第2話 たまには大物を狙う。午前編
ゴールデンウィークも終わり、少し汗ばむような日が続いている。
ゴールデンウィーク中は栗ノ木さんの還暦レースがあってそのメカニックの手伝いのような、モドキのようなことをさせられたり、大通さんの家の田植えを手伝ったりとなかなか休みという休みはなかった。
というのも私が独身だということもあるのかもしれない。
「服部さんいくつなの?」
田植えの手伝いで稲の苗を運んでいる最中、大通さんの奥さんに聞かれた。
「三十六です。」
「じゃあ、そろそろお嫁さんもらわなきゃでしょ?彼女いるの?もしなんなら紹介しようか?」
押しの強い奥さんだ。ちょっと苦手。
「体も大きいし、スポーツ何かやってた?」とさらに突っ込まれると
「いやあ、あははは。」と笑ってごまかすしかない。
そんなこんなで春の連休は仕事と仕事の付き合いに追われたのだが、世間が仕事に追われ始めた頃になって、急にスケジュールが空いてしまう日がある。
自宅マンションを出て車に乗ったとたん、携帯電話が鳴った。
「はい、服部です。」
「服部ちゃん?ごめーん!今日の約束だめになっちゃった!」
「あれ?能代さん?どうしました?」
「実はさあ、さっきウチの奥さんの親父さんが亡くなったって電話があってさあ、九州に行かなきゃならならないのよ。」
「それはそれは、ご愁傷さまです。じゃあ、これから九州ですか?」
「そう、新幹線と飛行機で。鹿児島だからさあ。」
奥さん鹿児島出身だったのか。
「じゃあ、先方には私からキャンセルの旨お伝えいたしますので。」
「こちらも新幹線から電話しておくけど、服部ちゃんからも謝っておいて。じゃあ、これから駅に向かうからさ。」
「ではまた連絡をお願いいたします。」
携帯電話を切って時間を確認する。
午前八時五十五分。
先方も会社が八時半に始業だったはずだ。
急いで電話を鳴らしてみる。
「はい、株式会社荻曽根機械です。」
事務員さんと思しき声。
「すいません、服部と申しますが、社長の荻曽根さんはいらっしゃいますでしょうか?」
「服部様ですね、少々お待ちください。」
暫く保留音が流れた後、
「はあい!荻曽根です!」
と野太い声が返ってきた。
「お世話になります。服部です。先日はお話を頂きありがとうございます。」
「おーおー、これはこれは!こちらこそですわ!お世話になりますう!こんな朝早くに、どうしましたか。」
「実は先だって紹介させていただきました能代さんとそちらに伺うお約束でしたが」
「おーおー、お昼の約束の!今使ってない工場を見に来るというアレですな。」
「実はそれなんですが、能代さんのお宅で不幸がございまして」
と事の成り行きを説明する。
電話の向こうの荻曽根さんは電話の向こうで「おーおー」と相槌を打ってくる。
「おーおー、それは大変ですなあ。ではまた後日改めて時間を取るとしますか。」
「そうしていただけると助かります。後ほど能代さんからも新幹線からお電話差し上げると申しておりましたので。」
「おーおー、わっかりましたわ。」
「また能代さんが戻り次第早い段階でお時間を頂戴したいのですが。よろしいでしょうか?」
「おーおー、それではお待ちしておりますわ。」
と電話を切るのだが。
どうも「おーおー」の声が耳に残る。
とりあえず、連絡はOK。ちょっと安心した。
と、思ったが、さて今日の予定は夕方までないぞ?
夕方に大河津さんとの約束があるが、工場が終わってからの約束だから五時まですっかり空いてしまった。
家でもう一眠りするか?
いやいや、そんなもったいない。こんないい天気になったんだから。
・・・いい天気?
私は携帯電話の待ち受けを見た。待ち受けは常に天気予報になっていて、すぐに確認できるようになっている。
降水確率は十パーセント。
これは、神のお告げと思っていいんじゃないかな?
と思いついたらたまらなくなる。
「うん、釣りに行こう!」
思い立ったはいいが、さて、今日はどんな釣りがしたい?
