【幕間10】依り代
初めて妹の気這いを感じてから、数ヶ月が経った。
先に述べたとおり、妹の気這いはこの町のどこからでも感じられた。
その中でも特に強く感じられるのは平坂神社からだった。
かつて鎮守の杜から感じられた気這いは、今は焦点を結んで一つの像を作っていた。参道を歩けば、隣に妹の姿を感じ取ることができる。
けれども――声を聞いたり会話を交わしたりすることはできない。今まで死者や神の声を聞いたことがないことと同じである。できることといえば、せいぜいが感情や表情を察することくらいだ。
境内の入口で、わたしは立ち止った。
天へと高く伸びる
わたしは促されるがまま、再び歩きだした。
神殿へ這入る。ひやりとした空気が肌を撫でた。
町の外では妹の気這いは感じられない。妹はこの町の外へは出られないらしい。もっと言えば、妹はこの神社に縫い留められているような気がする。なぜそう感じるのかは――言葉には説明しがたいものがあるが。
土間に立ち、私は社殿の奥を見上げた。
拝殿の最奥部には短い
わたしは妹の「本体」が、本殿の中にあるような気がした。唐突に、そう思った。常世の国から帰ってきた妹は、本殿に縫い留められている。
その日はお参りだけして、家へと帰った。
一体いつ頃の祖先が、どのような形で帰って来るものなのかは分からない。何しろ神の中には、町民を生贄に取る者もいるのだから。恐ろしく古い時代の祖先が帰って来たとしてもおかしくはない。
そして平坂町へ帰還した神は、再び常世の国へ戻らなければならない。
その日の晩、わたしは寝つけなかった。
布団の中で、胸に焦燥を抱えていた。妹が神殿で見せたあの寂しそうな表情の意味を理解したからだ。
さまざまな思いが去来する。神の供儀として、短い生涯を終えた妹――。それが短期間のうちに帰って来ることができたのは幸運なことだったのだろう。しかし冬至の日には、再び常世の国へ送り返されてしまうのだ。送り返されたあと――再び平坂町へ戻って来るとは限らない。
何とか眠りに落ちようと思い、目を閉じてリラックスしていると、ふと枕元に、何者かの歩み寄って来る気這いが感じられた。目に見えないその存在は、むしろ目を閉じているときにはっきりと感じ取ることができる。
お姉ちゃん――と、その存在は言ったように感じられた。
ちーちゃん――とわたしは心の中で返事をする。
そして額の裏側に、一つの暗いイメージが浮かんできた。
狭い木造の建物の中であった。
どうやら平坂神社の本殿であるらしい。中央には祭壇が組まれ、榊と三つの三方が載せられている。それはただのイメージではなく、次第に実感を持ち、本当に本殿にいるのと変わりなくなった。
本殿の中には当然、暖房も何もない。隙間風が入ってきて、とても寒い。わたしはとても畏ろしくなった。このような夜中に、民家から隔絶された神殿の中にいるのだ。畏れを感じないほうがおかしいだろう。
わたしは耐えきれなくなって、まぶたを開けた。
妹の存在は、視界にこそ写ってはいないが、それでも依然として枕元に立っていた。まるで悲しそうな表情でわたしを見下ろしているようだ。
わたしは再び目を閉じる。
すると今度は別のイメージが浮かんだ。横幅が三十センチほどの古そうな桐箱だ。わたしはそれを、どこかで目にしたことがあった。
桐箱を中心として、再び本殿の風景が拡がる。
そしてわたしは、その桐箱が何であるのかを理解した。平坂神社の御神体を納めたものだ。神祭りの夜に二度だけ目にしたことがある。
二度目に浮かんできた本殿のイメージは、一度目とは違い、随分と大人しいものであった。寒さもなければ、実際にいるという感覚もしない。そして今度は、畏れとは違った別の感覚を抱いた。神殿の中は、暗くて、何よりも民家から離れていて、とても寂しい。
こんな――。
こんな狭くて寒い処に、妹は閉じ込められているのか。
わたしは再び
そこにある、目には見えない存在と視線を合わせる。
そして妹の言わんとすることを、理解したような気がした。
*
それから数日後の日曜日、わたしは市内のホームセンターへ足を運んだ。
幻影の中で、わたしは神体の入った箱を手にしていた。
なぜそんなものをわたしに見せたのか――その理由は明らかなように思える。あの神体の中に、妹は閉じ込められているのだ。ならばわたしは、神社から神体を盗み出す必要がある。ひょっとしたら破壊する必要があるのかもしれない。
けれども盗み出すとなると、必ずしや神送りの儀式でばれてしまう。神送りの儀式に参加したとき、宮司が神体を本殿から持ち出すのを見た。
しかし幸いと言うべきか、幻影の中に現れた箱は、何年も開けられていないように見えた。インターネットで仕入れた情報であったか――皇室に伝わる三種の神器は、天皇でさえ実物を見ることができないという。それと同じ理由で、宮司も箱の中身を見たことがないのかもしれない。
どうあれ、箱の中が空であることを気づかれるのは不味い。幻影の中で手に取った感触などから察するに、それは銅鏡のような物が入っているらしかった。ならば――代わりに同じくらいの重さの、同じくらいの大きさの物を入れておくべきだろう。
ホームセンターで、最初は金物のコーナーを見回していた。
様々な厚さの鉄板や銅板が竝んでいる。
けれども、わたしにはそれを加工する術がない。どうしたものかと逡巡していると、ふと以前、理科の教科書で見た、釣りに使われる鉛の
わたしは釣り用具のコーナーへと足を運ぶ。
目的のものはすぐに見つかった。流線型の手の平大の錘だ。わたしはそれらをいくつか手に取り、箱の中の物の重さを思い出して比較する。適量を選び出すと、次は文房具コーナーへ立ち寄って二、三袋の粘土を手に取り、レジへと向かった。
ホームセンターを出ると、空は既に藍色に染まりつつあった。
帰り道の途中で、ふとわたしは神体のことが気に掛かる。
神体とか
そして妹が妹として自由に行動するためには、平坂神社にある神体とは別の物を用意する必要があるのではないか。
ホームセンターには、確か神棚に飾るための小さな神鏡も売ってあった。神体の偽物の上にそれでも載せておけば、ある程度は神体としての役割を果たすのではないか。そのためには偽物を小奇麗に作ったり、代理の神鏡を神体として相応しい小箱の中に収めたりするべきなのか。
そのあたりの意見は、今夜にでも妹がやって来たら、念じて訊いてみることとしよう。けれども――妹が入るべき新たな神籬の姿は、このときわたしの中で既に決まっていたのだった。
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