6 神送りの夜

廃屋から出て、一同は車へと乗りこんだ。


「平坂神社の跡地まで行けますか?」


美邦が声をかけると、諒解ですと運転手は答えた。


融けかけた雪を踏み、黒塗りの車はゆっくり発進する。


振動する車の中で、冬樹は早苗から聴いた話を反芻していた。十年前、早苗は平坂神社から感じられる気這いを妹のものだと誤認したのだ。そして平坂神社から御神体の神鏡を盗み出し――、


ハンマーで叩き割ったのだという。


十年前というのだから、冬樹がまだ三歳のころか。よりによって――自分の母親がそんな非常識なことをしていたなどとは思わなかった。そしてその行為へ駆り立てた早苗の気持ちを思うと、酷く憂鬱な思いがした。


自分の右手に、美邦の冷たい手が触れた。


「藤村君、あまり思いつめては駄目よ。」


「――うん。」


冬樹は静かにうなづいた。美邦に声を掛けられ、少し前向きになる。


中通りから細い路地を慎重に進み、車は平坂神社の前まで到着した。荒れ果てた空き地は闇の中に沈んでいる。雪を踏みしめ、冬樹は車から降りた。震える息が街燈の光に照らされ、虚空へと消えてゆく。


美邦は伊吹山を見上げ、間違いありませんと言う。


「神様は、この中におられます。」


美邦にとって、目の前の闇はただの闇ではなかった。闇の中に円錐形の稜線が浮かんでおり、巨大な生物の微かな息遣いと気這いが感じられる。伊吹山が、聖なる山として再び神の息吹いぶきを宿した証拠であった。


「藤村君、行こう。」


美邦は冬樹の手を握った。


「神様が、中で待っておられるわ。」


「行くって――山の中にか?」


「うん。」


ちょっと待ってください――と谷川は言った。


「このまま山の中へ這入るのは危険です。這入るのであれば、我々が露払いをいたします。今、懐中電灯を持ってきます。」


「いえ、谷川さん達はここで待っていてください。ここから先は、私達だけで行かなければならないんだと思います。そのために――神様は場所を変えただけではないでしょうか?」


谷川は少し困った表情をしたが、ややあってうなづいた。


「仕方がありませんね。」


美邦はこの町の斎王なのだ。儀式の主人であり、余所者は干渉できない。


「――それでも、暗闇の中を無鉄砲に歩いてゆくわけにもいかないでしょう。ちょっと待ってください。」


谷川は一旦ワゴン車へ戻り、懐中電灯を持ってきて冬樹へと差し出した。


「藤村君――ここから先は、我々は立ち入りません。露払いは、一度神社の中へ這入ったことのある、貴方が勤めて下さい。」


「――はい。」


冬樹はうなづき、懐中電灯を受け取った。


細い光で暗闇を照らし、空き地へと歩み寄る。


空き地は、依然として子供の背丈ほどもある雑草が生い茂っている。仕方ないので、冬樹は美邦をおぶさり、空き地を乗り越えることとした。懐中電灯を美邦に渡し、冬樹はしゃがみ込む。冷たい外気の中、背中に美邦の体温が伝わった。


鎮守の森の裂け目を目指し、雑草の中へ進んでゆく。尖ったあしかやの枝葉が、冬樹の手の甲や完治していない腕・すねなどを刺激する。学生服を着たのは、美邦に対する遠慮のつもりだった。しかし、本当はこのためなのかもしれない。


参道の前まで到着し、冬樹は美邦を降ろす。懐中電灯を受け取り、参道を照らす。


二人は手をつなぎ、石段を慎重に昇り進めた。冬樹の右手には、二メートル近くの御鉾と懐中電灯があり、左手は美邦の手を握っている。美邦は左手に厨子を持っているので、冬樹の荷物が多くなってしまうのは仕方がない。


しかし冬樹は、やがて懐中電灯を捨ててしまった。必要がなかったからだ。今は、参道を構成する石や、地面、そして樹々でさえもが、暗闇の中で、まるで生物のように存在感を持って、二人を導いている。


