第3話 たまには大物を狙う。午後編

 さて、次は何が釣れますやら。

 期待を胸に再び、仕掛けに餌のサナギをつける。

 餌のサナギはまだ十分にあるがそろそろ私自身の餌の心配をしなくてはいけない時間だ。

 ここは一度コンビニにでも寄って食料と一番肝心な水分の調達を試みたほうが良いのかもしれない。

 もう一度時間を確認すると正午まで一時間というところ。

 もう一匹くらいなにか釣るところまで我慢しようか悩ましいところだが。

 日差しはあるとはいえ風もあり、暑いという感じではない。

 ただ、日差しにずっと当たっていれば日射病の恐れもあるので注意は必要だ。

 とりあえず仕掛けを先ほどと同じポイントに投げ込む。

 もし魚が寄っているようならすぐに次のアタリがあるはずだし、しばらくアタリがないようなら買い物に行ってくるのも悪くなさそうだ。

 状況にもよるが、釣具屋に寄ってくるのもアリかも知れない。

 なにせ今日はオフタイムが長い。

 コンビニでビールでも買って飲みたくなる感じだ。いや流石に夕方からは仕事なので飲むつもりはないが。

 リールを回し、道糸のフケ(たるみ)を取る。

 鳥のさえずりがやや多くなってきた感じがする。雲雀だろうか。

 頭上の方から聞こえてくるようなのでまた上空を見上げる。

 太陽の位置がだいぶ高くなってきている。

 影が短い。気温も徐々に上がってきている。

 本流の向こう岸に目をやると釣り人の姿が見えた。

 四メートルほどの投げ竿を数本出しているのであちらも鯉か、もしくはそれ以外の大物狙いと思われる。

 この川には他にどんな魚がいるだろうと考えを巡らせる。

 鯉やニゴイがいることを考えるとナマズなど川の底に住む魚は確実だろう。

 やや川の流れが速いこともあるのでソウギョ、レンギョの類はいないと考えたほうがいいだろう。

 ウグイやフナもおそらくはいるだろうけど、今のこの仕掛けには掛かり難いと思われる。

 ミミズなどを使えばウナギなどが狙えたかもしれない。

 そういえばこの川は古くにとある武将が河川改修を行ったという話があるようだ。

 その殿様もたまにはのんびりと釣りをしたのだろうか。

 ウナギを釣るお殿様か。

 それはそれでなんだか絵になるのだが、おそらくはそんな余裕はなかっただろうと思う。武将だし。

 ならば私は彼の分までのんびり釣りに没頭するとしよう。

 なぜなら釣りというものはこれ以上にない贅沢な趣味だから。

 気持ちよく釣りをさせてもらわないと。

 とはいえ、少し手が匂ってくるなあ。

 魚の匂いではない。これはおそらく川の水の匂いだ。

 お殿様が釣りをしていた昔はもっときれいな流れだったのかもしれないが流石に今はお世辞にもきれいとは言い難い。

 昭和の中頃はここいらでも住宅や工場が増えて生活排水等が川に流れ込み、ヘドロがひどかったと聞く。

 もっと下流の方では工場が多いこともあり、工場排水のせいでヘドロがひどかった時があった。

 川の水が濁っているというより黒いのだ。なにか別の液体になっているのだ。

 夏場の水量が少ない時に海に近い所では赤潮が発生した時もあったという。

 そうすると多くの魚が死んでしまい、その腐敗臭がすごかったらしい。

 今となっては下水道の整備が進み、以前のような状況からだいぶマシになっているのだが、水の淀むところではいまだにヘドロの浚渫が進まず臭い状態が続いている。

 高校生の頃その川にライギョ釣りに行ったことがあるが、水が油のように黒く、少しとろみがあるようでよくこんなところでも魚が棲んでいるもんだと感心したものだ。

 あの時は八十センチほどのカムルチー(ライギョ)をフロッグルアーで釣った。ガンガンファイトしてすごく興奮した釣りだった。

 揚げるのに三十分は掛かったと思う。

 釣りあげて満足したら、当時フィルム付きカメラで写真を何枚も撮ってリリースしたものだ。

 そういえば当時はまだ外来魚に対する条例もなかった頃だったのでそのままリリースしてしまったが、今だとそう簡単にはいかない。

 またその当時はよくルアーでブラックバスを狙っていたが、当時キャッチアンドリリースという言葉があり、ブラックバスだろうがブルーギルだろうが、もう何が釣れてもそのまま水に返していたのだが、今となっては乱暴だったなあと思ったりもする。

