今日は釣り日和。

さとつぐ

第1話 春は小川で

 ここ数日、ふんわりと暖かい風を感じることが増えてきた。

 田圃に水を入れるのはまだまだ早い時期だが陽の出ている時間は日向にいると眠ってしまいそうな日和がここ二日ほど続いている。おそらくは明後日には雨が降って少し寒くなるのではないだろうか。

 でもさすがにもう雪はないだろう。

 遠くの山にも白い模様は先月に比べてもずっと減ってしまっている。

 ということは、そろそろあの時期が近づいているということで。

「服部さん!遅れてごめんなさい!」

 遠くから呼ばれて思わず現実に引き戻された。

「あ、ああ、栗ノ木さん。ちょっと早く到着してしまって。」

 栗ノ木さんは先日還暦を迎えたとは思えないほど矍鑠としてスマートな紳士だ。

 シックなダークブラウンのミニ・クーパーを降りてきた紳士は薄茶色の紙袋を手にしてにこやかに私に歩み寄ってきた。

「ちょっと買い物行ってきてね。ついでにオイルも交換してきたよ。」

 と栗ノ木さんは紙袋から焼きたてのタイ焼きを私に一つ渡してくれた。

「ありがとうございます。」

 私はお礼を言ってタイ焼き受け取りつつ

「そろそろパーツのほうは出来上がりますので、来週には最終的な寸法を合わせていこうかと思います。」

「ああ、任せたよ。ゴールデンウィーク前には試走させたいしね。後2か月だけど大丈夫?」

「エンジンやシャーシ、足回りともに問題ありませんし、ボディのFRPパーツもすぐに出来ますので。十分間に合うと思います。」

 栗ノ木さんは還暦を機にレーサーデビューをするために自らの私財でレーシングカーを作ろうとしている。

 もちろん趣味の範囲で行う軽自動車のレースなのだが、本格的な奴だ。

 私の役割はそういった車のパーツを集めたりパーツを作る職人を探したりしている。

 しばらく話をしているうちに栗ノ木さんの携帯電話が鳴った。

「もしもし」

 私はタイ焼きを手に遠く景色を眺めた。

 栗ノ木邸は田園地帯のど真ん中にある。

 工場を備えた家にするため格安な広い土地を探した結果ここになったという。

 ゴールデンウィークになるとこの周辺は田植えが本格的に始まるだろう。

 車を扱う稼業では田植えは関係はないのだが、私には別の意味でそわそわしてくる。

「…ああ、わかった。すぐにそっちに行くから。」

 電話を切った栗ノ木さんは小さく息を吐いて

「ごめん、また人手が足りなくなったみたいだからちょっと出てくるわ。」

 栗ノ木さんはいろんな事業を行っている。

 コンビニエンスストアやガソリンスタンド等を経営しているというのだから大変なものだ。

「また連絡しますので!」と私が声をかけると栗ノ木さんは軽く手を振り、さっき乗ってきたミニクーパーに乗ってあわただしく出て行ってしまった。


 時間は昼をちょっと超えたあたり、次の約束は夕方。

 三時間ぐらい時間がありそうだ。

 気持ち良い天気。そこにちょっとした時間が出来たと思ったらいてもたってもいられなくなった。


「うん、釣りをしよう。」


 そういう気持ちでいっぱいになるといけない。

 私は乗ってきた営業用のカローラバンに飛び乗った。


 ここからそう遠くないところに二級河川があったはず。この周辺の田圃は全部そこから農業用水を確保する。

 その農業用水は今の時期水量はあまり多くない。多すぎると流れが速くなってのんびりとした釣りはなかなかできない。

 つまり「今なら短い竿でも十分に釣りができる」ということだ。

 もうすぐ乗っ込みが始まる。卵を抱えた魚が徐々に細い用水に向かおうとしている。それはそれで楽しい釣りが期待できるけど私がしたい釣りはそういう釣りではない。

「のんびりゆったりとした気持ちで魚を釣ること」

 気持ちよく魚と駆け引きが出来ればいいのだ。

 もちろん釣れないより釣れたほうがいい。ただ、釣るために何してもいいということではない。


 車を走らせ五分もすると二級河川に流れ込む農業用水路を見つけた。

 丁度いい具合に車を置くスペースもある。おそらくはトラクターや田植え機を置くスペースなのだろう。今は使っていないようなので車を置かせてもらう。

 用水路は幅三メートルほどで両岸は一部コンクリで固めてられいるが、少し離れると杭と泥で固められた感じの、魚にしてみたらそれこそ「ここにあつまってください」と言わんばかりのいい感じの岸だ。雑草もいい感じに伸びていて、ここに魚がいなくてどうするのだ。と言っているようなものだ。

 おそらくは鮒やクチボソ、ハヤ、モロコ、カワムツ、タナゴあたりがぼちぼちとぬくまった水辺に集まるんじゃないか?