――お帰りなさい。お帰りなさい。

――お帰りなさい。お帰りなさい。

――お帰りなさい。お帰りなさい。


以前、伊吹山の中へ這入ったときと同じだ。ここにある樹々や微生物たちも、冬樹や美邦と祖先を同じにする生態系の一つであり、伊吹山という巨大な生命を構成する矮小な一つの細胞でしかない。右眼の視力を失い、暗闇の中を突き進んで行く今、それがより強く感じられる。十年振りに主人が帰って来たことに対する祝辞を述べている。


――お帰りなさい。お帰りなさい。

――お帰りなさい。お帰りなさい。

――お帰りなさい。お帰りなさい。


参道を昇り切り、随身門を潜る。


薄らと雪化粧された境内は、どこか胎内を連想させた。空を仰ぎ見ると、樹々の裂け目から真円の月が覗かせ、夜空を鳶色に染めていた。ひょっとしたら生命は、そこから来るのではないか――そんなことを思った。


今は冬樹にも感じられる。――その、かしいだ神殿に、寄神のいることが。生命の根源、常世の国から来た者のいることが。


拝殿へ這入ると、そこにはセーラー服を着た寄神が立っていた。まるで冬樹と対をなす正装をしているように。クラスメイトと全く変わりのない存在――けれどもそれが、この町に様々な災いをもたらした寄神なのだ。


幸子――と美邦は声をかける。


寄神は全くの無表情ではあったものの、なぜか寂しげにも見えた。


「もう時間だよ? 大神様が呼んでいる。」


薄闇の中、寄神は冷たく微笑んだ。


「まだその名前で呼んどるだね、美邦は。」


「だって貴女は幸子だもの。この町に来てから、私にとって貴女はずっと幸子だったわ。幸子がここに祀られていたときのことなんかほとんど覚えていない。どのような名前があったのかも、幼くて分からなかった。」


寄神は、かつては三輪大物命、今は古泉幸子という名前の神なのだ。


「――そう。」


寄神はただそれだけつぶやくと、そっと視線を落とした。


しかし冬樹は、感情が昂って来るのを抑えられなかった。


「なぜ、こんなことをしたんだ――!」


声を震わせ、叫んだ。


「あんたがやったことは、うちの母親を騙して十年間も夢見させていた挙句、何の罪もない人達を殺しただけじゃないか! 大人しく常世の国へ帰ればよかったものを――何の目的で!」


クラスメイトや、親しかった教師や、司書が亡くなったことは言うまでもない。冬樹自身も、足の爪を剥され、内臓をいくつも盗られて、健康な身体を損なった。


「目的?」


しかし、寄神は詰まらなさそうな表情をする。


「目的も動機もないから。草や花が生えていることに、何の目的があるわけ? 貴方が生まれたこと、生きていることにも、意味なんかありはしない。私はただ呼ばれたから来ただけだし、古泉幸子と名付けられたから名付け主の意に沿う行動を執っただけだよ。」


目的などないという言葉に、冬樹は、怒りが萎えるのを感じる。


恐らく寄神には、意思など無いのだろう。


意思があったのは――早苗だけなのだ。


神とは目に見えないエネルギーの流れを人格化したものであり、そこへ形を与えて祀り上げるのは人間である。そういうことが、冬樹に理解できないわけがない。


「意味はあるわ。」


美邦はつぶやくように、そう言った。


「意味は人間が作り出すものだから、いくらでも後付けすればいいのよ。そうであるからこそ、大神様は一日に千五百の産屋を建てられているのだもの。そうであるからこそ――私は貴女を迎えに来たのだから。」


「そうね。」


溜め息を吐き、寄神は言う。


「私は意思を持たないけれども、貴方達は意思を持つのだものね。大神様が呼んでいる。それは私にも判るもの。意志を持たない私は、その大御心おおみこころに沿うしかないわ。」


