2 懐かしい病室の匂い

病院の待合室は懐かしい感じがした。


昭が亡くなるまで、病院へは毎日通っていたものだ。微かに漂ってくるアルコールの臭いと、屯する病人達――そしてその家族達。病院での雰囲気や光景は、日本中どこであっても変わりはない。その懐かしい感覚は、自然と昭のことを思い出させ、そして美邦の中にある不安を掻き立てた。


美邦は、笹倉が火を点けた瞬間のことが脳裏から離れなかった。


目の前にぱっと白いものが拡がったかと思うと、金切り声とともに焔の塊が美邦のほうへと突進して来た。幸いにも、それは美邦から大きく逸れたが、随分と長いあいだ、教室の中を暴れ回っていた。


悲鳴は焔の塊の中からだけではなかった。どうやら冬樹も制服の一部に引火したらしい。朱い穂を散らしながら床を転がりまわっていた。教室は意外なほど早く、真っ白な煙に包まれた。生命の危険に晒されて正気に戻ったのか、岩井も長谷川もドアを叩き、開けろ――ここを開けろよ――と叫んでいた。しかしドアは開かない。美邦自身も、熱風がすぐそばにまで迫ってくるのを感じた。猛烈な煙で呼吸困難になりかけた。


やがて廊下から何か物凄い怒鳴り声と、生徒達の悲鳴が聞こえた。


そして何者かがドアを蹴り飛ばした。そのときは煙のせいでよく分からなかったが、どうやら消火器を手にした大人のようであった。


煙にいぶされ、美邦は廊下へと転がり出た。


猛烈な煙と熱風が流れ込んだため、廊下は半狂乱となっていた。


美邦は窓に駆け寄り、開けて新鮮な酸素を吸い込む。


その場からは、すぐには逃げ出すことができなかった。教室には、まだ冬樹が残っているはずだと思っていたからだ。


やがて教室の中から、冬樹を抱えた壮年男性が出て来た。


学校の用務員だ。


「大原さん、ここは危ない。早く避難しなさい。」


用務員は咳き込みながら早口でそう言った。確かに廊下も危険な状態となってきている。美邦は用務員と共に教室棟から逃げ出した。


火の手は瞬く間に教室棟を包んだ。全校生徒は校庭へと避難させられる。


用務員に連れ出された冬樹は、既に意識が朦朧としているようであった。制服は焼け焦げ、消火剤の白い粉を被っている。藤村君――と美邦が声をかけても、何も聞こえていないようであった。しばらく経って、救急車と消防車がやって来た。冬樹は救急車に乗せられてゆく。


そのあとは全校生徒に点呼が取られた。


ただ一人、笹倉の姿だけがなかった。


警察がやって来て、火災の現場に居合わせた生徒達は事情聴取を受けた。その他は完全下校を命じられた。到着した警察車輌の中で、美邦は見たままのことを正直に答えた。ただし、全身から気が抜けてしまっていて、何を言っているのか自分でもよく分からなかったが。


家へ帰ってから美邦は、ガスの元栓や、その他の火の元が異様なほど気にかかった。十年前の美邦の家も、菅野の家も火事になって焼けたのだ。今の美邦に対しても、同様の攻撃がないとも限らない。


夕方になり、啓が帰って来た。どこかで火災の情報を知ったらしく、美邦に対してねぎらいの言葉をかけてくれた。しかし、美邦にとってその言葉はただすり抜けていった。冬樹のことが気になって仕方なかった。


夜になり、火災のことが全国的に報じられた。校舎は半焼――実質的な全焼――となり、焼け跡から生徒の遺体が一名だけ発見されたという。


翌日、学校は休校となった。


冬樹の容態が気になっていたため、美邦は藤村家へと電話をかけた。電話には良子が出たが、驚いたことに、孫の容態については何も把握していないと言われた。呆れかえっていると、冬樹が入院している病院の名前だけを教えてくれた。


美邦はさっそく市内の病院へと出かけた。


受付で冬樹の入院している病室を訊くと、まだ意識を取り戻していないので面会ができない――と言われた。


美邦は落胆のあまり声が出なかった。ただ呆然自失として、受付から離れることしかできなかった。せっかく総合病院まで来たのに、面会ができないとあっては仕方がない。待合室のベンチに坐り、脱力した。


何者かから声をかけられたのは、そのときだ。


「――美邦ちゃん。」


聞き覚えのある声だった。美邦が振り返ると、そこには四十代も前半ほどの、スーツ姿の男性が立っていた。


「谷川さん――!」


意外な人物に、美邦は驚いて声を上げた。顔を合わせるのは、もう三ヵ月ぶりにもなるだろうか。昭の同僚であり、啓にその危篤を報せたのも彼であった。その谷川が、なぜこんな処にいるのか。当然のことながら、理解できなかった。

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