 水面までは高いところで九十から百センチほど、水深は水の濁りと周辺の状況から五十センチもあるかないか。

 田植えが始まるとおそらく大量の水が流れるだろう。

 そうすると仕掛けが流れてしまって別の釣り仕掛けを用意しなければならない。

 そう、仕掛けが問題だ。

 私は車を降りて荷台のハッチを開ける。

 車のパーツに紛れこませていた三十センチほどに縮んだ振出式のカーボン竿とタックルボックスを取り出す。

 タックルボックスといってもティッシュボックス二個重ねたほどの小さめの工具箱のようなもので中にはいくつかの釣り用仕掛けが入っている。

 私は素早くタックルボックスからいくつかある仕掛けのうち比較的小魚を釣るために作った専用の仕掛け巻きを取り出した。

 竿は振り出すと三メートル弱の先調子。誰にでも扱いやすい価格帯も手頃な延べ竿。

 仕掛けは道糸零コンマ八号に浮きゴムとヨリモドシをつけただけの単純なものにした。

 用水路とはいえ、水の減っている状態で両岸には葦など枯れ草がところどころ残っているので針を取られる可能性もあるだろう。

 ちょっと考えて釣針はカエシが付いてない秋田狐スレ三号の出来合いをチョイス。ハリスが細目だけど、たぶんこのような用水路に鯉などの大物はいないだろうという判断。

 ハリスの長さを三十センチ弱にしてヨリモドシに通し、浮きゴムには一番小さめの黄色と赤のポンポン浮きをセット。板オモリを目分量で指でちぎり、ついでに目の端に映った背の高い雑草の茎を取って浮きの下の道糸と並べてオモリをくるりと巻く。

 そのあとに茎を抜けば中通しオモリと同じ感じになる。

「よし」

 滞りなく準備ができたので満足の声が出る。体感的に七~八分も掛けていないはずだ。

 幸先がいいぞ。


 仕掛けを竿の穂先に結び、振出竿をすっかり伸ばしたら私は完全に「釣り人」になった。

 さて、餌をどうするかということだが今は便利な世の中になったものでグルテン餌というものが売られている。

 駄菓子のグミを入れているような小さな容器に乾燥した餌が入っていて、水を少し加えると練り餌のようになるやつだ。

 タックルボックスにももちろん入っている。でも今回それは使わない。

 さっき頂いたタイ焼きが今手の中にあるからだ。今回の餌はこれだ。

 ちょっと面白い実験だ。

 もちろん釣れないかもしれないけど、魚が釣れることが重要なんじゃない。

 釣りをすることが大事なんだ。

 私は用水路に掛かったコンクリ製の橋の下から攻めることにした。

 コンクリ製なので護岸工事のしっかりしたところだろうから水深はある。魚は影に隠れる習性もあるということを考えると最初に攻めるポイントとしては悪くない。

 何よりネクタイ姿に革靴といういで立ちで泥にまみれるのはこの後の約束を考えると少々度胸が必要になる。

 私はタイ焼きの尻尾を小指の先ほど千切ってちょっと硬めに揉み、繭のように丸め、そこに釣針を埋め込むように仕込み、落としどころを決める。

 そこではっと気づいた。

 タナをどうとるか。

 狙うのが鮒であれば底なのだが小魚であればちょっと浮かせてもいいだろう。

 もう一度うす茶色の水面を見て浮きをきゅーっと十センチほど穂先のほうに上げた。これで水深六十センチくらいか。

 これがヘラブナ釣りならタナ選びはもっと慎重になるが、春のうららかな日差しをのんびり浴びての釣りがメインと考えたらそんなことは些末なことだ。

 私は仕掛けを目標の位置に落とし込んだ。


 竿の調子はいつも通り、仕掛けも道糸が張った状態で維持できる良い位置にきちんと沈み込んでいく。

 もし水深が浅ければ浮きが立たないのだが、その心配はなかったようですぐに赤い頭がぽっこりと水面に浮いた。

 逆にもう少し水深があったかもしれないが場所に拠るのか。

 水路には流れもなく浮きもポイントからほぼ動かず。

 と、その瞬間に浮きがふわっと揺れた。

 思わず竿を持つ右手に力が入ったが浮きの動きが止まったのでちょっと様子を見る。

 焦るな。小さな魚ならば急に全部を食べ切れる量ではない。次のアタリまで待ってみればどうか。

 大きな魚だったらあっという間に浮きは水の中だ。

 目を凝らしてものの数秒後、再び浮きがふうっと風に揺れたような流れを見せる。

 それっ!今だ!

 竿を持つ右手を順手からドアノブをひねるように回すと竿の穂先と硬化ナイロンの道糸がキュンと高い音を立てて浮きを数センチ引き上げる。

 すると竿を伝ってくる抵抗感!これは!

