第4話 これから海に行かないと。準備編
今年の梅雨は意外と長い。
なかなか明けてくれないので傘と合羽がなかなか手放せない。
もう七月中旬。
この辺りはいつもなら梅雨明けのタイミングなのだが、今年はまだのようだ。
とはいうものの、ここより南の地方では既に梅雨明け宣言しているところもある。
この地域ももうすぐ梅雨明けだろうと思うのだが、昨日の夜もじとじととした長い雨が続いている。
どうせなら明日にからりと晴れてくれるのなら嬉しいものだ。
「雨はよっぱらんなった(飽きるほどいやになった)わ。」
加治さんが声をかけてきた。
「晴れてあっちぇーのもなんぎだし(暑いのもたいへんだけど)」
「こんなに蒸しますと体がしんどいですね。」
私は笑いながら言葉を返すのだが、確かに蒸し暑い。
加治さんところの工場で自動車のパーツの取り付けを手伝っているのだが、朝からずっと雨が降っている。
更に冷房があまり効いてないのか汗が滴るほど。
ツナギの中の下着が肌にべったりと張り付いている。
「クーラーがぼっこれた(壊れた)んかや。」
加治さんはあまり仕事中に話しかけたりする人ではないのだが、暑さのせいでさすがに集中力が切れたようだ。
「あとちょっとで取り付け終わりますんで、がんばりましょう。」
自分にも言い聞かせるように声をかける。
こうやって二人で車のエンジンパーツをああでもないこうでもないと言いながら取り付けているのだが、気づいたら外が暗くなっている。おそらく八時近くになっているだろう。
「どうですかね。」
とうとう最後のボルトの締め付けを終えて加治さんに声をかけた。
「んだば、エンジンかけてみっすけ(みるから)。」
加治さんが車に乗り込み、エンジンをかけると、いい感じに音が出て回り始めた。
「おお。最高らねっか!」
「車体にビビリも出てませんし、いいと思いますよ。」
「せば、これでおわり!!」
「おつかれさまでした!」
終わったー。と思ったら加治さんが声をかけてくる。
「服部さん、うちんかか(ウチの女房)がばんげ(夕飯)ごっつぉするすけ(ご馳走するから)食べてってくんなせや。」
そうか、加治さんの奥さんは料理がうまいんだよな。
「いやあ、実は明日の朝早いんで今日は遠慮します。」
「えぇ!どーいんだ(どういうことだ)?」
色々と言い訳をしながら身支度を整える。
「また近いうちに来ます。請求書もその時持ってきますんで。」
逃げるように加治さんの工場を出る。
雨がしとしとと降っている中、自宅マンションに向けて車を走らせる。
正直に言えばご馳走にあずかりたい気持ちはあったのだが、ここは心を鬼にして帰る必要があった。なぜなら加治さんの家はほぼ全員蟒蛇だからだ。
飲み始めると底がない。
加治さんも、そして奥さんもそうなのに、さらに加治さんのご両親も飲む。そしてかわるがわる話す。
もうキリがない。
楽しい席ではあるのだけど、捕まったら多分今日中には帰れない。
なので今日は先に上がらせてもらった。
なぜならば明日は休み。
個人事業主の身としてはなかなか休みを取るタイミングがないので「休もうと思わなければ休めない」という事情もある。
出来れば週休二日といきたいところだけど、個人事業だとなかなかそうもいかない。
会社に勤めたら休みも取れるのだろうけど、自分の好きな動きが取れなくなるのは正直つらい。
若い頃それで体を壊したということもあるし。
多少忙しくても自分が思った通りに仕事をしたい。
と、思って独立したのだが、三年位はまともな仕事もなく別のアルバイトもしながらなんとか糊口をしのいでいたので休む時間がもったいなかった。
仕事を探していろんなことをやってみた。
そうしているうちに仕事が少しずつ入ってくるようになり、何とかここ数年は調子よく仕事が来るようになった。
大口の仕事も入ったりするようにはなったが代わりに休みがなかなか取れない。
なので年に数度、無理やりに休みを入れるようになった。
その休みが明日。
おそらく加治さんはそれを知って誘ってくださったんだろうと想像できた。
でも明日は休みなんだ。
せっかくの休みに何をするのか。
明日は私は釣りに行きたいんだ。
早起きして釣りに行きたいんだ。
天気予報では明日は曇りだといっている。
降水確率は五十パーセント。
ちょっと微妙だけど別に雨でもいいんだ。
風と波がなければそれで充分。
魚たちが呼んでいるんだ。
そのために準備しなければならない。
私は自宅近所の釣具屋の駐車場に車を停めた。
この釣具屋は夜遅くまで営業しているのでとてもうれしい。
夜の十時まで営業ということで、あと一時間はゆっくり釣具を吟味できる。
自動ドアをくぐりいらっしゃいませの声を聞きながら、蛍光灯の多い店内を歩く。
目指すは海釣りのコーナー。
明日はどこへ行こう。
そういえばそろそろキスなんか出ている頃だ。
堤防でサビキを使った小アジなんていうのも悪くない。
消波ブロックの間にブラクリ仕掛けを落としてアイナメやカサゴ等の根魚を狙うのも面白そうだ。
ルアーも悪くない。ソルトルアーか。
堤防からシーバス、いやいやエギングもいい。
いや、ボートを借りるというのも手だな。
手漕ぎでもボートを借りられるのなら、餌でヒラメとかマゴチあたりも悪くなさそう。
いっそ磯とか。ちょっとドライブすることになるがそれはそれで今の時期ならそこそこ楽しい釣りが出来そうだ。
うーん。
あれもこれもやりたくて考えがまとまってこない。
そうだ、こういうときはまず「出来ないこと」を先に並べるんだ。そこからの消去法で行こう。
まず、雨が降るかもしれないということを考えると磯やボートは危険が伴う。
となれば陸っぱりで出来れば足元が確実なほうが良い。
堤防や砂浜がいいかもしれない。
砂浜だとキス狙いか。
待てよ?