いまが旬の釣り。今は五月。
五月といえば、こどもの日。こどもの日といえば鯉のぼり。
うん、鯉だ。
とはいうものの鯉はそう簡単に釣れる魚ではない。
それに釣った後、どうする?
食べるとなると水のきれいな場所で釣らないと泥を吐かせたりする手間が増える。
食べるのではなく、釣った後にそのままリリースするというのならば、針は外しやすいスレ針にした方がいい。
よく使われる吸い込み仕掛けは何本も返し付きの針がついているのでNGとなる。
ちょっと重めのオモリでリール竿を使ったブッコミ仕掛けが良いだろう。
ブッコミ仕掛けとなれば餌はサナギやミミズなども使える。
ミミズを使うと雑魚もかかる可能性もあるのでサナギを使うほうがいいだろう。
確か瓶詰のサナギ餌がタックルボックスに入っていたはず。
だったらちょっと流量がある川も視野に入れられる。
そう考えていくと釣りに行く場所のラインナップもおのずと絞られてくる。
水質はあまりよくなくても大丈夫でブッコミ仕掛けを使っても周りに迷惑をかけない、そして鯉がいると思われる川。
仕掛けは車に積んである。なので途中で釣具屋に寄らずに済む。
ということで出発!
私は車のエンジンを始動させた。
向かう先は十キロほど先にある一級河川の大川の中流、二級河川の治水のための排水機場水門のある場所。
コンクリで護岸されていて足元が明るい。そして何より大物が釣れているという情報もある。
そんな話を思い出して気持ちも弾む。
思わず、口元がにやけているのが自分でもわかる。と、バックミラーに映っている自分の顔に気づき、ちょっと顔を引き締める。
これではいかん、釣りは楽しむためにある。行く前に事故でも起こしてはそれこそ時間がもったいない。安全運転のために集中しなければ。
この距離ならゆっくり走っても、ものの二十分もあれば目的地に到着できる。
大川の河川敷に到着するとさすがに平日の午前中ということでのんびりとした風景。
近くの河川敷公園にも人の姿はない。
おそらく休日には多くの家族連れが訪れるのだろうが、現在は私だけのためにこの風景はあるかのように思える。
河川敷公園の駐車場に車を停め、助手席下に置いていた日曜大工のツールボックス大のタックルボックスを取り出す。
竿は短めの振出し式で二メートルちょっとほどの長さのリール竿を二本チョイス。
リールは竿と一緒に「ちょい投げウキウキセット」として買った三号の道糸が巻かれたスピニングリールと、いつもは海釣り用に使っている、この竿にはちょっとゴツめの五号の道糸が巻かれたスピニングリールをセット。
そしてタックルボックスを一度開けて中の仕掛けとサナギの瓶詰を確認。
それから車の中で背広を脱ぎネクタイを外し薄手のウインドブレーカーを羽織る。靴も作業用の安全靴に履き替える。これなら多少汚れても平気だろう。
「よし」
指先確認をして荷物を持ち、車のドアをロックする。
さあ、出発だ。
目指す釣り場はここから徒歩数分。
五月晴れの素晴らしい天気の中、私は小躍りしたい気持ちを抑えながら水門へ向かう。
川を渡る風が気持ちがいい。
こんなに気持ちのいい日に他の人は釣りに来ないのだろうかとふと疑問に思う。
年配の方とか暇に任せて魚釣りでもやっているのではないかと思うのだが、今の世の中は年配の方もいろいろとすることは多いようだ。
水門についてもだれも居ない。
これはまさにしつらえたような舞台。
足元にはおそらく以前に魚釣りをしていたであろうと思われる痕跡がコンクリートのそこかしこに見られる。
こういう場所に来るといつも思うのだが、やはりあまり行儀がよくない釣り人がいたらしい。
潰れたプラスチック製のウキやヨリモドシ、また一番いけないのはカミツブシオモリなどが放置されていることだ。
信じられない。
それまでの高かったテンションが一気に半分くらい下がってしまう。
私はウインドブレーカーのポケットに常備しているコンビニエンスストアでもらった小さなビニール袋を取り出しそれらを拾い集める。
せめて少しでもきれいにして、野鳥などがこれらをついばんだりしないようにしてほしいと思う。