 時代といえばそうなのだが。

 そうした恥ずかしい思いをしながら今の私がいるんだと思えばそれはそれ。

 そんな当時でも、釣り場マナーなどはしっかりしていた人が周りに多くいたおかげで釣り場を極力汚さないように心がけるようにはなった。

 気持ちよく魚を釣り、そして次の人にも気持ちよく釣りをしてもらいたい。それだけのことなのだ。

 そうしているうちに風が少し強くなったのを感じた。

 竿の先が何度もゆっくりと震えるようになってきた。

 水流が少し出てきたのかもしれない。

 ただ、排水機が稼働し始めるとこんなもんではなくなるだろう。オモリをもっと重いものにしないと流されてしまう恐れもある。

 とりあえず様子を見るために一度竿を上げ、仕掛けを巻き取る。

 リールを巻くと仕掛けはするすると軽く巻き上がってくる。

 餌を手に取り少し様子を見るが特に変わった感じもない。

 やっぱり別の餌に切り替える方が良いのだろうか。

 悩む。

 少し悩んでいたら急に腹が減りだした。

 たしかそういうテレビドラマがあったなあ。

 そう思うとさらに腹が減る。

 ドラマの中に出てきたさまざまな料理が頭に浮かんでは消える。

 こうなってしまっては仕方ない。

 とりあえず仕掛けを簡単に片づけ、荷物をまとめると車に戻る。

 今は「自分の餌」が必要だ。

 車に戻り、竿とタックルボックスを後部座席に投げ込み運転席に座る。

 確か来た道でコンビニを見たが、そこからしばらく先にすごく小さい店構えながら釣竿が店先に並んでいたように見えたものだが。

 まずはコンビニエンスストアへ。

 河川敷公園を出て数分も走ると旧道の昔ながらの商店街の並ぶ道がありその中ほどに新しく建てられたであろうコンビニエンスストアがある。

 駐車場も広いのでそこに車を停め、サンドイッチと缶コーヒー、そして水を買う。

 丁度昼前ということもあり客数のわりに品揃えが豊富だったのでサンドイッチは野菜と肉が多く入ったものを二つ買い、缶コーヒーはブラックで、水は二リッターのペットボトルで買う。

 ふと朝の状況がどうなったのか気になり、コンビニを出て荷物を車に置き、能代さんに携帯から電話をかける。

「あれ?服部ちゃん?」

 意外とすぐに電話に出た。

「すいません、もう飛行機のっちゃいました?」

「いやいや、まだ空港。今女房と昼飯にしようと思ったところだよ。」

「すいません、ごはん時に。ところで荻曽根さんには電話してくださいましたか?」

「あー、大丈夫。こっちから電話したよ。今回は服部ちゃんに申し訳ないことしたね。今度埋め合わせするから。」

 口はあまりよくないが能代さんはこう言ってくれる。

 付き合っていてうれしいものだ。

「いえいえ、こちらはここしばらく忙しかったので今日はのんびりさせていただいてますよ。落ち着きましたらまた連絡ください。」

「わーりいね。また連絡するから。よろしくね。」

「よろしくどうぞ。」

 つい頭を下げて電話を切る。

 やっちゃうもんだよな。

 コンビニはまだ車も少ないが、もう少ししたら大忙しになるかもしれない。

 今のうちに釣具屋に寄ってみよう。

 ちょっと駆け足になりながら釣具屋に飛び込む。

 入口が狭い。というより店そのものが小さい。

 釣具屋と思うものの、なんとなく駄菓子屋的な雰囲気もある。

 いつも通っている馴染みの釣具屋は釣具以外を扱っている様子はないが、こういうお店は久しぶりだ。

 多分小学生の時以来だと思う。

 小学校五年で釣りの楽しさを知ってから釣具屋に出入りするようなったが、初めて釣り道具を買ったのはこのような雑貨屋の中に釣道具が申し訳程度においてあるような佇まいのお店だった。