寄神は両手を前に付き出し、そして軽く捻った。


手の甲を二度、まるで柏手を打つように打ち鳴らす。


その瞬間、寄神の姿は消え、何かがその場に落ちた。


微かな振動を感じたのは、それとほぼ同時であった。


冬樹は最初、社殿の床がたわんでいるのかと思った。しかしそうではない。振動はすぐに大きくなり、視界にあるものの全てが揺れるようになった。伊吹山が――いや、地面全体が揺れていた。辛うじて立っていられる程度のものではあったが、小さくはない。冬樹は床に御鉾を立て、踏ん張った。美邦もまた、咄嗟に冬樹の肩に寄り添い、倒れまいとする。社殿のあちこちがめきめきと音を立て、埃が落ちてくる。揺れているあいだ、冬樹は社殿が倒壊しないか気が気でなかった。


数十秒ほどで、揺れは退いていった。


社殿の中には、ただただ静寂がある。


「大原さん、大丈夫か?」


「うん――平気。」


美邦は冬樹の肩から離れ、寄神の立っていた場所へと歩み寄る。


そして身体を屈め、そこに落ちている何かを拾い上げた。


「藤村君、見て。」


差し出した手の中には、ポニーテイルの着せ替え人形があった。誰もが知る有名な会社の製品だ。随分と古いものであるらしく、傷んでいる。


「これが寄神の依り代だったものよ。」


着せ替え人形の容姿は、幸子とどことなく似ていた。


美邦は、着せ替え人形を厨子の中へと納める。


「行きましょう。――神送りを行うのよ。」


「おう。」


冬樹は御鉾を立て、虚空を十文字に掻き回した。鉄鐸が澄んだ音色を立てて、拝殿に響き渡る。張り詰めた水面へ細漣さざなみが立つように、空気が微かに振動する。御鉾を前へと振り下ろし、冬樹は歩きだす。


御鉾を打ち鳴らす冬樹を先頭にして、二人は境内へと出た。


神殿が音を立てて崩れ出したのは、その直後のことであった。突如として背後から轟いた音に、二人は驚いて振り返る。神殿は大きく歪み、屋根に半分ほど押し潰されていた。屋根に降り積もった雪が滑り落ちている。


それが数千年の歴史を紡いできた平坂神社の、本当の最後であった。


もはや自分の帰るべき場所はないのだと、なぜだか冬樹はそう感じた。


鉄鐸をリズミカルに打ち鳴らし、随身門へ向けて参道を歩いてゆく。背後からは、美邦の他に何者かがついて来ていた。鉄鐸の音は大したものではなかったが、何らかの効果を平坂町全体に投じているらしい。町に淀んでいた空気が、澄んだ音色を中心として揺れ動いている。


真っ暗な石段を、慎重に踏みしめながら降りてゆく。そこにはなぜか、昇ってきたときには積もり重なっていたはずの苔や落ち葉がなかった。石段は平坂神社が放置される前の、降りやすいものになっていた。鎮守の森の樹々たちが、二人を送迎してゆくのが感じ取られる。


――さようなら。さようなら。

――さようなら。さようなら。

――さようなら。さようなら。


石段を降り切ると、そこには昇って来たときにはあったはずの雑草がなかった。神社の下で待機していたはずの谷川や、神社庁の職員や、二台の車の姿も見当たらない。代わりに、十人未満程度の人影が街燈に照らし出されている。その中には、おかっぱ頭のように見えるものもある。


まるで、二人を待ちわびていたかのように――。


谷川らが移動したわけではないらしいことを、冬樹は漠然と悟った。


「とりあえず、青ヶ浜まで行きましょう。」


美邦のその言葉に、冬樹は同意する。


再び鉄鐸を打ち鳴らし、青ヶ浜へ向けて歩き始める。


地震があった直後のためか、いつもは静まり返っている平坂町が妙に活気づいていた。どこからか、防災無線の音が聞こえてきている。


中通りに差しかかったとき、港のほうからサイレン音が聞こえてきた。


救急車輌のものではない。何かの災害を報せる音だ。それと同時に、再び防災無線の放送のような音が聞こえる。やがて家々から人々が慌ただしく飛び出て来て、山へと向かい一目散に逃げ始めた。