自分の使う周辺だけを片付けたとはいえ小さなビニール袋半分ほどの釣り場ごみが集まってしまった。
多少げんなりした気持ちにはなったが、これで気持ちよく釣りができるというものだ。
私は水門の真下にタックルボックスを置き、釣り座として定める。
そして三号の道糸を巻いたリール竿をウキウキ号、海釣り用のリールをつけたほうをヤマト君としてそれぞれ命名される。
ウキウキ号は買った時のセットの名前でいつもなんだかんだで使っていて、おそらく二十年は使っている傷だらけの憎い奴だ。
もう一方の海釣り君は本来は組み合わせたことがないのと、元はウキウキ二号でもあったのでウキウキが被るということでリールの名前の方を優先させた。
何故ヤマトなのかは察してほしい。
まずはウキウキ号のほうから道糸をロッドガイドに通し、八号中通しオモリを通す。その先にヨリモドシを結ぶのだが、その前にオモリとヨリモドシの間にクッションとしてウキゴムをかませる。これによって仕掛けを投げる際のオモリからヨリモドシにかかる衝撃を和らげることが出来る。
そして針は鯉用のハリス付尼スレ七号をチョイス。
ハリスが二号なのでちょうどいい感じ。尺鯉サイズを相手にするなら問題ないだろう。
ヨリモドシとハリスを結び仕掛けは完成。
そしてリールのベイル(ナイロン製の道糸を巻き取るためのガイド)を開け、オモリが地面に着いた状態で振出竿を上に伸ばす。
これにより針があちこち振れるのを防いで服や体に刺さらないように注意しなければならない。
振出が戻らないように継ぎ目に力を込めて引っ張ったらリールのベイルを戻して準備完了。
ちょっと待ちきれなくなって、サナギの瓶詰を出す。
去年の秋に買ったもので常温保存が可能ということで何れ使おうと思って買ったものだ。
あまり大きくないのでクロダイ釣りに使おうと考えていたのだが、先に鯉釣りで使うとは思わなかった。
瓶を開けると特に匂いもなく、問題もなさそうだ。
瓶の中からサナギを一つ指で摘まみだし、針に刺す。
これで後は投げ込むだけ。
リールのハンドルを回しちょっと仕掛けを巻いて川面をのぞき込む。
コンクリの護岸から水面まで二メートル弱ほどあるか。
竿を下に向けると水面まで届きそうだ。
午前中はあまり排水をしないのかあまり水流はない。
しかしもともと泥を多く含む水のため濁りがあるがここしばらく雨は降ってないのでひどすぎる濁りではない。
この程度の多少の濁りならば魚を呼ぶので問題はないのだが問題は餌をどこに落とすか。ポイントを決めないといけない。
遠くに投げても意味はない。
大きな川だと水量が多く流れが強いので魚は岸か、障害物のある流れは緩やかになるところに集まる。ゆえに選択肢としてはそれこそ水門の桁となっている場所。
私はその桁の場所に狙いを定めた。
竿を持つ右手の人差し指で道糸を引っ掛けてリールのベイルを開ける。
人差し指で引っ掛けておかないと仕掛けがスルスルと落ちてしまう。
ポイントはすぐ数メートル先なので力を入れる必要はない。
竿でオモリを振り子のようにカウントをとりながらタイミングを合わせて人差し指の道糸を離す。
ひゅるるという軽やかな音を立ててオモリをともなった仕掛けが飛び、狙ったポイントにぽちゃんと音を立てて沈んでゆく。
暫くリールから道糸がするすると出ていくのだが、すぐに糸が出るスピードが収まり、糸がたるんだ状態になる。
オモリが川底に着いた。
おそらく水深が三メートルくらいはあるかもしれない。
そこでリールのベイルを戻しリールのハンドルを数回回して道糸のたるみを取る。これをやらないと魚が餌を食べて引っ張った時に竿がしならないのでアタリがわからない。これは大事。
さて、ウキウキ号は釣りをスタートしたが、もう一本のほうがどうするか。
水門からの先を見ると十メートルほど先に本流との合流点があり、そこはコンクリではなく蛇篭が川に浸かっているようだ。
タモ網を持ってきてないので、小物が釣れたら直接取り込んで、もし大物が釣れた場合はあそこまで誘導したほうがいいだろうと思いながらもう一本の竿に同じ仕掛けをセットする。
なんとなく鯉ダンゴを作っても良かったかなと思ったが、釣れなければ釣れないでそれそれで構わない。
