【幕間9】妹との別れ
神送りの夜がやってきた。
冬至の日は、伊吹山の麓にある寄合所で朝から斎戒をしていた。
斎戒とは、神事の前に飲食や行動を慎んで心身を清めることである。しかし、実際は閉じ込められていたと言ったほうが正確なようだ。その日は、夜になるまで寄合所の外へと出ることが許されなかった。わたしは何もすることがないので、ただ窓の外の景色をぼうっと眺めていた。
一日の食事は全て寄合所の中で摂った。食事は、神嘗祭に出てきたものとほとんど同じだった。
外に出されたのは、夜の十一時前のことだ。
冷えきった外気に曝されて、思わず身震いした。
わたしは朝から巫女装束を着せられていたのだが、これに防寒性能はないに等しい。装束の下には厚めの
いや――寒さどころの話ではない。
わたしは今、子供の頃から震えて眠っていた夜に――決して外へ出てはならないと戒められていた夜に――外に出ているのだ。海から吹きつける風に煽られ、鎮守の森の樹々がざわついていた。
わたしには感じられる――この森そのものが今、畏れ多い荒魂となっているのが。神の気這いは、まるで弱い電流のように全身から感じ取られた。
役員に導かれ、参道を昇った。
随身門を潜ると、境内では大きな篝火が
神殿へ這入り、二礼二拍一拝した。
宮司が祝詞を奏上し始める。その意味の分からない言葉の羅列は、強張ったわたしの心を落ち着けるのに貢献した。当屋として選ばれてからのことが次々と頭を過ってゆく。当然、妹が亡くなったことも――。
ふと、神とは別の気這いが感じられた。
わたしのすぐ後ろに、神に比べれば圧倒的に小さなものが立っていた。
その気這いは、幼いころからわたしの隣にあったものと同じであった。
それに気づき、心は自然と和らいだ。
――うん、ありがとね。
わたしは心の中で念じる。
――お姉ちゃん、これからも頑張るね。
祝詞の奏上が終わり、太鼓が打ち鳴らされる。わたしは頭屋と共に立ち上がり、神前へと進んだ。もう何度も練習してきたとおりだ。筝と籥の演奏が始まる。ほぼ無意識に、身に染みついてきたとおりの動きで、二人の一年神主は舞い始める。
恐ろしい神の安らぐ波長が感じられた。
神楽舞が終わった。
しんと静まった神殿の中、宮司が本殿の扉を開け、神体の入った箱を取り出す。それを
伊吹山に充たされた大きな気這いがその巨躯を動かす。
宮司を先頭にして、わたし達は参道を下っていった。
夜の平坂町を、神の気這いに包まれた一行が歩いてゆく――役員による籥の演奏を伴いながら。わたしには、なぜ神事に携わる者だけが、この夜に外を出歩いても祟りがないのか、分かったような気がした。
歩いている途中、わたしの隣には常に小さな気這いが付き添っていた。
青ヶ浜へ着いた。
浜辺には大きな
夜の海はまるで一つの生物のようだ。遠方から吹きつける風が咆哮を上げている。黒い巨大な生物は、闇夜の中で荒々しく何度も浜辺へと打ち寄せる――まるでわたし達を呑もうとするかのように。
わたしは恐ろしさのあまり逃げだしたくなった。夜の海は――荒々しくたけり狂う冬の海は――神の存在に引けを取らないほど恐ろしい。
わたしは、隣にある小さな気這いへと必死で精神を集中させることにより、何とかその場を耐え忍んだ。
青ヶ浜にはすでに祭壇が組まれていた。そこへ宮司が神籬の台を載せ、役員が二つの
その神饌が問題だった。暗くてよく見えなかったが、何やら湿った、ぐにゃぐにゃしたものだった。三方へ供えるたびに、びたびたという音が聞こえる。ほんの微かに、土のような生臭さが漂ってきた。
宮司は、神様は不潔なものを嫌うと言っていた。だからこそ一年神主は肉食を慎まなければならず、生理のときは昇殿を許されない。しかし目の前の神饌は、その言葉とは全く正反対のもののように思われた。
それから何をするのか、わたしには何も伝えられていなかった。
宮司が懐から短刀を取り出し、鞘を抜く。そしてゆっくりとこちらへ近づき、一年神主の背後へと回った。宮司はまず、頭屋の襟足に刃を当てると、首を斬り落とすような動作をする。それが終わると、今度はわたしの襟足に刃を当てた。ひやりとした冷たい感覚が首元を這った。
斬られる――と思った。
しかし当然のことながら、斬られることはなかった。
宮司は祭壇の前へと戻り、再び祝詞を奏上し始めた。
青ヶ浜には、神籬を中心として大きな気這いが充たされていた。祝詞の途中から、それが海のほうへと向けて動くのを感じた。まるで、恐ろしい存在が、より恐ろしい存在へと吸収されてゆくかのように――。神の気這いは、真っ黒に塗り潰された海の彼方へと去ってゆく。
祝詞が終わる頃には、神の気這いは感じられなくなっていた。
そして、隣にあったはずの小さな気這いもまた感じられなくなっていることに気づいた。全身の神経を尖らせてみても、どこにも感じられない。どうやら――神と共に海の向こうへと渡ってしまったようだ。
わたしは海の彼方を凝視した。
そして海の向こうにあるという死者の島を思った。
それから役員は、神饌の供えられた三方をわたしと頭屋に持たせた。
近くで目にしてみると、どうやらそれは何かの臓物のようであった。生臭い臭いは、血の臭いだったのだ。わたしの感傷的な心情は、瞬時のうちに吹き飛ぶ。改めて、この町に祀られているものの異常性を感じた。
役員に導かれ、青ヶ浜を離れる。
事前に伝えられていたとおり、荒神塚まで連れて来られた。その小さな祠の前に三方を供え、神送りの儀式が終わったことを告げたところで、神事は終了した。時刻は零時を廻っていたであろうか。その晩は家へ帰らず、伊吹山のふもとの寄合所に泊まった。
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