学校ってもう夏休みだよな。
夏休みじゃなくても終業式前のところもありそうだから泳ぎに出ている高校生辺りが浜辺には多くいそうな気がする。
若い人は多少の雨でも泳ぐしサーフィンだってするだろう。
いや、足を延ばせば人の少ない砂浜を探すのも悪くない。さて。
私はキス釣り仕掛けを手にしながら少し悩んだ。
砂浜からの釣りになると遠投できないとやはりしんどいだろう。
遠投ができる竿は二本。遠投用のリールも二台ある。
となれば一台のリールはライン(道糸)を替えておきたいところだ。
一台は去年替えたばかりの奴があるがもう一台のラインは4年目。いい加減にくたびれてきている。
百メートル巻きのラインを買ってリールに巻き直し作業が必要だ。
巻き直す?
これから少しでも休んでおきたいタイミングでその作業はちょっと勘弁してほしいなあ。
となれば、ちょい投げできればいい堤防釣りがベターな選択だな。中型と小型のリールならラインを交換したばかりの奴もある。
そういうことならばと堤防釣りコーナーに移動。
堤防となれば今の時期ならサビキか。
一本のラインに多くの釣針を垂らすことで小さなアジやサバ、イワシを釣るサビキは楽しいんだよな。
群れが回ってくると爆発的に釣れることもあるし。
難点といえばエサか。
オキアミを冷凍させて小さなレンガ状に成型したアミブロックを買ったほうがいい。
待てよ。そうすると釣り場が限定されるなあ。
サビキ釣り仕掛けを手にしながらちょっと迷いが生じた。
小アジ狙いなら秋口のほうがよくないか?そのほうが型が少し大きくなって楽しいと思うぞ。
秋口ならハゼを一緒に狙うのもいい。置き竿とサビキでおかずゲットな釣りが出来そうだ。
むむ、なんか思考が一周したぞ?
これは困った。
海に行くのは決まったが、そこから先のプランがぐちゃぐちゃになっている。
「何かお探しですか?」
私がずっと仕掛けを手にして迷っているのを見かねてか、若い店員のお兄さんが声をかけてきた。
「いやあ、明日釣りをしようと思うんですが、何を狙おうかなと思ってて。」
お兄さんはこの海釣り仕掛けのコーナーをくるりと見回した。
「海ですか?」
「何を狙おうかと考えているんですよ。」
「そうですね。どのあたりに行かれます?」
「結構、適当になんでもいいかな、なんて。」
頭を掻きながらそう答えるしかなかった。
「そうですねえ。今日の所で情報が入っているのが河口のシーバスとか、あと、西突堤から五目釣りの方でキスがいい感じですよ。」
「西突堤からだと結構投げなきゃいけないんじゃないですか?」
この町の真ん中を流れる川の河口は港になっているのだがその東側と西側で長い堤防がある。
西側の堤防は西突堤と言われかなり大きな堤防が数キロも沖に伸びている。
なのでちょっとした大物狙いや、ボートがなくても沖釣りの魚が釣れるスポットでもある。
東側の堤防は東突堤と言われこちらの堤防はあまり長くはないがクロダイなどを狙う人が多い。
「西突堤だとやはり投げるほうがいいですね。キスも大型になりますし。」
そうだろうなあと思うけど、ここはもっといろんな魚を釣りたい。
色とりどりに並べられた仕掛けの棚を見ていると、迷ってしまいそうになっている自分がいる。
「いっそ、全部やってみませんか?」
店員のお兄さんの声にえ?っと思う。
「面白いところがあるんですよ。F町の海岸の消波ブロックの所。行ったことあります?」
「ああ、確か火力発電所が近くにあるところですよね。」
「そうです。その発電所の排水管の近くは入れないんですが、そのちょっと東に離れたところで砂がつき始めたんですが、・・・そこが良いんですよ。」
「何が釣れるんですか?」
私は身を乗り出してしまった。
「消波ブロックがいい感じに磯釣りポイントになっていて、クロダイとメジナ、イシダイもたまに出ますね。」
イシダイ?磯の王者がなんでそんな工場の近くで釣れるの?
