13 ヲナリ神
十一月二十五日火曜日――空風の冷たさに震えながら美邦は登校した。
築島が亡くなって以来、町民の目が気にかかっている。あからさまに見られているわけではない。それでも気づけば、近所の住民や、学校の生徒などがちらちらと視線を向けている。
教室へ這入ると、そこはいつもの賑わいを取り戻していた。ただし、クラスメイトたちは美邦へ視線を遣るなり、わざとらしく目を逸らした。
机に近づくと、そこには先週の水曜日と同じく、マジックで大きく「やく病神」と書かれていた。
仕方がないので、美邦はロッカーに鞄を置き、保健室へと消毒用エタノールを借りに行く。教室へ戻ってきて、落書きを消し始めた。塗り重ねるようにして書かれた文字は、なかなか消えない。
しばらくして冬樹が登校して来た。顔色は先週に比べてさらに蒼くなっている。晩年の昭に少しずつ近づいているようだ。
冬樹が席へと近づいてきたので、いつもどおり挨拶を交わす。
最近は学校で話しかけてくれるのは、今や冬樹と竹下だけだ。
机の上のその落書きを目の当たりにし、冬樹は顔をしかめる。
「また――落書きされたんだ。」
「うん。」
冬樹は呆れたような顔をしてから、そうかと言った。
「藤村君のほうこそ、大丈夫なの? 顔色、随分と悪くなっているみたいだけれども。病院へは行ったの?」
「いや――まだだけれども。」
美邦は呆れた。
静かな声で、しかし語気を強める。
「行かなければならないわ。――体調だって、悪いんでしょう? 早めに人工透析をしなければ、血液に不要物が溜まって、もう一つの腎臓に負荷がかかってしまうわ。お父さんが亡くなる前も、色々と大変だったのよ?」
「ああ――そうだな。」
冬樹は申し訳なさそうな顔をする。
「早めに行っとくよ。」
そう言われたものの、冬樹が本当に病院へ行くかどうか不安であった。
生前、昭は病院へ行くのが嫌いだった。病院へ行けと言えば行くと答えるのだが、いつも先延ばしにしていた。冬樹の対応はそれを連想させる。
冬樹はちらりと時計に目を遣った。始業時間が近づきつつある。そして周囲に聞こえないよう、やや声を小さくし、真剣な表情で言う。
「ところで大原さん――ちょっと話したいことがある。
階段の横の処とは、先週会話をした場所であろう。
「うん。――神社のことについて、また何か判ったの?」
「いや――そういうわけでもないんだが――」
冬樹は難しそうな表情をする。
ほぼ同時に始業のチャイムが鳴った。冬樹は小走りに自分の席へと駆けてゆく。話したいこととは何なのであろう。神社のことではないが、少なくとも他人に聞かれたくはないことらしい。
朝学活に入る。
教室へ這入って来た鳩村の姿は、先週よりやつれているように見えた。神経質そうな顔がいつもより引き締まっている。それがなぜであるのかは分からない。しかしひょっとしたら、受け持ったクラスで変事が続いているためなのかもしれない。
朝学活が終わり、美邦は保健室へ消毒用エタノールを返した。
その帰りに、冬樹と約束した場所に立ち寄る。冬樹は既に来ており、壁にもたれかかって美邦を待っていた。
美邦は小声で、話したいこととは何、と問いかけた。
ああ――と言い、冬樹は一昨日かかってきた電話のことについて語った。
耳慣れぬ言葉に、美邦は首を傾げる。
「ヲナリ神って――何なの?」
「琉球の古い信仰だよ。妹は兄を守る霊的な存在だという考え方。」
「いもうと?」
美邦は首をかしげる。「妹」というのは誰の妹なのだろう。
そんな疑問に気づいた様子もなく、冬樹は説明を始める。
「琉球では長いあいだ、妹は兄を守る霊力を持つと考えられとった。男性が漁や戦場へ行くときは、妹の髪の毛や手拭いをお守りとして持っていった。この、妹を神格化した存在をヲナリ神という。」
「へえ――」
このときになり、「妹」というのが、兄のいる全ての女性のことだと理解した。感心すると同時に、ふと嬉しい予感のようなものが到来する。
「じゃあ――私の持ち物をお守りにしなさいっていうのは、私が藤村君のヲナリ神だということ? 私は、藤村君の妹じゃないのに――」
