周辺に商店があるようではないのだが、いわゆるオートスナック然としているようで、しかしやはり違うのだろうか。
その横に砂利で整備されたスペースがあり、駐車ができるということなのだが、すでに車が数台止まっていて、明らかに釣り支度中の人の姿が見えた。
その車から一台分開けた横に車を停めて、エンジンを切る。
さ、戦闘準備。
私は車を降り、百円ショップで買った白い雨合羽を羽織る。
そして後部座席に置いた釣り竿と道具の入ったバッグとクーラーボックスを両肩にかける。
車のカギをかけて顔を上げると数十メートル先に堤防に上る階段が見える。
特に立ち入り禁止という看板が出ているわけではないが、かといって誰もが立ち入って良いものでもないのだろう、少し覚悟をする。
落ちたりしたらもちろん自己責任だ。自分の身は自分で守る。それが釣り人の鉄則。
そうならないためには極力危険なことはしない。
例えそこに大物が潜んでいようとも。
さあ、その境界に向けて階段に足を掛ける。
ふと波の音が耳に飛び込んできた。
そう、もうすぐそこに海があるんだ。
階段は雨で湿っている程度で特に滑るほどではない。
八段くらいの簡素なコンクリの階段を上がった瞬間、潮風が顔に向けて体当たりをかましてきた。
目の前には消波ブロックが並ぶ海。
手前に消波ブロックが並び、50メートルほどの沖に消波ブロックが陸を守るように並ぶ。
そこまで道を作るかのように消波ブロックが繋がっている。
なんというかいくつも消波ブロックで生け簀を作っているような風にも見える。
西側を眺めると火力発電所の煙突が何本か立っていて、その先端から炎が立ち上る。確かガスを燃やしているということだが。
その発電所の方に行くと温排水が出ているらしくその周辺に駐車場から何人かが向かっているようだ。
ただ、今立っているところから東側は飛行場の滑走路の先端に程近い。
数キロ先にはライトが何本も立っているのが見える。
こちらは外海につながっているようで陸から一番遠いブロック先端の方で電気ウキがいくつも跳ぶのが見えた。
意外と風は強くない。
波もそんなに高くもない。
不安は雨だが、今のところ小降りというより降っている気配がなくなった。
まだ空は暗いが目が慣れてきているのでライトをつけなくても足元は意外とはっきりしている。
一応小さなヘッドライトセットを持ってきてはいるがなくても問題はなさそうだ。
この辺りの消波ブロックは基本として四つの出っ張りのあるスタンダードなタイプで何本か桟橋のように円柱のコンクリートを埋め込んだところから沖に向かって積まれているようだ。
堤防の上から左右を見渡すと誰が持ってきたのか木製の梯子がいくつか堤防から消波ブロックに掛けられている。
みんなが使っているんだろうなとちょっと苦笑いしながら、私も使わせてもらう。
さて、温排水の出る方へ行くか、それとも外海とつながっている方に行こうか。
ちょっと迷いがあったが電気ウキが何度も跳んでいる方が気になる。
右手の方に下に降りるための梯子が掛かっているのでそちらに歩みを進める。
ふと少し波の音が変わったのを感じる。
浜辺の音だ。
そういえば昨日の夜に行った釣具店の方が「砂がついてきている」と言ってたなあ。
消波ブロックが海岸を削る波を抑えているので砂が海岸についているということかと納得できた。
ならば、まず早い時間は浜からシロギスを。
足元が明るくなる昼間はブロックの上から磯物ってどうだ。
完璧なスケジューリングだ。
となれば、行動!
外海に開けた砂浜に向かって消波ブロックの上や脇をゆっくりと進む。
ここで怪我をしては元も子もない。
今回はしっかりと滑り止めの効いた良いシューズを履いているのでよほど急な角度の部分に足を置かない限り大丈夫。だとは思うが、危険な場所であるのは変わらないので確実に足場を確認して進む。
ふと、カサカサと音がする。
ああ、フナムシの移動する音だ。これも海に来たという実感がわく音だ。
いちいち驚くトシでもないし、間違って踏まれるほどヤツラもノロマではない。
一歩動くごとに一面でかけずりまわっている音が囁きのように聞こえてくる。
こんなフナムシだが蚊に比べたらかわいいものだ。
実は夏の海での釣りで「良いこと」といえば「蚊がいない」ということだ。
淡水が少ないからボウフラが沸かないからだろうかと思ったりもしている。
夏の山や湖での釣りとなると虫よけスプレーが必須だが海だと必要がないのは助かる。
代わりに日焼け止めが必要だという人もいるが私は日焼けが気にならないので日差しが強くなったら帽子をかぶる程度で特に問題はない。
今回も車の中に帽子があるが、晴れ間がでたら車から持ってきたらいいだろう。
消波ブロックを歩いてみると浜辺はそんなに遠い距離ではなかった。
すぐに海砂が広がった場所に到着した。
重いクーラーボックスを一度肩から降ろし、浜の状況を眺める。
砂がついているとはいえ、いわゆる海水浴場のような広い砂浜という感じでは全くない。
砂浜の部分は左手側の沖に向かう消波ブロックの端から右手側に約五十メートル程度しかない。その先、おそらく数百メートル先には飛行場の立ち入り禁止区域になる場所でそのさらに向こう側に点滅するライトが見える。
つまり、ここは飛行場滑走路の先端。
流石に今の時間に飛行機は飛ばないだろうが、いくら地方の飛行場とはいえそこそこ便数があるはずだから確かにうるさそうだ。
とはいえ、場所的には面白そうだ。
私は思いっきり浜の真ん中に陣取って荷物を下ろした。
砂は少し湿っていたが特に問題はない。
さあこれから準備だ。
まずは竿。
遠投の出来る二本継の投げ竿にリールをつけてガイドに糸を通す。
道糸を通し終えたらその先にスナップ付きのヨリモドシを結ぶ。
スナップがついていることで天秤やオモリを簡単に付け替えることができる素晴らしい発明品だ。
いつも思うことだが、釣りをしているとこういう小さな発明が多く感心する。
たいしたことではないのだが、この「当たり前を当たり前にするための努力」を考えると頭を下げるほかない。
遠投ができるようにちょっと重めの十五号のジェット天秤をチョイス。
ジェット天秤というやつはこれまたいつも思うが優れモノだ。
連結した二本の針金が可動ジョイントで接合…といっても要するに鎖のように繋がっていて、その上部にする片方の針金が赤いプラスチックと鉛のオモリの部分
の穴に通されているというもので。
これがあると仕掛けを投げる際に仕掛けが道糸に絡みづらくなるという塩梅。
さらに仕掛けの根掛かりを抑えるとともに根掛かりしたときも仕掛けの損傷を最小限に抑えるという素晴らしい発明。
オモリが動くこと言うことは魚が掛かった時にその動きがダイレクトに竿先に伝わるという利点も。
スナップ付ヨリモドシにジェット天秤をつけて、昨日買ったばかりの出来合いのキス釣り仕掛けを結び付けて仕掛けの準備は終了。
なんという時間短縮技。
仕掛けは流線形針が3本ついたキス釣り仕掛け。
そして肝心のエサ。
この日のための青イソメ。
青イソメを見ると卒倒する女性は多そうだ。男性でも初めて見るとひるむ人もいるだろう。
いわゆるワーム。
見た目は青白っぽいミミズ。または手の短い青いムカデという感じだ。
しかし、これが海釣りの万能餌といって良いくらいの素晴らしい餌だ。
大体釣具屋などでおちょこ一杯で五百円程度で買える。
おちょこ一杯と言ってもそれで二十匹以上いるのだ。
一匹当たり二十円そこそこか。
もっとも対象とする魚が決まっていれば魚に合わせた餌というものがあるのだが、今回のように「何が釣れるかわからない」場合に関していえば今回使用するオキアミと青イソメが一番無難な選択ということだ。
何度か通うようになれば、そこいる釣魚に合わせた餌を選択するのが良いだろう。
さて、青イソメをクーラーボックスに入れていた餌箱から取り出し、流線形と言われる釣針に刺すのだが、これが結構抵抗してくれる。イキがいいということなのだが、青イソメはこういうときに口から牙を出して挟みこむので注意が必要だ。
今はいい道具があって、ピンセットのように挟み持てるプラスチック製の餌持ちばさみという感じのものがある。
ちょっと前に買っておいたのがここにきて役に立つ。
右手の一指し針指と親指で釣針を持ち、左手で餌持ちばさみを使って摘まみ上げた青イソメを差し込む。
青イソメも頭を右左に振って抵抗するがあえなくその体に針を通されてしまう。
が、それでも必死に抵抗するので餌持ちばさみの「ハサミ」の部分で針先から数センチ残して切ってしまう。
5センチくらい残った胴体部分は残りの2本の針の片方つけ、最後の一つは小さめの青イソメを針に通す。
さあ、これで餌付けまで終了。
ふと気づくと空がほんのりと明るい。
雲がなければもっと明るく感じたかもしれない。
顔を上げると雲の形がわかる程度には明るくなってきている。
私は腰を上げて竿を両手で持った。
そしてリールのベイルを開け、右手の人差し指にラインをかけて左手はグリップエンドにかける。
海に向かって立ち、周囲をぐるりと見回す。
周りに人がいないことを確認して、目指すポイントを定める。
数十メートル先、出来れば消波ブロックから少し離れた外海に向かって投げ入れたいところだ。
風も波もあまりないとても良いコンディションだ。
今年初めての海に向かって遠投だ。
そう思ったら少し身震いがする。
微妙に海の色の違う場所を定めて構える。
海の色が違うところは波が違うということだ。
波が違うというのは、海底に何かがある場所だ。
岩とか段差のある場所と言ってもいい。魚はそういう場所に集まりやすい。
なので最初はそんな場所を狙うのが順当なのだ。
さ、今日はどんな魚と対面できるかな?
もう一度周囲を見回して、仕掛けの辺りに障害物がないか、そして人がいないことを確認して竿を頭上に掲げる。
今日も楽しむぞ!
そんな気持ちとともに竿を振り抜いた。
軽快な風切り音と共に仕掛けと青イソメが飛んで行った。
本日の釣行
釣り始めたばかりなので現在は「ボウズ」。
今日は釣り日和。 さとつぐ @tomyampoo
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