5 平坂の大神
「――母さん。」
冬樹は僅かに開けられた引き戸を開け放った。古泉家の内部に続く廊下が明るみになる。早苗の背後には、無表情な顔をした幸子が立っていた。
早苗は顔面を蒼白にしている。
「ふゆ――き?」
そして小刻みに震えだした。目の前の息子は、神送りの儀式で使われる御鉾を手にしているのだ。その後ろには、神棚のような物を持った巫女と、逃げ場を塞ぐように立つコート姿の男たちがいる。
「こんな処で何しとるわけ? 祖母ちゃんは?」
「あ――ああ――」
――叔父さん夫婦と小学生の娘さんと一緒で。
――そうなの。私の家とちょっと似とるかも。
「お母さん――」
美邦は玄関へと上がり、早苗の前に歩み出る。
早苗は二、三歩ほど後ずさりして、廊下の上へと尻もちを突いた。
「私は平坂神社の大原美邦です。神送りの儀式を行いに参りました。」
「そんな――まさか――貴女が。」
大原という名前を聞き、早苗は絶句していた。無理もない。早苗は一か月以上も前に、美邦と顔を合わせていたのだから。
――そして二人は中通りを北へと上ってゆく。
――中通りを西に逸れ、迷路のような小路を
――下っていったその先に幸子の家はあった。
――少しして母親らしき中年女性が出てきた。
美邦が初めて早苗と顔を合わせたのは、幸子の見舞に来たときであった。そのとき美邦は早苗のことを幸子の母親だと思っていたし、早苗もまた、美邦が平坂神社の娘などとは思ってもいなかった。
――早苗は仕事に出ていたため不在であった。
――全然希望しとらん学校に行くのも厭だら?
そして早苗は高校の事務員でありながら、土曜日は必ず出勤していた。
しかし――実際は古泉家へ通っていたのだ。この家の中で、早苗は古泉幸子の姉であり続けた。
――家から出て坂道を昇り、中通りへと出る。
――伊吹山の巨躯が目の前に現れ、わたしを
――圧倒するのは、いつもこのときであった。
――冷たい風が右の頬に強く吹きつけている。
十年前――当然ながら冬樹は早苗と共に眠っていた。寝室には、大きなぬいぐるみがあったことも覚えている。
そして、藤村家は青ヶ浜のすぐ近くだ。
――籥の演奏は、ゆっくりわたしの家のそば
――までやって来て、青ヶ浜へ去っていった。
「十年前に貴女が平坂神社から連れ出された方は、本来ならば冬至の日に常世の国へとお返ししなければならなかったのです。今から、そのための儀式を行います。」
しばらくして、早苗は諦めたような顔となった。
そして、開き直ったように言う。
「ここにいるのは、神様じゃありません。常世の国から帰って来た妹なんです。十年前、わたしにだけはそれが判ったんだから――」
「何、寝ぼけたこと言ってるんだ?」
冬樹は冷淡な声を投げかけた。
――俺ん家の本棚に、常世について詳しく
――研究した本があるし、何なら貸そうか?