 蛍光灯の数も少なく全体的に薄暗い感じはするのも似ている。

 こういう店構えだと大抵年寄りのおじいさんかおばあさんが店番をしてたりするんだ。

 だからきちんと大声で呼ばなければいつまでたっても買い物できない。なので先に中に向けて声をかけるのが礼儀。

「ごめんください。」

「はーい」

 と私の声に反応して奥の方から声がしたのだが、意外と若い感じがする?

「いらっしゃいませ。なにかお探しですか?」

 一番奥にレジがあるようだが、そこから出てきたのはそれこそ二十代前半の若い娘さんだった。

 一瞬あまりのギャップに面食らった感じになってしまった。

「あ、練り餌が欲しいんですが。」

 とつい、口に出てしまった。そこまで欲しいと思っていなかったのだが、ちょうど目の前にヘラブナ釣り用の練り餌の袋が見えたせいだ。

「魚は何ですか?へら?鯉?」

 髪は短くボーイッシュな感じではあるがきつい感じはしない。

「ちょっとそこで釣りをしているんですが何がいいかなって。」

 私が指をさした方向から娘さんは何か察したらしい。

「ああ、あの排水機場の水門ですね。あそこは鯉とハヤが多いのでこれかこれがいいですね。これから排水の時間になるので大き目な団子にしたほうが良いかもですね。」

「サナギはあるんですがちょっと食いが悪いようなんで寄せ餌をしようかと思って。」

 ちょっとだけ心にもないことを言った。

 寄せ餌なんか流水量が多ければあまり意味を持たない。それこそ排水機が動けば練り餌団子なんかあっという間に溶けて流されてしまうんじゃないかと。

「ああ、でも寄せ餌してもあまり意味ないですよ。ブッコミですよね。それならまだミミズを使ったほうがいろいろ楽しめますよ。たまにナマズやウナギも来ますからね。」

 ムム。意外とできるぞ。この娘。

「鯉にこだわるのでしたらサナギ粉とこの鯉釣り用の練り餌を混ぜると効果高いですよ。」

 と娘はにこりと笑った。

「釣りをされるのですか?」

 若いのに知ったように話をするので思わず訊いてしまった。

「彼が釣りをするんです。」

 ちょっと頬が染まった。

「なるほど。それで詳しいんですね。じゃあ、それを頂きます。」

 そういうことか。

 想像になってしまうがきっと古くからやっているお店で、このあたりの住民に愛されている商店なんだな。

 そんな小さな商店を守ろうと手伝っているのだろう。

 違うかもしれないがそう思ったほうが私の気持ち的に良い。

「二つで七百円です。」

 安いと思った。実は近くの店で何度か目にして定価を知っている商品だったが、おそらく端数を削っている。

 千円札を出し、お釣りをもらって、茶色の紙袋に餌を入れてもらう。

「ありがとうございました!」

 若い声に少し元気をもらった気もする。

 さて、あまり長い時間コンビニの駐車場を借りるのも申し訳ない。

 小走りに車に戻り、紙袋を後部座席に投げ入れ、もう一度コンビニエンスストアに入り、さらに一本コーヒーを買い足す。

 すぐに車を出し再び排水機場の水門のポイントへ向かう。


「あら?」

 車を降りて先ほどの釣り場に向かうと人影がある。

 先ほど自分が釣っていたところは既にほかの人が釣りをしているようだ。

 排水機が動く時間の方が魚が釣れるということだろうか。

 隣に座ろうかと思ったが、さっき根掛かりしたことを思い出した。

 周辺では底に障害物が相当あると思われる。

 逆に言えばそこを外したほうがいいかもしれない。

 別に水門のそばでなくても魚はいるはずだ。

 そもそも釣り場というものは誰か一人の所有物ではないので場所を取られたらそれはそれまで。

 しかし、せっかくなので挨拶はしておきたい。もし地元の人なら情報をもらえるかもしれない。本来釣り人というものはそんな貪欲な人種なのだ。

 釣り道具を持ったままその釣り人の背中に向け歩く。

 近づくにつれ、釣り人の恰好がはっきりする。

 いかにも作業員という感じの服装。おそらくは近くの工場か何かで働いている人か農作業していた人なのか?もしかすると昼休みなのだろうか。白髪を隠した帽子姿がそんな感じに見える。