――今年でなければならない理由というのは、

――確かに何かあるのではないかと思います。


平坂町で発掘された銅鐸が海沙の中から発見されたことを冬樹は思い出した。古代の海岸線からも遠いその場所で、海沙にまみれ、打ち捨てられたかのようにして埋まっていたのだ。


港から逃げて来る人々とは正反対に、二人は海へ向け、ゆっくりと歩みを進めてゆく。背後からついて来る人影達を、青ヶ浜まで連れて行かなければならないという使命感があったからだ。


断続的に鳴り響くサイレンの音は、次第に大きくなっていった。異様な風体の二人が港へ向かっているにも拘わらず、逃げて来る者の誰もが、二人の姿に気づいていないようであった。逆に、路地裏や廃屋などからは、鉄鐸の音に惹きつけられるようにして、次々と黒い人影が出てきた。鉄鐸の澄んだ音に導かれ、やがて十人は二十人となり、三十人近くまで増えた。


冬樹にも感じられる。遥か遠くから、何者かの存在が、自分達を呼んでいるのを――。あるいは逆に、近づいてきているとも言えるのかもしれない。まるで、港から響き渡るサイレンに呼応しているかのようでもある。


青ヶ浜へ着く頃には、息も切れ切れになっていた。


鉄鐸のついた御鉾には相応の重さがある。それを振り鳴らしながら青ヶ浜まで移動することは、内臓のいくつかを奪われた冬樹にとって負担であった。


御鉾を沙浜に突き立てて、冬樹は広い浜辺を海へと進む。海から吹き付ける風は強く、風音にサイレンさえも掻き消えそうになる。激しい雄叫びを上げる海が、視界いっぱいに拡がる。冬樹はその沖合に、一基の鳥居が建っているのを見た。


鳥居の向こうでは、水平線が少し膨れ上がっていた。


「――藤村君。」


美邦は冬樹の隣に立った。そして、そっと左腕に触れる。


「大丈夫? 疲れてはいない?」


二人は視線を交し合った。冬樹は、なぜだかずっとこうしていたい気持ちとなる。しばらくは風音だけがその場に響き渡っていた。


「ああ、大丈夫だよ。」


冬樹は微笑んでみせる。


「よかった。」


美邦はほっとした表情をする。


「こんな処にまで付き合ってもらうなんて――申し訳のないような気がしている。たとえ私に当屋にならないかと勧めたのが、藤村君であったとしても。」


「気にせんでええよ。――俺はただ、来たくて来ただけだし。」


美邦は、ほんの少し不思議そうな表情をした。


「それは、神送りの儀式に参加したかったからということ?」


「いや――大原さんだからだよ。」


冬樹は自然と心が緩んでゆくのを感じる。


「そんなことだけでは、ここまでついて来れないよ。むしろ大原さんと出会えて、よかったと思っている。初めて会ったときから――大原さんに付いてゆくことができたらいいと思っていた。右眼も左耳も――臓器もいくつも失って、このまま大原さんまで失ったりしたくはない。俺は、大原さんと一緒に行きたい。」


「そう――」


美邦は微笑んだ。


「ありがとう。――私も、頭屋が藤村君でよかったと思っている。」


心の中に嬉しさが充ち溢れる。


美邦は冬樹の左手を握った。冷たい指先が温かくなる。


二人は海へと顔を向けた。轟音を立てる果てしのない暗闇の拡がり――そこから感じられる恐ろしさは今も変わりがない。漆黒ぬばたまの水面が膨れ上がり、こちらへ向かっている。しかしその恐怖が、今となっては心地いい。心臓の凍りつくような恐ろしさを、この身を以って、より一層感じたい気持ちに駆られる。――美邦とともに。


二人は手をつないだまま、ゆっくりと海へ歩み寄る。


暗黒が目の前にまで迫る。


あれほど恐れていたはずの、常夜とこよの闇が――。


海面が上昇してきて二人の足元を浸す。膨れ上がった海面が、凄まじい勢いで二人に迫ってくる。高さは十メートルほどか。


沖合の鳥居を呑み込み、浜辺へと乗り上げた。

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