5 記憶の神社
美邦はスマートフォンを受け取り、写真をタップする。
さびれた漁港の画像が現れた。画像の奥へと波止場が続いており、そこに漁船と民家が連なっている。漁船やポールには紅い布が結われていた。雨上がりに撮られたものらしく、まばゆい光に景色は包まれている。
美邦は画面を
町のあちこちを撮った画像が次々と現れた。
特に目を惹いたのは、民家の軒先に吊るされている紅い布だ。短冊やスカーフ状の紅い布が家々の軒先にも吊るされており、潮風に
「ここは――来たことがあるように思います。」
「まあ――そうだろうね。三歳のころまでは住んでいたんだから。」
「特に、この紅い布のことが記憶に残っていたみたいです。」
美邦は写真の中の紅い輝きを指さした。
「確かに、これは平坂町以外にはない文化だね。おまじないというか――まあ、一種の厄除けみたいな感じで、平坂町の住民は、みな軒先に紅い布を吊るしとるんだ。」
へえ――と美邦は相槌を打つ。
「写真を撮るのが、好きなんですか?」
「下手の横好きだよ。それっぽいのを撮って、フェイスブックに上げているだけ。」
美邦は再び画面に目を戻す。
下手の横好きと言ったものの、啓の撮った写真はどれも鮮やかな光を放っており、美邦の目を惹いた。
写真を眺めているうち、平坂町にいた頃の記憶が蘇ってきた。母との記憶や神社、波止場に連ねられた漁船の風景――。自分の生まれた地へ帰りたいという気持ちが、急激に強まった。
しかし全ての写真に目をとおし終えたあと、物足りないような、何かが欠けているような気分となった。その原因は明らかであった。
「あの――神社の写真ってないんですか?」
啓は怪訝な顔をする。
「神社――?」
「ええ。確か、立派な神社があったと思うんですが。両親と、よく一緒にお参りしていたように思います。とても大きな鳥居が、山のふもとに建っている神社です。」
神社の思い出は、母のとの思い出に次いで、町の記憶の中で最も大きなものであった。
美邦は母に連れられてよく神社へとお参りしていた。鎮守の
しかし、啓の口から出てきた言葉は意外なものであった。
「神社は――別の処なんじゃないかなあ。」
「えっ――?」
「平坂町にも神社はあるんだが、どちらかと言えば祠だなあ。山の中じゃなくって、平地に建ってるし。いや、それ以外にあったかどうか、少なくとも僕は知らんけど。」
一瞬、周囲から音が消えたような気がした。
「え――本当に?」
「ああ、本当だが?」
啓は戸惑ったような表情をしていた。
けれどもそう言われれば、美邦には何も言い返せない。それでも、平坂町には神社があるような気がする。平坂町に神社は本当にないのか――とりあえず、それはあとでインターネットで調べてみようと思った。そして実際に、平坂町へ足を運んでみるのも悪くはないだろう。
「やはり一度、行ってみるべきでしょうか――平坂町に。」
「そのほうがええと思うよ。美邦ちゃんにとって、平坂町は全く知らん処と同じなんだけん。今後のことは、これからでもゆっくりと考えたらええよ。どうしてお父さんが平坂町を離れたのか、それを美邦ちゃんに黙っていたのかは、明日にでも訊いてみるから。」
「そう――ですね。」
土色をした珈琲の中へと美邦は視線を落とした。
「けれども――もし私が叔父さんの元で暮らすこととなったとして――その――話しておかなければならないことがあるんですけれども――。私の、
啓は美邦の顔をちらりと一瞥し、そしてすぐに視線を逸らす。
「ああ――ひょっとして、その左眼のことかな?」
「はい。」
美邦は左眼を失明していた。右眼は健常なのだが、左眼は光も見えない。瞳は鉛色に濁っており、外斜視である。幼さを残した端正な容姿の上で、目元はグロテスクな様相さえ醸している。
これが大きな劣等感となっていた。この容姿のお陰で、心無い言葉を浴びせられ、嘲笑の対象とされてきたことは数知れない。
「けれども――右眼は大丈夫なんだろう? ちょっと見たところでは、何も不自由そうには思えなかったけれども。」
その程度では問題にならないことなど分かっている。しかし、美邦の障碍はこれだけではないのだ。
「いえ――私には、シャルル・ボネというのもあるんです。」
「シャルル――?」
ええっと――と言い、美邦は下手な説明を始める。
シャルル・ボネ症候群は、視覚障碍者に現れる幻視の症状だ。視力薄弱者や片眼障碍者が、ありもしない物体・現象などを見てしまうことを指す。フランスのシャルル・ボネという哲学者が、片目の視力を失って以降、子鬼や悪魔など、ありもしないものが見えるようになったと報告したことからこの名前がついた。
幻視といえども、現実のものと変わりなく見える。しかしこれは、気が触れているのではない。見えている本人は、それが実在しないものであると理解している。原因は詳しく解明されていない。恐らくは、失われた視界を
美邦の場合は、奇妙な人影が見えるのだ――靄のような黒い人の姿が。光の加減によっては、衣服や髪型も分かることがある。
幸いと言うべきか、歳を経るごとにそれが現れる回数は減っていった。だが、墓場や病院など、美邦が何となく不快感を覚える場所ではよく現れる。
特に小学生のとき、「平和学習」の一環として広島を訪れた際は酷い目に遭った。原爆による被害を展示した記念館では、狭い空間の中に、今までに訪れたどこよりも大勢の人影が
美邦の説明に、啓は一応、納得したようだった。
「それで――その、シャルル・ボネというやつで、何か生活に不自由を感じたりすることは、あるのかな?」
「いえ――特にはありません。ただ、ちょっと挙動不審になったりすることはあるかなといった程度です。」
「それなら、特に気に掛けるんでもええでないかなあ――。いずれにしろ、まだ何も決まった話ではないんだし。家族には僕から説明するけん。そのへんのことは、これからゆっくり考えやあや。」
「ええ。ありがとうございます。」
美邦は、冷めかけた珈琲をすすった。心には、自分が住んでいた町を訪れてみたいという気持ちが芽生えている。
それと同時に、平坂町からも別の不安を感じ始めていた。
昭はなぜ――平坂町のことを今まで美邦に隠していたのだろうか。そのせいで、美邦は、啓とも、母親の眠る墓所とも無縁のまま今まで過ごしてきた。啓の説明も、昭の説明とは少しだけ違っている。
決して――不誠実な父親ではないのに。
そこに美邦は、何か不気味なものを感じているのだ。
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