「釣れますか?」

 まだそんなに近くない距離ではあったが思い切って声をかけた。

 その人はこちらを振り向きもせず左手を振った。

 隣に立ってその人を見るとおそらくは六十代から七十代と思われる容貌。顔にかなり皺が入っている。

 折り畳み式の椅子にどっかりと腰を下ろし十五尺の延べ竿を出している。

「鯉ですか?」

 再び声をかけるとかの釣り人はにやりと笑った。

 日に焼けた黒い皺くちゃな顔に白い歯が見えた。前歯が一本欠けているようにも見えた。

「釣れんけどな。」

 股の間に練り餌桶が見えた。

「おめさんも鯉かね?」

 と問いかけられて「ハイ」と返す。

「ここは初めてらか?」

 そう聞かれるとなんとなくさっきまでそこに座ってたと言い出しづらくなった。

「そうなんですよ。ここで釣りをするのは初めてで。」

「このすぐ下まで蛇篭が来ているからちょっと投げたほうがええで。」

 そういってさっき根掛かりしたところを指さされた。

 え?さっき根掛かりしたところ見てたの?とちょっと思ったけどこれは普通にアドバイスだろう。

 水面を見たらかなり流れが出ている。排水機が回り始めて放水が始まったからなのだが、思ったよりゆっくりしている。本流のほうが流れが早く感じられるかもしれない。

 私はある程度竿を振り回しても平気なくらいの距離を置いて荷物を降ろす。

 とりあえずウキウキ号をコンクリの護岸部分に起き、さっきまで使っていたコンクリの塊を探そうと辺りを見回してみると、新しい釣り人の後方に転がっていた。

 この人は使わなかったのかな?と思っていたら延べ竿の柄を足で踏んで固定しているようだった。

 コンクリ塊を何気ない顔をして取りに行き、ウキウキ君のグリップに乗せる。

 そしてタックルボックスに座り弁当タイム。

 サンドイッッチはチキンの照り焼きとレタスを挟んであるものとハムと野菜をはさんであるものを二つ買ったのだが、さてどちらを先に食べようか。

 ここはハムのサンドイッチから。

 コンビニの白い手提げ袋から取り出して包装を破ってからの、まずは一口。

 うん、これは意外とイケる。

 天気の良い河原で食べると開放的で気持ちがよいもので普段家で食べるより数倍もおいしく感じる。

 冷たい缶コーヒーを飲んでいるとお隣さんも何やらもぐもぐと食べている。

 おにぎりのようにも見える。

 やはり昼休みか何かで釣りをしながら昼食なのか。

 考えてみればおにぎりでも良かったかもしれない。

 おにぎりとお茶でというのも昔の遠足風でいいかもしれない。

 いやいや、今回は洋風だ。そう洋風と思えばいい。

 そういえばリール竿と延べ竿だし、ある意味対決姿勢でもある。

 いや、魚釣りで対決する理由はないのだけど。

 だが、しかし並んで座るとなればどちらが先に釣るかという競争原理が自然と沸くというものだ。

 少し気が急いてくる。

 いや、待て。こんな時こそ落ち着いたほうがいい。

 別に釣れなくていいんだから。のんびり大物を狙う釣りをしている時に、焦ってみても仕方がない。

 とはいうものの手は勝手に缶コーヒーを置き、餌のサナギを探している。

 そうだ、練り餌を買ってきたじゃないか。

 タックルボックスの中に常備されている生餌用のプラスチック製の餌箱を取り出す。

 餌箱の半分くらいまで練り餌を入れてペットボトルの水を灌ぐ。