「釣れたらいい」程度で押さえておくのが私の釣りだ。
絶対釣らなければならないと思うと、漁師になった方がいいだろうと思う。
他の人はどうか知らないが私は私の釣りを楽しむ。
そう思いながら準備をしていたらあっという間に仕掛けも出来上がる。
さっきから遠く葦原で甲高くさざめくような鳥の鳴き声が聞こえている。
その声を心地よく聞きながらサナギを針に刺し通す。
その前に、と私はウキウキ号のロッドのグリップにタックルボックスを置き固定する。
本来ならば竿立てを用意したほうがいいのだが、仕事用の車に釣り竿だけならまだし三脚の竿立てまで積み込む勇気はなかった。釣り場にあるもので代用できればそれでいい。
ということで手近なところに落ちていたレンガ大のコンクリ塊があったのでそれをウキウキ号のグリップに乗せ、タックルボックスはもう一本のほうに使うことにする。
多分このコンクリ塊は長年こうやって他の釣り人にも使われているんじゃないかと思うほどしっくりと馴染んでいる。
その場から一メートルほど離れた場所でもう一本の竿「ヤマト君」を出す。
こちらはポイントをその足元に設定。
実は釣り場の足元というのは意外といいポイントだったりする場合もある。
特に自然の状態ではないこういった水門などはいきなり水深が深くなっているので足元に魚が集まる場合がある。
海だと防波堤や消波ブロックの近くに魚が集まってくるのと同じ理屈。
その場でスルスルと仕掛けを落とし、川底にオモリが着底したところでタックルボックスを置く。
これですべての仕掛けをセットした。
安心した瞬間にのどの渇きを覚える。
腕時計を見ると九時半を回ったところ。
まだまだ時間がたっぷりある。
そういえば車の中に出がけに食べようと思ったパンと缶コーヒーがあったはずだ。
五百ミリリットルのペットボトルの水もあったはず。
近くにトイレもあったはずだから用を足しておいた方がいいかもしれない。
ならば今のうちに取りに行った方が得策かもしれないと思って私は小走りに車に向かった。
河川敷公園の公衆トイレで用を足し、水飲み場で手を洗う。
日和がよく、少しずつ気温も上がってきた。
ウインドブレーカーもいらないかもしれないが川の風はこの時期意外と冷たい場合があるので用心のために着ておくことにする。
駐車場の車に戻り、水のペットボトルと仕事で使っている折り畳み式の簡易踏み台を持ち出して釣り場に戻る。
さて、この数分の間に何か変化があるだろうか。と思ってはいない。
野生の鯉は巡回するように移動する魚でもあるし、釣れないものと思っていても全く差し支えないものでもある。
だからこそ釣れた時の感動もあるのだ。
簡易踏み台を組み立て、椅子の代わりに座る。
二本の竿は何も変化はなく、竿先が頭を垂れたような状態のまま。
本流の流れがたまに水門側に入り込むようだが排水機が動かなければこの辺りは大きな水の動きがない。
釣りをするならばそこがポイントとなる。
水流が緩やかならば餌となるものがそこに集まる。そうすると自然と魚も集まる。おそらく小さい魚を釣ることを前提としたならばおそらく今は絶好の時間帯といえる。
一瞬、仕掛けを変えようかと思う。
おそらくこのあたりだとウグイ、鮒、ニゴイ、オイカワ、ギギなんかが釣れる可能性が非常に高いと思われる。
小魚をこういう場で狙うのはちょっと違うとは思うが、それはそれで面白い釣りができると思う。
私もそういう釣りが嫌いなわけではない。
小さい魚がぴちぴちと跳ねる姿はとてもかわいいと思うと同時に必死さがある。
それをどんどん釣っていくのは楽しく思うし、いい感じに釣れたら甘露煮を作ったりもする。
海での釣りも良い。
たまには大変な毒魚を釣り上げてしまい大慌てな時もあるがそれはそれで楽しいものだ。
そして全く何も釣れないときもある。
何か歯車がかみ合わないときは釣りをしても全く魚が寄り付かなくなる時がある。
そんな時ですら私にはせせらぎの音を聴いたり、のんびりといつ動くかもしれない浮きや竿先の動きをなんの気もなくぼおーっと眺めたりすることで精神的に安らぐこともある。