 あ、ああ。残念。

 黒く変色した小さな枯れ枝がハリスと釣針に絡まって上がってきた。

 残念だが、しかしこれは織り込み済み。釣りをするヤツでこれを覚悟しないものはいない。

 左手で仕掛けを手繰ると枯れ枝を取ってちょっと眺めてみる。

 泥をかぶってないようだ。もし泥をかぶっていれば底に届いているということだからウキ下を調節したほうがいい。しかし、そんな感じではないようなのでこのままでいいと判断する。

 タイ焼きの尻尾を再び千切り、もう一度釣針を埋める。

 考えてみればさっきの浮きの動きは風や水の流れのせいだとは思えない。

 きっと魚はいるんだ。

 そして餌を食べようとしている。

 私は祈るように先程ともう一度同じポイントに仕掛けを落とした。

 ポンポン浮きはすうっとかわいい赤ドームを水面に作る。

 今度は数秒数えるかどうかというタイミングでまたすうっと浮きが数ミリ動いた。水面にちょっと波紋が出来た。

 いるじゃないか。

 魚が。

 食べるじゃないか。

 タイ焼きを。

 魚が魚を食べるってわけじゃない。タイ焼きはあくまでも小麦粉と卵だ。でもそれはいくつかの練り餌の内容物と同じだ。

 だからきっとお・い・し・い・さ!

 浮きが動くのを見逃さず右手のスナップを利かせる。

「フィッシュ!」

 本来ならアタリというところだがバスを釣る若い連中が「ヒット」「フィッシュ」といってたので語呂の良さから、やはりそう口に出る。

 手に伝わる軽い振動のような抵抗感。

 銀鱗が跳ねて水を散らす。

 ぴちぴちと尾を振り、魚が水面から中空へと飛び出す。

 私は竿を立て、仕掛けを手繰り寄せた。釣れてきたのは五センチほどの鮒。

 魚体を傷つけぬように左手でハリスを持ちつつ、右手人指し指と親指で竿を仕掛けを持つ。

 ハリが小さいので下手にアワセを遅らせるとすると飲み込んでしまう恐れもあるが、今回はうまく吻にハリがかかっている。

 右手で仕掛けの長さを調整しつつ針の結び目を左手の指で持つと観念したように魚は暴れなくなった。

「ようしようし。」

 私はそこで満足して左手の手首のスナップを効かせて針を振った。

 針にはカエシが付いてないので魚は自らの重みでハリが外れ、そのまま用水に落ちた。この間十数秒程度。

 食べるつもりならまだしも、ちょっと釣りを楽しみたいだけなので魚体を長い時間、空気に晒す理由はない。

 私はそのまま満足してふうと大きく息を吐いた。

 腕時計を見るとまだ釣りを始めて三十分も経っていない。

 釣竿を傍らに置き、雑草の生えた橋のコンクリ製の欄干に無造作に座り込んだ。

 落ち着くと気温はあれから数度上がったようで、脇に汗を感じる。ちょっと耳を澄ますと交通量の多い広域農道を行き交う車のエンジン音が少しぬるまった風に乗って運ばれてくる。

 しかしいい釣り場だったと思う。

 もし私が小学生の頃ここに出会ったら一日かぶりついただろう。

 特にこんないい日和だと状況によっては数釣もできただろう。専用の練り餌も作って一日釣り放題だっただろうと想像できる。

 私はほぼ無傷のタイ焼きを頭からがぶりとほおばった。

 タイ焼きは既に冷えていたが口の中に残った粒餡は充分甘かった。

 私は思いがけなく釣りを楽しんだことに満足してもう一度水面を眺める。そしてまた空を見上げると太陽が少し傾いていて、でも私の影は先月よりずいぶん短く感じられた。

 贅沢な時間だ。

 社会人となって、それで釣りができる気持ちがあるという贅沢。

 釣りは時間という餌が必要だ。

 時間は大切に使おうとすればするほど無駄が出てそれを取り戻そうとするとさらに無駄を出すことがある。

 だったらもういいじゃないか。どうせならいっそ贅沢に時間を使ってしまえば。

 私は半分残ったタイ焼きを一遍に口に詰め込むと竿を手に取りズボンのポケットに入れていた仕掛け巻を取り出して最初に巻いてあったようにくるくるっと巻き上げた。仕掛けが単純なのでものの三分で全部巻き上げた。

 穂先の結び目をほどき、ポンポン浮きを外す。そして車に戻り荷台を開け、タックルボックスを開け、もともとにあった場所に仕掛け巻をしまい込む。

 車に常備されている使い古された手拭いを右手に持ち、竿を拭いながら振出竿をしまいこむ。

 ものの十五分で片付けも完了。

 贅沢に時間を使って気持ちよく魚を釣って一時間弱。

 パチンコで遊んでも本を読んでいても一時間は一時間。

 だったらせめて自分が好きな一時間を過ごせるならそれでいいじゃないか。

 私はこの用水路に向けてつぶやいた。

「また来るよ。」



 本日の釣行

 ○○市▽▽土地改良区広域農業用水第35用水路

 釣魚

 マブナ 5.5センチ 1匹


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