 少しぐるぐると手でかき混ぜ、そしてさらに練りこむ。

 だいたいの練り餌の説明書には「耳たぶ位の固さになるまで練る」とあるのだが、正直耳たぶと練り餌を固さを同じにできるわけがない。どうしても練り餌は粉っぽいのだから。

 それでも納得できそうな固さになるまで練るのだが。

 やっぱり水が少し足りないか?と思って水を足すとなんだか泥っぽくなる。そして練り餌を足すと今度は粉っぽくなる。

 納得できそうな状況になるまでそれを繰り返すことになる。

 で、気づくと箱一杯の練り餌が完成している。

 サナギ粉を少し足していい感じに仕上がった。

 ちょっと自分の鼻息が荒くなったのを感じた。

 オモリの上部に板オモリを巻き、サナギを針につけ、その周りを固く練り餌団子で包み込む。

 直径四センチほどの餌が出来上がり。

 これなら流れにもしばらく持つだろう。

 岸のほうが蛇篭で危ないのなら思い切って向こう岸との中間点に狙いを定めたほうがいいだろう。

 ちょっと重さが増したのでゆっくりと遠心力を利用しながら仕掛けを投げ入れる。

 たった数メートル先とはいえ、釣針から練り餌団子だけが外れて跳んでいくのはとても恥ずかしいので結構慎重になったが、うまくポイントに投げ込めてほっとする。

 糸のたるみを取るため慎重にリールを巻く。

 無理に巻くと仕掛けごと動いて、練り餌が落ちることもある。

 なにせ水中が見えない分慎重に進めないと何もかもおじゃんだ。

 糸が竿の穂先からピンと張ったところでリールを巻くのを停め、静かに竿を置く。そして先ほどのコンクリの塊をまたグリップに乗せ竿を固定する。

 竿先が排水機が押し出す水の流れにゆっくりと呼応するようにぐぐっとカーブを描き、ぴたりと止まった。

 いい感じだ。

 糸のたるみがありすぎると仕掛けが徐々に動いてしまう。すると練り餌から針が抜けてしまう場合がありあまり得策とは言えない。

 水流がなければ撒き餌として多少仕掛けの位置がずれても構わないのだが見る見るうちに流れていくという感じの水量だと効果はない。

 逆にたるみがなさすぎると仕掛けが水流により浮き上がることもある。そうなるとかなりの重さのオモリが必要となるがそうすると魚が釣れた時に竿の負担が大きくなる。特にウキウキ君はお徳用セットの竿なのでそんなに頑丈とは思えない。

 家に行けばもっといい竿はあったんだが。

 いや、そういうことを言っても仕方がない。

 今私は魚を釣ることに集中したらいい。

 いや、魚は釣れなくてもいいと思うんだ。

 気持ちのいい時間を過ごすというのが魚釣りの楽しみ方の一つなんだ。

 魚を捕まえたいだけなら網でいいんだ。

 魚を食べたいだけなら魚屋に行けばいい。

 魚釣りというのはそういうことだけではないのだ。

 先ず落ち着け。

 深呼吸をしよう。

 川の風の匂いを嗅ぎ、そしてせせらぎを聴き、そして陽の光を受けよう。

 目を閉じてみると瞼の裏まで明るいのを感じる。

 気持ちいいではないか。

 ちょっと手が練り餌臭いけど。

 そんなことを思っていたら、隣のおじさんの手が動いた。

 黒いファイバー製の延べ竿がひゅっと音を切り、その瞬間にギュギュっと竿先が水面に向かって頭を垂れた。

 釣れた!と思った。

 更に細かくギュギュウっと竿先がしなったので確実に魚が釣れている。

 コイか?それもそこそこ以上の大きさがあるか?