暑い日は上半身裸になって太陽の紫外線を浴びながらキンキンに冷えたビールを飲むということもある。
ただ単に魚を釣ることだけを釣りの目的にしているわけではない。
今日は時間もたっぷりとあることで、それこそ小魚を数匹釣ることを目的としているわけではない。
尺を超えるような鯉を狙っているんだから、のんびり大きく構えていればいい。
釣れなかったとしたら、それはたまたま大きな鯉がいなかっただけだ。いたとしても餌を食べなかっただけ。それも運だし、それを悔やんでも仕方のないこと。
その間に私は別のことを楽しめばいい。
今日の場合、何を楽しむのかといえば、そう例えば…
空の青さ、ぽっかりと浮かぶ白い雲。太陽がさっきより高くなった。
遠く、かすかに聞こえる旅客飛行機と思う低音のジェット音。どこにいる?
飛行機雲が見えないので探すのに少し時間はかかったが真上から南の方角に少しずれたところに。
かなりの上空を飛んでいるのだがこの辺りは車道から離れているので車の走行音に邪魔されずそんな音まで拾える。
それだけじゃない。時折かなり遠くにあるはずの鉄橋を渡る列車の通過音も風に運ばれて聞こえてくる。
この一級河川を渡る鉄橋だからおそらくは百メートル前後はある鉄橋が掛かっていると思う。そこを列車が通るたびにガタゴトと橋脚が響いて水面とそこを渡る風を揺らす。
大きな川面はなんの障害物もない。それが十数キロ離れたここまで列車の音を運んでくるのだ。
近くにいると騒音になるものが、ここまで遠くにいるとなんと優しい音に変わるのだろうか。川の水と空気によって余計なものがそぎ落とされ、鼓動のような安心感すら覚える。
不思議な気持ちになる。
たったそれだけのこと。
でもそれがどれだけ心地が良いことだろう。
そこそこ暖かくなってきたところでペットボトルの水で喉を潤す。
水も日に当たったため冷たいという感じではなかったが問題ない。
そんな感じでのんびり二本の竿先を交互に見つめる。
ヤマト君にかすかな違和感があった。
ゆっくりとだがお辞儀をしているように見える。
私はそっと立ち上がり、竿のグリップを手にやる。
ちょっと水面を見てみるが排水機は動いている感じではなく、水流があるわけではない。
ここで考えられるのは、ゴミなどが掛かっているということと、魚が掛かっているという二者択一だが。
果たしてどちらだ。
魚だったらこのあとググっと竿を引き込んでいくはずだが、ゴミだったら動きはあまり起きないだろう。
しかし、たまにゴミだと思ったら魚だった場合もあるわけで、それはなかなか判断がつきづらい。
特に口が小さい魚だと一気に餌を食えないので餌をちょこちょこと突っつく場合もある。
この時は竿先がちょんちょんと小刻みに震えるので、餌や針を小さくすると釣れるパターンもある。
しかし、今回の場合それではいけない。
鯉という魚は餌を一気に食べるという魚ではない。
餌を周りの水ごと吸いこんでそして簡単に吐き出したりする。
なので餌を食べたと思っても簡単に竿を上げても魚には針が掛かっていないことがある。
きちんと餌を食べたタイミングが重要なのだ。
針が掛からなければ餌だけを取られることになる。
暫く竿の先の動きを見つめてみるが、それ以上に大きく動く気配がない。
そこでもう一つの可能性が出てきた。
これはおそらく根掛かりかもしれない。
グリップをもって竿を上げて見たら、重ーい手ごたえ。
あちゃー、やってしまった。
おそらくこの川底には何かが沈んでいるんだろう。例えば大きな木の根や蛇篭の一部がここまで来ているのかもしれない。
竿を立てて引っ張ってみるけど全く取れるような気配がない。
蛇篭の石と石の間にオモリが挟まると仕掛けが全部だめになってしまう。
濁りのせいで川底を確認できなかったのは痛かった。
このポイントは浮き釣りのほうが良かったのかと少し後悔する。
何度も通っているような釣り場なら川底の様子もある程度把握できるようになるのだが、これは初めての釣り場ならではの洗礼と受け取るしかない。
とりあえず、この状況を何とかしなければならないのだが。
