10 冷たい視線
朝食を摂り終え、朝の準備を済ませて美邦は家を出る。
渡辺家から出ると、一人の中年女性の視線が突き刺さった。彼女は美邦と目が合うと、何か悪い物でも見たように顔を逸らした。
遣る瀬無い思いを抱えて美邦は顔を俯ける。
登校中、しばしば同じような視線に出くわした。通勤中の男性や通学中の生徒達が、不審そうな視線を向けてくる。なぜだか今日は、あの黒い人影でさえも美邦に非難の目を向けているような気がした。
教室に這入ると、一昨日と同じく石油ストーヴの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
しかしそこには、やはりと言うべきかいつもの騒がしさがない。まるで御忌の日のように、誰もが声を潜めている。美邦の存在に気づくと、クラスメイト達はわざとらしく目を逸らした。
例外的に、岩井だけは顔を逸らさなかった。
「おはようございます――大原さん。」
表情には憂いを帯びていたものの、その上品な声には変わりがない。
「うん――おはよう。」
「昨日は大丈夫でしたか? その、聞くところによれば、築島先生のご不幸に巻き込まれたとのことですが。」
「大した心配はないよ。警察の人が家に来たりして、色々と大変だったけど――。家の前で亡くなっていたというだけで、私自身には何も変わりはないから。」
「そうでしたか。それならば――よいのですが。」
ひととおりの会話を終え、美邦は自分の席へと向かう。
そして身動きが取れなくなった。
机の上には、紅いマジックで大きく「やく病神」と書かれていた。塗り潰すように、太い線で何度も重ね書きされている。美邦は呆然と立ち尽くす。一体、何が起きているのか分からなかった。
「岩井さん――これ――」
美邦は、すぐそばにいる岩井へと声をかける。
岩井は振り向き、美邦の机へと視線を向けた。
「ああ――今朝から、そんなふうになっていましたね。」
まるで、だから何だとでもいうような口ぶりであった。表情も全く変わっていない。そのことが美邦を混乱させた。
「どうしよう――これ。」
そう口にするだけでも精一杯であった。
「ああ――教室の後ろに台拭きがあるでしょう? それで消したらどうでしょうか。」
美邦はもはや何も言えなくなった。
仕方がないので、ロッカーに鞄を置き、布巾かけから布巾を取った。あまり物を考えられる状態ではない。布巾を濡らして来て、落書きを消し始める。そのあいだ、クラスメイト達の視線がちらちらと突き刺さっていた。
――酷い。
この落書きをしたのが何者なのかは分からない。それでも筆跡から推測するに、先日、渡辺家の玄関に落書きをした者と同じ者らしい。
どこからか幸子の笑い声がした。
声のしたほうへ目を遣ると、幸子が何人かの女子と共に嘲笑の視線を向けていた――それも一瞬のことで、すぐに視線を逸らしたが。
始業時間も近くなって、冬樹が登校して来た。
その顔がさらに蒼白くなっていることに、美邦は再びショックを受ける。由香や築島が亡くなる前の顔と全く同じものだ。
冬樹は美邦と目を合わすと、おはようと言った。
美邦もまた、おはようと返事をする。
そして冬樹は、美邦の手元へと視線を落とした。やや薄くなった落書きを目にして、眉をひそめる。
「これは――? 酷いな――。一体、誰が?」
「分からないわ。」
美邦は目を伏せた。
「朝、来たらこうなっていたの。」
それから少しのあいだ、沈黙があった。
冬樹はしばし視線を泳がせてから、呆れたように言う。
「――これ、油性だら? 休み時間のときにでも、保健室から消毒用エタノールでも借りてきて消さぁや。さぁでないと、なかなか消えんけん。落書きされたことは、保健室の帰りにでも鳩村先生に相談しよ。――まあ、どれだけ役に立つのかは分からんけども。」
「――うん。」
今さらながら、自分は何をしているのかと思った。油性マジックで書かれた落書きが水で消せないのは当たり前のことではないか。
美邦はとりあえず台拭きを絞ってきて、布巾かけへと戻した。
予鈴が鳴ったのは、ちょうどそのころであった。
鳩村が教室に入ってくる。普段から神経質そうな顔をしているのだが、今日は一層険しい。教壇へ着くと、鳩村は今さらのように、築島が亡くなった旨と、明日葬儀が行われること、そして葬儀場の場所を伝える。
「はい、先生え――!」
背後から、笹倉の妙に明るい声が聞こえた。
「質問は受け付けません。」
鳩村は、にべもなくそう答える。
「質問があるという方は、あとで個人的に私の処へ来て下さい。色々と不安はあると思いますが、くれぐれも不用意な言動は慎むように。」
それでは出席を取りますと言い、鳩村は点呼を始めた。
先日のことを知らない美邦は、笹倉を酷く不気味に思った。まさかとは思うが、笹倉は築島の死でさえも喜んでいるのであろうか。相手が由香でなくとも――誰が死んでも喜ぶ人間なのかもしれない。
さらにもう一つ、気にかかる点といえば――。
そんな笹倉の顔色が、以前より蒼白くなっていたところであった。下膨れのあの円い顔に、軽く白粉でもはたいたかのようであった。
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