3 卒業アルバム
十一月二十六日水曜日の、明け方のことである。
目を覚ますと、右眼が見えなくなっていることに冬樹は気づいた。両目は開かれている――それは目蓋の感覚で分かる。それなのに、全く光が入ってこないのだ。一瞬、何も考えることができなくなった。
寒いのにも拘らず、小走りで部屋から飛び出る。
そして階段の手前まで来て、ふと冷静になった。
やはり自分の右眼は見えていない。誤って足を踏み外さないよう、手摺に掴まり、一階へと慎重に降りてゆく。
洗面所の鏡の前に立ち、自分の顔を確認する。
右眼の瞳は鉛色に曇っていた。斜視ではないものの、美邦の左眼と全く同じ色だ。右眼を睨んだまま、しばし呆然とする。
昨夜は、美邦からもらったハンカチを胸に抱いて寝ていた。先日の電話によれば、それは寄神から冬樹を守ってくれるはずであった。それなのに、今度は片方の視力が奪われてしまった。
しかし――なぜだか厭な気持ちはしない。むしろ妙に落ち着いている。鉛色に濁った右眼を眺めるうち、胸の中はみるみる透き通っていった。冷え込んだ空気の中、窓から真っ白な朝日が差し込んでいて、洗面台に溜まった水滴を光らせている。
「どうしたん? 冬樹ったら――」
その静謐な空気に
「母さん――右眼が見えんやぁになった。」
「――そ。」早苗は、すぐにいつもの無表情へと戻る。「早く着替えちゃいんさい。朝ごはん、もうすぐ出来ちゃうけん。」
「――うん。」
うなづいたものの、冬樹はしばらく自分の右眼を眺めていた。
それから顔を洗い、部屋へ戻って制服へと着替える。まるで美邦が転校して来る前のように日常は進んでいた。早苗や良子ばかりか、自分までも何の驚きも感じていないのだ。
体調はいまだ悪い。軽い吐き気を抑えつつ学校へ向かう。車に轢かれたり、つまづいたりしないよう、注意して歩いてゆく。
通学の途中、奇妙なものを冬樹は目にした。
いつもの通学路の途中に、黒いもやのようなものが立っていたのだ。
それは
冬樹は警戒して立ち止る。じっと
学校へ着くまでに、同じものを二体ほど見た。ある者はブロック塀の間にうずくまっており、ある者は廃屋の窓から姿を覗かせていた。その廃屋は、冬樹が小学生の頃に独居老人が自殺した場所だ。
――これがシャルル・ボネってやつなんだらぁか。
医学的には、それは視界が奪われたことによって起きる脳の誤作動なのだという。確かに、冬樹の視界はいつもとは違ったものではある。
――けれど、こんないきなり現れるもんだらぁか。
学校へと着いた。
教室へ這入ると、布巾で机を擦っている美邦の姿が目に入った。机の上には、保健室から借りて来たエタノールも置かれている。
冬樹は美邦へ近づき、おはようと声をかける。
「あ――うん。おはよう。」
美邦は振り返って返事をしたあと、にわかに表情を変えた。
「藤村君、その目――」
「ああ、持っていかれたよ――多分。」
しばらくのあいだ、二人は顔を合わせたまま何も言わなかった。ただ教室のざわめきだけが聞こえている。片目の視力を失った者だけの世界が、周囲から隔絶されているかのようであった。
その日、冬樹は教室の中で孤立していた。美邦を除いて、クラスメイトとは誰とも話さなかった。先日の出来事が尾を引いているらしい。誰もが冷たい視線を冬樹に投げかけている。特に笹倉は、いまだ怨みが解けていないらしい。始終、冬樹や美邦に対して憎悪の視線を向けていた。右の視界に笹倉の姿が入るたび、蒼白い顔に浮かんだ黒い瞳が突き刺さった。
芳賀はと言えば、逆に視線さえ合わせてくれなかった。
給食時間が終わり、昼休憩へと入る。
冬樹は図書室へゆき、十三年前から十七年前までの卒業アルバムを司書に頼んで出してもらった。本当は先日調べたかったのだが、笹倉に邪魔されてできなかったのだ。
美邦が見た夢の中に出てきた「姉」というのは、十三年前に当屋であった寺田直美であるらしい。美邦が見ていたものは、同年に平坂駅付近の踏切で事故死した寺田智香の視点なのだ。
寺田直美が平坂町から引っ越したのは高校生のときだという。
美邦の書いてきたノートから、夢の中の「姉」が学生であることは分かった。一年神主の年齢制限は最低でも十五歳だ。寺田直美は、恐らく高校生のころに当屋となったのであろう。
この町で生まれ育ったものならば、ほぼ例外なくこの中学校に入学し、卒業してゆく。過去の卒業アルバムを調べようと思ったのは、そこに寺田直美の顔写真が載っている可能性が高いからだ。
そしてこの作業は労を要さなかった。手始めに調べた十三年前の卒業アルバムに、寺田直美の姿が載っていたからだ。そこには、髪の黒い築島もいた。
しばらくのあいだ、そのページを冬樹は眺めていた。十三年前に一年神主の家族が亡くなった件について、どうして築島が言葉をぼやかしていたのか分かったような気がした。
揺れを感じたのはそのときである。図書室全体が、かたかたと振動した。周囲を見回すと、他の生徒達もきょろきょろと周囲を窺っている。
しかしその揺れは、前回のものとは比べようがないほど弱かった。
大したものではないことには間違いがない。しかし、こうも珍しいことが立て続けに起こるのは驚かざるを得ない。教室の外からは、確かに地面が揺れたらしいことを確認し合うような声が聞こえていた。
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