何度も竿を立て、竿がぎゅうっとしなるほど力を入れてはみるもののなかなか仕掛けがっとれるような気配はない。
針だけが引っかかっているのならハリスがヨリモドシから切れてくれると被害は最小限で済むはずであるが、残念なことに今日は大物を狙っていたのでなかなか切れない。
あまり竿を振ったところで埒もあかず、竿自体を傷める可能性だってある。
自然保護の観点からあまりナイロンの道糸を長くは切りたくない。
私は観念して竿を置き、タックルボックスを開け、中に入っている小さめのタオルを右手に巻き付ける。
そして根掛かりした仕掛けを右手に持ち、道糸をタオルの上から三度ほど巻き付け、一気に力を込めて引く。
タオルを巻いておかないと力を入れた瞬間にナイロンの道糸が手肌に食い込んで指を切る可能性がある。軍手があればなお良いのだが、用意が足りなかったのでタオルで代用した。
暫く力を入れ続けていたら、いきなりググっと抜けた感じがして仕掛けがふっと軽くなるのを感じた。
急いで仕掛けを引き上げてみると意外なことに仕掛けはほぼ無事だった。
右手のタオルを仕掛けを針先からまじまじと調べると、針の懐がすこし広がっているように見える。
おそらくは大きな岩か何かに針先が引っかかったのだろう。本来ならハリスが切れるところだったがハリスそのものが太目で丈夫だったので切れずに針そのものが曲がってしまったのだと想像できる。
とりあえず今後この近辺でのブッコミはやめておこう。
仕掛けは巻き取り、ヤマト君は片付けることにした。
この排水機場水門周辺は意外と障害物が多いということが判っただけでも良しとしよう。
ここからは竿は一本で。そのほうが集中できる。
そう思ったらとりあえず、現状の把握だ。
ウキウキ号の仕掛けを一度上げてみる。
軽く竿をしゃくり、アタリを見るが抵抗はない。
リールで仕掛けを巻き上げ、餌の具合を見てみる。
サナギは特に状態の変化がない。
やはり餌を別のものに変えたほうがいいかと考えてみるが、今から釣具屋に行って餌を買うというのもなんとなく間抜けに思える。
いや、ここは最初に決めたとおりにサナギで通すのが筋ではないか?それが私の釣り哲学ではないか?いや、哲学なんて全然ないのだが。なんとなく。
そういう流れもあるのだからしょうがない。
私は餌を刺しなおす。
釣針の先が出ていなかった。
ある程度の大きさの口を持つ魚でなければ一気に飲み込むことは不可能なので多少針先が出てもいいんじゃないかと思い始めてきた。
当初に比べるとやや弱気になっているかもしれない。
いや、まったく釣れないよりいいじゃないか。
・・・やはり弱気になっている。
釣れなくてもいいとは思っていてもやはり釣れてほしいと思うのは釣り人としての本能というか。
誰に言いつくろっているのだ私は。
とにもかくにも釣りを続行しよう。
再び、さっきのポイントに向けて仕掛けを投げ入れようとするが、竿の操作を少し誤ったせいか少しだけ先ほどのポイントから下流側にずれてしまった。
まあ、特に問題はないだろう。
のんびりアタリが来るのを待つとするか。
相変わらずの日差し。
やや熱く感じるようになってきた。
ペットボトルに手が伸びる。
キャップを開け、口に運ぶ。
数度、喉を鳴らして水を飲む。
いつもこんな時に思う。
魚を釣りたい。けど、魚は簡単に餌を食べてはくれない。野生ならいろんな経験を潜り抜け警戒心が強くなっている。
その中で魚を釣ろうと必死になっている自分の姿。
他の連中もおそらくは同じ。釣りをするものはおそらく全員が魚を釣るために必死にいろんな仕掛けを使い、技術を駆使する。
「ふふっ」と思わず声が出た。
こんな哲学をしてどうするというのだろう。いや、釣りというのは釣人の哲学なのだ。
釣りは狩りと同じ。常にそして永遠に疑問を繰り返すものだ。
その瞬間ふいに竿の先が動いた。
「!」
思わず手が竿のグリップを握る。
でもまだ、引いても押してもいけない。
針は十分に大きい。そして相手は餌を吸いこんだり吐いたりする強敵だ。
だが、今回は竿の動きが全く違った。
ガガガっと竿の動きが止まらない。
慌てながら竿を立てて合わせを試みる。
がんっと鈍くアタリがある。
重い!!