 と思った瞬間、延べ竿が急に反動をつけ、開き直ったかのように垂直に立ち上がった。

「ああっ」

 思わず声が出た。

 水面から仕掛けがおじさんの顔のすぐそばを掠めた。

 おじさんもほんのしばらくの間、竿を持った右手をあげた状態のまま。

 いわゆる「バレた」のだ。

 釣った魚を取り込む前に逃がしてしまった。

 仕掛けが延べ竿の手元に来たのを慣れた手つきでつかまえて、おじさんは初めて

「ふむう。」

 と小さくうめき声にも似た声を漏らした。

「大きかったですね」

 私も思わず声をかけた。

 おじさんはまた私の方を見てにっかりと笑った。

「いい感じだったろも。もってねー(もったいない)ことしたわ。」

「鯉ですよね。」

「そう思うろも」

 おじさんは仕掛けの状態をまじまじと眺めて、ヨリモドシから先のハリスがないことを確認して息を一つ吐いてからつぶやく。

「こんげことがあっから釣りはやめられんて。」

 私も思わず「そうですよね」と返してしまった。

 魚釣りを長くやっている人はこんな状態をも楽しめる。

 魚だけを狙うと辛抱の度合いが大きくなってしまう。

 もっとおおらかに釣りを楽しむということでいいじゃないか。

 私もこのおじさんのように楽しめばいい。

 おじさんはまた仕掛けを直して同じポイントを狙う。


 そしてもう一時間が経とうとしているのだが大きなアタリから遠ざかってしまった。

 川の向こう岸のさらに数百メートル先の下流でブッコミ釣りをしている釣り人を確認してはいるのだが、アタリがあった感じはしない。

 練り餌が溶けたころを見計らって竿を上げてはみるがジャミ(餌を飲み込めない小さな魚)が多くいるようですぐに餌をつつくためか、餌持ちが悪いように感じる。

 おじさんの方はというとやはりエサ取りに悩まされているような気がする。

 ツンツンとずっと穂先が動くのだが、どうしても一気に引っ張って行ってくれない。餌を一気に飲み込めないのでつつくしかないのだ。

 それならば針をちょっと小さめにした方が何かかかってくれそうなのだが。

 どうしよう。おそらくは十センチ程度の魚が爆釣するかもしれない。

 それも悪くないがそれは当初の目的とは違うんじゃないか?

 少し悩んでいたところでおじさんが腰上げた。

「今日はしまい。」

 誰に向かって話すようでなくつぶやいて、竿を上げる。

「もう上がるんですか?」

 ちょっと声をかけてみたら

「もう時間だで。今頃は、はあ、うちでかか様が怒って大変。」

 おじさんは慣れた手つきで仕掛け巻きにくるくると仕掛けを巻き始める。

「ここはこれから面白くなるで。」

 え?つまりこれからの時間から釣れるということか?

 つまりぼちぼち回遊してくる時間なのか?