「まあ――そういうことなんじゃないかとは思うが――」
しかし、その質問にはあまり意味がないような気がしていた。
自分にとって、冬樹はただの親友ではない。けれども――恋人などと言うことは決してできない。どういうわけだか、そういうものに分類できない――分類したくないような気がする。それならば何であるのかと考えると――どうやら兄に近いような気がした。
冬樹はしばし考え込み、やがてこう言った。
「平坂町にはないが――一部の地域には、
女児のおもちゃ箱のようなものが頭の中に浮かんだ。ヲナリ神は、妹の毛髪や手拭いをお守りとするのであったか。
「巫女さんの代わりに、女の人の髪の毛を入れていたということね?」
「そういうこと。――多分、古代の日本にもヲナリ神みたいな風習があったでないかな? けれどもそれは、ひょっとしたら、妹でなくともよかったのかもしらん。世の中には、妹のいない人だっているわけだし。」
確かにそれはそうであろう。自分にも冬樹にも兄妹はいない。
それなのに――自分にとって、冬樹は兄のように感じられる。
少し考え、ポケットからハンカチを取り出した。薄桃色の布地に、緑の小さなクローバーが刺繍されたものだ。手拭いをお守りにしていたならば、これでも効果はあるのかもしれない。
「それじゃあ――これをお守りにしてもらえる?」
冬樹はやや意外そうな顔をする。
「いいの?」
「うん――。これで、寄神からのお守りとなるのならば。」
ありがとう――と言い、冬樹はハンカチを受け取った。
「それにしても――藤村君に電話をしてきた人は誰なのかしら。その人は――多分――藤村君の体調についても知っていたということよね?」
「分からないよ。」
冬樹は軽く首を横に振る。
「けれど、ひょっとしたら、十年前に何が起きたかを調べとる人は、俺達だけでないかもしらん。神社の存在を知っとった人は町の外にもおるはずだ。平坂神社を完全に消すことなんて本当にできたのか?」
会話を遮るように、不穏な声が聞こえてきたのはそのときであった。
「神社って、どこのぉ――?」
二人は驚いて、声のしたほうへと顔を向ける。
そこには、いつの間にか笹倉が立っていた。よりによって厄介な相手に聞かれた。しかもその顔は、何日か前に比べて蒼白くなっている。やつれているものだから、生活に疲れた中年女性のようでもある。
冬樹は、笹倉を邪険に追い払おうとする。
「お前には関係ない。――帰れ。」
瞬間、笹倉は下膨れの顔を皺だらけの饅頭のように歪めた。
「関係ないってクラスのことだが!」
突如として上げられた金切り声に、美邦の心臓は跳ねた。甲高い、硝子の割れるような声であった。冬樹もまた、肩をびくつかせていた。
笹倉の言うことは意味不明であったが、どうやら今の対応は不味かったようだ。笹倉を落ち着かせるため、冬樹は猫なで声を出す。
「もうすぐ授業だけん、早く教室に帰って準備したほうがええで。俺らももう教室に戻るし。それに、クラスのことでも何でもない私事だけん。」
しかしその対応は、火に油を注ぐばかりであった。
「何しとるって訊いとるがん! そうやって話はぐらかさんでや! 何で
姫子と書いて「ぷりんす」と読ませるのが笹倉の名前であった。笹倉は――自分のことを未だこの名前で呼んでいる。このことは教師達も何度か注意しているのだが、一向に直す気這いはない。
「もうすぐ時間だけえだが。」
そう言って、教室へ戻るよう美邦を視線で促す。そろそろ授業の始まる頃合いだというのは事実であった。しかし、笹倉はぷるぷると唇を震わせ、再び金切り声を上げた。
「そんな風じゃなかったが! もっと
廊下を歩いていた生徒達は、一斉に笹倉へ――そして逃げるように廊下へ出て来た二人に対して視線を降り注いだ。
その中には、非難するような視線を向ける者もいた。二年A組のクラスメイトや、かつて笹倉と同じクラスにいた者達である。彼らにとって、笹倉を怒らせることは御法度であった。そうでなければ、しばらくはこの小児病患者の癇癪が治まらないからだ。
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