「また排水が暖かいらしく、あんまり釣れないといわれていたブダイやベラがいい感じに出てます。」
ほう、それは初耳だ。
「あと、外に向けて距離を投げるとキスやイシモチ、カレイとヒラメも出ます。」
「すごい。」
「さらに」
「さらに?」
「この店にいらっしゃるお客さんでシイラを釣った人もいます。」
「え?シイラって沖の魚じゃないですか!」
「ルアーでシーバスを狙ってたら掛かったそうです。すごく遠投したらしいですけど。私もびっくりしました。」
「え?じゃあ、釣り人がいっぱいいるんじゃないの?」
「それがちょっといくつか難点があって人が少ないんです。」
難点?そんないいポイントづくめの場所にどんな難点が?
「あそこ、工場の先に飛行場あるじゃないですか。あそこは飛行機が離着陸するときその丁度真下なんですよ。」
つまり轟音に耐えられないとつらいということか。
「大型機が離陸するときの音、すごいですよ。なんというか、あまりのすごさに海に飛び込みたくなるくらい。」
ああ、あの町の周辺の騒音問題は聞いたことがある。
元々製材所や工場が多い所だから誰も気にしてないのかと思っていたのだが。
でも、そのポイントはちょっと興味あるなあ。
こういう所で聞く情報は生きているなあ。
他の釣具屋さんではそんなの教えてくれなかった。
「じゃあ、いろいろ準備したほうがいいんですか?」
「耳栓があるといいかもしれません。」
「耳栓ですか」
「あと飛行機の飛ばない朝マズメなら問題ないかもしれません。」
じゃあ、これは一つ磯の王者と対決かな?と思ってみる。
「じゃあ、そこ行ってみます。」
私は決心したように答えると
「あ、あともう一つ難点がありまして。」と申し訳ないように店員さんが口を出す。
まだ何かあるの?
「外道がすごく多いです。それは覚悟してください。」
「え?それならご褒美ですよ!楽しみです。」
「一度簡単に五目仕掛けのウキ釣りで試してからそこで釣りをしている人の情報を聞いてみるといいかもしれません。」
「そうします。じゃあこの浮き釣り仕掛けをください。」
いくつか仕掛けを見繕って店員のお兄さんに渡す。
「餌は何がいいですか?」
レジへの道すがらお兄さんに訊いてみると
「そうですね。オキアミが鉄板で、根魚もいるので青イソメがあればボウズはないです。」
「じゃあそれもいただきます。」
「ありがとうございます!」
お兄さんが明るく返してくれる。
これでとりあえず買いたいものは買った。
あとは家に帰ってから準備をする。
そんな感じでしと降る雨の中、自宅のマンションに戻ってきた。
一人暮らしだからあまりきれいにしてはいないがとりあえず、買ったものを片づけないと。
風呂とトイレとキッチン、ダイニングと和室が一つの小さな我が城。
仕事はダイニングで、趣味は和室で行う。
ダイニングのテーブルに荷物を置く。
ついでにいろいろ買って三千円くらい使ってしまった。
急ぎのものは餌。
餌の青イソメは専用の木製エサ箱に入れ直して冷蔵庫に。
オキアミはサビキ用のブロックなら冷凍庫行きなのだが、今回は食わせ用の大き目なアミを買ったのでこれも冷蔵庫のチルド室が入れておく。
ついでにノンアルコールビールを一本そのまま空けてしまう。
後、ちょっと重めのジェット天秤も買った。
ジェット天秤はいくつか持っているが根掛かりがないとも言えないので予備にいくつか。そのためのキス・カレイ仕掛けを二つほど。
あとはハリス付出来合いの釣針と磯のウキ釣り仕掛けを一つ。
さて、風呂の前にちょっとだけ荷物を作ってしまおう。
竿などはあまりいろいろやっても使いこなせないだろうから2本だけ用意しよう。
和室に行き、雑多に置かれた竿から軟調子の磯竿を一本。
これはウキをつけて磯の五目釣りというイメージで。
針もクロダイ用にグレ針を数種用意。
とはいえ、今回は初めてなので根魚が釣れたらいいかというイメージでアイナメなどを対象とした伊勢尼針を大きさ変えて数種。
もう一本はちょっと投げても良いように遠投用の投げ竿。
硬調子の継竿。四メートル半になる頼りになるやつ。
リールも大きいものを。
去年、テーパーライン(先端にかけて徐々に太くなる力糸)を含めて道糸を二百メートル以上巻いたリール。
こいつはごつい。
このリールと竿にジェット天秤を二十号でキス仕掛けをつけたらどうだ。
きらきらと光る白いキスが釣れてくることを想像するとぞくぞくする。
消波ブロックの上は雨だと滑りやすいので靴もきちんと用意して、砂がつき始めているということなら休憩用のビーチサンダルも用意しておこう。
さあ、朝まであまり時間がない。
シャワーを浴びて今日はさっさと寝るとしよう。
おっと、天気予報。
携帯電話の天気予報を今一度見ると雨の確率はまだ半々というところ。
せめて雨が止んでくれるだけでもうれしいのだが。
とりあえず、洗濯機を回してあとは風呂入って飯食って寝ることにしよう。
本日の釣行
想像上のキス、クロダイ等多数。
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