「常世の国から来たマレビトに、名前どころか個性すらあるわけがない。母さんなら分かるだろ?」冬樹へ影響を与えた早苗なら。「マレビトという存在は、人間が名前をつければ何にでもなるんだ。ただ――母さんがそのマレビトに名前を付けたから、古泉幸子という存在になったんだよ。」
早苗は一瞬、訳の分からなさそうな表情をしていた。
それから、恐る恐る背後を振り返る。
幸子――いや、寄神は――全く動じていない。冷淡な表情を保っている。その表情を目の当たりにして、早苗の顔色は変わる。表情も反応も、幸子のものではなかった。
「――嘘。」
再び絶句する早苗に、美邦は声をかける。
「そこにおられるのは、古泉幸子さんではありません。藤村君の言うとおり、名前を付ければ何にでもなるのです。実際、お母さんが古泉幸子と名前を付けられるまで――その方は間違いなく三輪大物主命様でした。近代に入って三輪大物主命と名付けられるまでは、『みかりさま』や『平坂の大神』と呼ばれていたと聞きます。恐らくは、恵比寿様の一種であると考えられた時期もあったのではないでしょうか。」
冬樹には、十年前に早苗が何をしたのかは分からなかった。しかし早苗の反応から察するに、どうやら意図して寄神に「古泉幸子」という名前をつけたわけではなさそうだ。ならばひょっとしたら、谷川の言うとおり、偶然にも波長が合ってしまっただけなのかもしれない。
「もう解ったろう――?」
鉄鐸の吊るされた御鉾を持ち、冬樹は早苗の前に歩み出る。
「神送りを行うぞ。」
「――やめて。」
早苗の制止する声を無視し、冬樹は鉄鐸を高く打ち鳴らす。鳴らし方は、神社庁支部で何度か練習していた。夢の中で聞いた銅鐸の音色と寸分
余韻が退いたあとは、渚のような静寂がその場を支配した。
しかし、渚のあとに返って来た波は大きかった。
寄神を中心として、黒い
黒い焔は冬樹の視界を全て覆ったあと、ゆっくりと収縮した。その中で冬樹は、古泉家の内部が煤のように剥がれ、上昇しながら消えてゆくのを見た。早苗の作り出した幻影が消えてゆき、放置されてもう何年が経ったのか分からないような、荒れ果てた廃屋の本性が現れた。
黒い焔は廃屋の闇へと溶け、収縮すると同時に見えなくなった。
外から差し込む街燈の光以外、闇に包まれた。ただ、ぶすぶすと焼け焦げたような臭いと、微かな煙が街燈の光に照らし出されている。
「大原さん――!」
冬樹は振り返り、美邦に声を掛ける。
「うん、私は大丈夫。――藤村君は?」
「大丈夫だ、問題ない。」
冬樹は暗闇に目を凝らし、廃屋を見回した。寄神の姿はどこにもない。目の前には早苗が呆然と坐り込んでいた。冬樹は屋外へ声を掛ける。
「谷川さん!」
「はい――!」
谷川は廃屋の中へ駆け込み、そして周囲を見回した。やがて懐中電灯を持った職員達も這入って来て、家の中を照らし出した。
「美邦ちゃん、この家の中に神様はおられますか?」
美邦はしばし考え込んだあと、静かに首を横に振る。
ふと、何かに気づいたように、早苗は立ち上がった。
「お母さん――」
譫言のように口ずさみながら、早苗はよろよろと居間へと向かった。
冬樹はそんな早苗の様子が気にかかり、あとへ続く。
居間で早苗は、床に横たわる何者かの姿を見つけた。
「お父さん――」
それはミイラ化した遺体であった。身に付けていた衣装と白髪から察するに、老年の男性だろう。冬樹は、初めて自分の祖父の姿を目にした。
続いて早苗はよろめきながら立ち上がり、隣接する台所へと向かう。テーブルに添えられた椅子には、やはりミイラ化した遺体が坐っている。こちらの白髪は長く、着ているものは女性の衣装であった。
「――お母さん。」
早苗はついに膝を突き、その場へ崩れ落ちた。
あまりのことに、冬樹でさえも言葉を失った。
背後へと振り向き、谷川に向けて問いかけた。
「一体、何が起きたんです――!?」
谷川は居間に彳み、床の上の遺体を眺めていた。当然、表情は険しい。
「神様が作り上げていた幻影が消えただけです。先ほどの焔のようなものは、あまり害のあるものではありません。ここの方々がいつ亡くなられたのかは判りませんが、少なくとも幻影の中では生き続けていたのです。」
「神様は今、どこに――?」
谷川は困ったような表情をしてから、美邦のほうへ顔を向ける。
美邦は、意外にも冷静な表情をしていた。
「多分――平坂神社におられるんじゃないかと思います。もし本当に神送りを阻止したいのならば、この家を押し潰していたでしょうから。何となくですけれど、そんな感じがします。その――間違っているかもしれないんですけれども――」
「その直感が大切なのですよ。」
しかし谷川は落ち着きのなさそうな表情をしていた。いつもの美邦と谷川の様子と正反対だ。とりあえず――冬樹は美邦の直感を信じることとする。そして冬樹は、目の前に頽れている早苗へと声を掛けた。
「母さん――一体、何があったんだ? 十年前に――」
そればかりは、たとえ簡単な説明でも、どうしても訊きたかった。
早苗は震えながら顔を上げ、冬樹と目を合わせる。その目元を見て、冬樹は急に辛い思いが込み上げてきた。
そして早苗は、ぽつりぽつりと事情を語り始めた。
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