 とおじさんに質問しようとした瞬間、

 ウキウキ君がガガッと持っていかれた。

「来とる!」

「え?」

 おじさんの声と同時に私の手が竿のグリップを握った。

 ちょっと慌てて竿をアワセたら、うまく針が掛かってくれたようだ。

 まさに重い手応え。

 左手でグリップを、右手はリールのハンドルを持つのだが、ドラグを緩めにしていたせいで糸が少しずつ出ていく。

 竿は半円形をしていて、まさに「ヒット」しているのだが、出る声は

「お、お、お。」

 これはすごい。

 ライギョやスズキを釣った時のような大物感がある。違うのは休まず潜っていこうとするという部分か。

 ハンドルを回して糸を巻くのだがなかなか巻き取れない。

 魚の動きが少し弱まった瞬間、グリップを脇に抱え右手でリールを持ち、左手でドラグを少し強めに締める。

 おじさんが口をすぼめたようにして驚いているのを横目で見ながらまた左手でグリップを握る。

「これはでっかいが。」

 わかっている。

 まさか釣れるとは…と思ったけど、いや、この時のための仕掛けなんだから。

 ぐんぐんと竿を川底に向かって引く魚だけど、こちらも文明の利器を使っているのだから負けはしない。

 徐々に相手の力が弱まってきているのがわかる。

 こちらの針もハリスも頑丈な奴だから負ける気はしない。

 ただ、無理をすれば糸は切れなくてもヨリモドシの部分から壊れる恐れはあるのだから慎重にしなければならない。

「がっとにすんなや!(強くひくなの意)」

 なぜかおじさんが声をかけてきた。

 いや、わかってます。ここは我慢比べ。

 せめて相手の顔くらいは拝ませてもらうよ。

 ドラグを調整したためにもう糸は出なくなったが、しかし巻くことはなかなかできないでいる。

 耐久戦かもしれない。

 と思ったら魚が川の本流の方に動き始めた。

 鯉が釣れた場合、魚をできるだけ走らせないようにすることだ。鯉の背びれはとげがあるので鯉が背中を向けて走るようだとハリスがとげに擦れて切れる恐れがある。

 ブッコミ仕掛けだとオモリが重めなので背びれで切れることはあまりないとはいえ大きな魚になればその可能性は高くなる。

 まさに今の状態といえる。

 ただ針の掛かりがいいのか思った以上にしっかりしたファイトが出来ている。

 もう一つ気がかりなのが竿のウキウキ号君で、竿の自体が硬調子、つまり全体的に竿そのものが固いので、ことによっては竿そのものが折れる可能性も出てくる。

 いわゆる軟調子の竿はしなりが柔らかで大物が掛かると力をうまく逃がしてくれるのだが硬調子の竿はなかなか力を逃がすことが出来ないので竿そのものに負担が掛かる。

 道糸と針掛かりはうまくいっているなら不安はその二つか。

 相変わらず魚の姿は見えない。

 今迄にこのウキウキ号君で釣り上げた魚の最大は50センチのセイゴだったはず。

 セイゴというか、もはやスズキといっていいサイズだけどあの時も結構ファイトしたけど今回はちょっと重量が違う。

 単純に重さが違っている。

 それより、私はこれをどうやって上げるつもりだ?

 せめて姿が見えたら何とかなるのだが、一句に姿を見せない相手だ。

 先ほど釣ったニゴイよりはるかに上回るパワーを持つ魚なんてそうはいない。

 とりあえず、せめて顔を拝ませていただきたい!

