16 外された箍
詠子の苛立ちは限界に近づきつつあった。
美邦と同居を始めてからというものの、日々の生活が辛くなっていた。特に家の前で築島が首を吊ってからは、近所中から好奇の視線を向けられている。娘が学校で苛められていないかも気になっていた。
そして今日は学校から電話が掛かってきた。美邦の担任教師である鳩村からだ。鳩村は、美邦が学校でクラスメイトを泣かせたことを伝えた。妙に厭らしい声で、お宅ではどういう
――疫病神。
かつて玄関に落書きされていたとおりだ。美邦が来てからというものの、不可解で忌まわしいことばかりが起こっている。
あとどれだけ美邦と共に暮らさなければならないのか。中学を卒業するまでか――それとも高校を卒業するまでなのか。
それまでに、一体どれだけ不愉快なことが起きるのだろう。それを考えると、冷たい熱が脳天に昇ってくる。家事をしてても、苛々のせいで思ったように進まない。そのせいでさらに苛々としてくる。
千秋が帰ってきたのは、十六時半ごろであった。そのとき詠子は、一日にすべき家事が半分程度しか片付いていないことに気づいた。トイレ掃除も風呂掃除も終わっていないし、洗濯物も畳めていない。普段なら綺麗に片付いているはずの台所も汚れが目立っている。苛々する。
しかも千秋はといえば、最近は家にいるあいだ、ほとんどずっと動画サイトに貼りついている。一家で鑑賞するテレビとは違って、動画サイトは完全に個人向けの世界だ。一体、何を見ているのか、ちゃんと安全にインターネットを利用できているのかという点も、気になって仕方がない。利用料金だって莫迦にはならないのに。
美邦が帰って来るまでは夕食の準備をしていた。
千秋はイヤフォンをつけて動画サイトを見ている。料理のために立てる音以外はほぼない。それがなおのこと苛立ちを駆り立てる。苛立ちは胸の中の鈍痛となった。材料を切る手でさえも微かに震えつつある。
外が暗くなりつつある頃、美邦が帰ってきた。
ただいま――という声と共にダイニングキッチンへ這入ってくる。
詠子は食材を切る手を止めた。
「大原さん――あんたは学校で何をしているんですか?」
え――と美邦は細い声を漏らす。
「ついさっき、学校から電話がありました――大原さんがクラスメイトを泣かせて指導されたと。家庭でどんな躾をしているのかと言われました。」
美邦は棒立ちしたまま困惑した顔をしていた。
「本当に、あんたはどこまで私達を苦しめれば気が済むんですか。ただでさえ、あんたがこの家にいることで、私達は近所から白い目で見られているんです。千秋の教育にだってよくはない。どうして私達が、あんたのためなんかに苦しい思いをしなければならないんです。どうして――あんたをこの家になんか置いておかなきゃならないんです。叔母さんはそろそろ、我慢が限界を迎えてきました。」
一旦言葉にしてしまうと、苛立ちは堰を切ったように噴出した。詠子は包丁を握ったまま台所から出た。美邦の怯えたような表情が近づく。
「一体、この家にお前を置いているのは誰だと思っているんですか。ご飯を作っているのは誰だと思っているんですか。お前は一体いつまでこの家にいるんですか。何でこの家から出ていかないんですか。何でこの町から出ていかないんですか。」
早口でそう言いながら美邦へと歩み寄る。
美邦との距離は数秒のうちに目の前にまで縮まった。
――こいつが。
こいつが町にいるのがいけないんだ――と詠子は思った。
身の危険を感じてか、美邦は玄関のほうへと逃げようとする。その瞬間的な行動が、詠子の理性を失わせた。ただ――逃がしてはならない、という感情が瞬発的に湧いてくる。詠子は何も考えず美邦へと飛び駆け、その背中を包丁で刺した。
包丁はさくりと美邦の身体へと侵入し、やがて何か硬いものへと当たった。詠子は美邦を廊下へと押し倒し、包丁を引き抜き、再び力を込めて背中の奥深くへと突き刺す。
美邦は悲鳴を上げ――手足をもがかせて抵抗した。
しかし何度も執拗に突き刺すうち、抵抗も悲鳴も弱まっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます