2 啓の帰宅

美邦は呆然とその光景を眺めていた。


詠子は床の上に何度も包丁を突き立てた。当然、そこには何もない。それでも詠子は、まるで暴れる獲物でもいるかのように、何度も何度も包丁を突き立てる。千秋もまた、母親の奇行を呆然と眺めていた。


やがて包丁を突き立てる力は弱まる。詠子は腕を弛緩させた。手から滑り落ちた包丁が、廊下の上で虚しい音を立てる。


そのまましばらく時間が流れた。


客観的に言えば――。


包丁を手にした詠子が台所から出てきて、美邦のほうへ向かおうとしたところまでは事実だった。しかしそのときから、詠子の視線は美邦の少し右隣へと向いていた。なので、詠子が襲い掛かってきたとき、美邦は咄嗟に左へ身を避けたのである。


そして詠子は――何もない処へ包丁を突き立て始めた。


しばらく経って、千秋のほうへゆっくりと詠子は顔を向ける。


「どうしよう――千秋。」


そう問われても、怯えた表情を千秋は見せるのみであった。


「美邦ちゃんを――殺しちゃったよう――」


詠子は急に皺だらけの表情となり、大粒の涙を零し始める。


大の大人が涙を流して泣いているところを美邦は生まれて初めて目にした。それは千秋も同様であったに違いない。千秋は、すっかり困惑した表情となって、詠子と美邦とをへ交互に視線を向ける。


「お母さん――落ち着いて。」


そうは言ったものの、詠子は泣き止まない。千秋も千秋で、母親に近づくことができなかった。足元には、まだ包丁が落ちている。


結局のところ、啓の帰宅までその状態が続いた。


啓はその異常事態を目の当たりにし、何事かと問うた。


「私が殺してしまったんです」と詠子は答える。「美邦ちゃんを。」


それから詠子は、美邦を殺害してしまった経緯を訥々と語った。当然、美邦は居間で困惑気味にたたずんでいる。しかし詠子には見えていないようだ。次第に、啓は状況を呑み込んだ顔となった。


「こうなってしまったものは仕方がない。とりあえず、救急車を呼ぼう。」


啓の言葉に、詠子はこくりとうなづく。


「警察も呼んでください。――自首します。」


啓は電話の受話器を持ち上げ、一一九番通報をする。


やがてサイレン音が聞こえて来て、渡辺家の前に一台の救急車が停まった。しかしその車体は黄色く塗られており、檸檬のような光沢を放っている。救急車に乗せられたのは、ほかならぬ詠子自身であった。

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