 リールを半ば強引に巻いてみようと試みるも竿を支えるだけで精いっぱいだ。

 川の本流の方に魚がいくとどこで糸が引っかかるかわからない。せめて岸の方ならおそらく蛇篭の中に潜り込める大きさではなさそうだ。

 ならばせめて岸の方に向かうよう竿を引く。

 と同時に徐々に魚の引きが弱まってきた。

「網持ってきたすけ!」

 気づいたらおじさんがタモ網を持ってきていた。

 どこにあったんだそんな便利なもの。

「助かります!」

 思わず叫んだ。

 竿を持つ手に少し力が沸いた。

 というより明らかに魚の力が弱まった。

 いまだ!リールを巻き取る。が、数回巻き取っただけで魚の力が巻き返してきた。

 専用の竿ならもっと楽が出来たのにとちょっと後悔の気持ちがして、いや、これはこれで楽しくファイトしているのでいいやという気持ちも出てくる。

 しかし、リールハンドルに手をかける瞬間が少しずつ増えてきた。

 ふと、濁った水面に魚体が翻るのが見えた。

「鯉だ!」

 おじさんが声を出した。

 鈍く金色に光る魚体の鱗は明らかに鯉のそれだ。

 おじさんもあまりああしろこうしろと言わないのもうれしい。

 自分がやられて嫌なものはしない主義の人だなと思った。

 息を飲んで水面をのぞき込んでいる。

 しかし魚体の大きさが思ったほど大きくなさそうな感じだが。

 少しずつリールでライン(道糸)を巻き取りながら、なんとなく嫌な予感がした。

 おじさんがタモ網をもって下流の蛇篭の方に降りて行った。

「こっち寄せれ!」

 取り込みの準備をしてくれている。

 確かにそっちの方が浅いので取り込みは楽だろう。

 問題はタモ網の大きさと魚の大きさが合うかどうか。

 と考えているうちに鯉の魚体が少しずつ水面の方に寄ってきた。

 大きい!、でも大きいんだけどなんか思ったより小さい。

 引きの強さと比例してない。

 印象では70センチくらいあってもいいはずの引きなのにそれよりは小ぶりに見える。

 いや、太さは充分あるんだけど、なんだか少し違和感がある。

 少し魚が岸に近づいたのを見抜いたのか、おじさんはタモ網を魚体に近づけた。

 そしてその際に一言。

「スレだわ!」

 やっぱりか。スレ、つまり魚が餌を食べたわけではなく何らかの拍子に体のどこかに針が刺さったということだ。

 どうやらおじさんは魚体が釣り人の方ではない方向に頭があるのを見越したんだろう。

 そこからタモ網で魚を頭から掬いいれ、一気に魚体を引き上げる。

 タモ網にはすべて入りきらず、尻尾がはみ出ていた。

 私は竿を置き、おじさんの持つタモ網を見る。

 全長はぱっと見で六十センチ以上。さすがにメートルは無理だった。

「測るけ?」

 おじさん、ポケットからメジャーを取り出す。

 このおじさん、長いことここで釣りをしているんだなと感心。

 釣れた鯉を地面に置き、メジャーで測ると六十七センチもある。

 錦鯉なら数十万から百万超えだな。

 ふと適当にそんなことを考えてみた。

 そう思いながら携帯で写メを何枚か撮影したらすっかり気が済んだ。

 でっぷりとした胴回り、黄金に輝く、川魚とは思えない大きな鱗。

 更には親指位なら普通に吸い込みそうな大きな口と鯉の象徴のヒゲ。

 何度かバタバタと跳ねるが、その生命力あふれた魚体は充分に力強さを感じる。

 針は尾びれに近いところで刺さっていたためそれで引きが魚体の大きさの割に尋常でないほど強かったようだ。

 抱えてみるとずっしりと重い。五、いや六キロはあるかもしれない。

「これどうすんだ?」

 おじさんが聞いてきたので、すっかり気が済んだ私は

「また放そうと思います。」

「もってーねーなー(もったいないな)」とおじさん。

 残念そうな顔をしているので

「いります?」と聞くと

「いや、今度自分で釣るすけいいや。」

 とにっこりと笑う。

「そうですね。」

 私もつられて笑う。

 そして鯉はまたおじさんの手で川に放流された。

 魚がすぐに本流の方へ泳ぐのを見ておじさんはちょっと満足したような顔になってしばらく水面を見ていた。

 気づくと少し涼しい風が吹いてきた。

 河川敷公園には部活の学生らしい姿が増えて運動部らしい掛け声が増えていく。

「さて、けーるわ。うちんかかがカンカンだ。」

 目の前でそこそこの大物が釣れたので、つい手伝ってしまい余計な時間を取らせてしまったのだろう。

「おめさんはまだやるんかね?」

「そろそろ上がります。また来ようと思います。」

 そう答えるとおじさんは何かうんうんとうなずきながら釣り道具一式を持ち、水門を上がっていった。

 さてこちらも後片付けだ。

 残った練り餌は小さい握りこぶしほどなので土に埋めておこう。

 ほんの少しだったらもう一度餌にして投げ込んでみるのも面白そうだけど、もうちょっと量があるので埋めておくのがいいだろう。

 本流とぶつかるところの土の部分に落ちていた木の枝を使って少し穴を掘りそこに練り餌を入れその上に掘った土を戻す。

 今日は比較的のんびりともできたし、ファイトもできたしで完璧な釣りだった。

 道具を片付けながらつい顔がにやけてくる。

 本当に今日はいい釣りをした。

 またここで釣りをしたいなあと思った。

 次も魚が釣れるとは限らないけどこういうことがたまにあるから釣りはやめられない。

 おっと、ぼちぼち夜からの約束のために準備しますかね。

 ウキウキ号君も頑張ってくれたし、リールも家に帰ったら掃除してあげないと。

 また今度もいい釣りができればいいな。

 おっと、夜の約束の時間に遅れないように。

 荻曽根さんは今頃九州に到着したころかな?

 さて、明日の天気はどうかな。



 本日の釣行二匹目

 ○○川▽▽排水機場水門付近

 釣魚

 鯉 67センチ(スレ)

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