ぎゅうっと竿が弧を描き、道糸がピンと張る。
「フィッシュ!」
思わず声が出た。
が、頭の片隅で思っていた。
これは違う。
これは鯉のアタリではない。
ならばなんだろう。この辺りで釣れる魚は何が予想できるか。
逆にそれはそれで釣れた時の楽しみでもある。
ググっとさらに引いていくがリールが悲鳴を上げるほどではない。
竿を寝かさないようにそれでいて、糸に無理な負担が掛からないように力の加減をを怠らず。これは経験でしかできないことだ。
釣りは経験がものをいうという人もいるがこういうときがまさにそうである。
無駄に引けば糸が切れたり、竿が折れたりする。力の加減をその都度覚えていくので経験値はあればあるほど良い。
ただ、釣ったことのない魚や想像以上に大きい魚が釣れた時はこの経験値は全く役に立たない。
とはいうものの、今この状況下においてこの引きはどうかというと。
「ニゴイかウグイかな…」
濁った水面から翻った魚体がちらりと見える。
大きさは尺、つまり三十センチ以上の大きさが見込めるのだが、鯉の魚体に比較すると体高が細いし、色合いが白い。引きも鯉のような粘り強さがない。
引きが弱まるたびにリールを何度か巻いて竿を立てていると、いよいよ魚のほうが観念したらしく、頭が水面から出た。
明らかに鯉に比べるとほっそりとした頭。
鱗の様子から見てニゴイに間違いない。
竿のしなり具合に注意しつつ、そのまま下流側の蛇篭の所まで降りて魚を足元まで引き寄せると最後の抵抗もあまりなく、そのまま岸に揚げることができた。
重いといえば重いのだが、暴れなければ意外とそのまま持ち上がる大きさだ。
すぐに仕掛けを手にして吻を見ると、うまい具合に針が掛かっていた。針合わせのタイミングは丁度良かったということか。
針もカエシがないタイプなのですぐに外すことが出来る。
時折思い出したように魚体がバタバタと踊るので素早く携帯電話のカメラを起動し、自分の足を定規代わりに魚と並べて写真を二回ほど撮る。
尾びれの先まで大体四十センチ強。そこそこの大きさといえる。
もう一度近い距離で写真を撮り、携帯電話をポケットに仕舞ってから釣れたニゴイを水に返す準備。
まずは手を水にしばらく漬け、そして魚体のヌメリをできるだけ取らないように、そして片手は頭側は目を隠すようにして、もう片手は尻尾の付け根を持ち、両方から魚体を持ち上げる。
少し魚は暴れるが、これくらい元気があれば問題ない。
そのまま魚体をゆっくり水面に近づけると自ら身をよじらせて水に飛び込み、そして何事もなかったかのようにそのまま水底に消えていった。
あまり触らないようにしてたとはいえ、川魚の、特に下流域の魚のヌメリは泥臭くあまり気持ちのいいものではない。
一度川の水で手を洗い、ペットボトルの水でもう一度手を洗う。
とはいえ、残り少ないペットボトルの水を大量に使うわけにもいかず、少し匂うが、そのままにした。
どちらにしろ後で石鹸で手を洗えばいいだけのことだ。
本日の釣行1匹目
○○川▽▽排水機場水門付近
釣魚
ニゴイ 43センチ
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