7 サイレンの鳴る朝

奇妙な夢から目を覚ましたという点では、冬樹もまた同じであった。


目覚まし時計を止め、冷たい空気とたたかいながら身を起こす。目蓋は重たかった。寝ぼけ眼のまま、夢の内容を思い出そうとする。


何であったか――。恐らくは、真夜中の平坂町を何者かに追いかけられている夢であった。その夢の中で、冬樹は壊滅した平坂町の姿を目にした。濃厚な潮の臭いが、目を覚ました今でも生々しく鼻孔に残っている。


釈然としない思いを抱えつつ、部屋から出る。板張りの床は氷のように冷たかった。刺すような冷たさが足の裏を貫いてくる。


一階へと降り、手洗いへと入った。


異変に気づいたのは、下着の中へ手を入れたときだ。


指先に触れた感触が、いつもと少し違っていた。それが何であるか確認するため、下着をずり下ろす。そして、自分の陰嚢を指で押し拡げた。


睾丸が一つなくなっている。


そのままの姿勢でしばらく動けなかった。


耳が聞こえなくなったときもショックだったが、このときに受けた感覚は、それとはまた別のものであった。しばらくして、言葉らしきものが頭の中にようやく浮かんだ。


――ふざけんなよ、おい。


壁に肘を突き、額を手で覆う。海から来た神の、嘲笑するような表情が浮かんだ。臓器なら他にもあるのに、よりによってなぜこんな処を奪ったのか。


寄神の意図は分からない。しかし朝起きるたびに、どんどんと廃人へと近づいてゆく。たとえ神を送り返すことができたとしても、そのころには、あまり長く生きられない身体となっているのかもしれない。


――それでも。


ここまでされて、何も知ることができないまま終わるのは癪だ。ましてや平坂神社のことから手を引いてしまえば、美邦と離れ離れになってしまう気がする。それだけは、耐えられないほど厭だ。


そこまで考え、冬樹は反問する。


――なぜ?


美邦はまだ出会って二か月も経っていない。それどころか、ただのクラスメイトなど半年後も一緒にいるかどうか分からない。それがなぜ、自分の身体を傷つけても一緒にいなければならないのだろう。


分からなかった。


けれども美邦とは離れたくないのだ。恋愛などというものではない。美邦の存在は、そんなものの対象にしてはならないのだ。自分の身体が傷つくことよりも、美邦と離れてしまうことのほうが怖い。


そんな冬樹の不安を刺激するように、救急車輌のサイレン音が遠くから聞こえていた。冷たい朝の中に、不吉な音が響き渡っている。


手洗いから出て、顔を洗ってから制服へと着替えた。


朝食を摂り、いつも通り家から出る。


その日は風の強い日でもあった。ごうごうと冷たい風の吹く中、中通りを学校へ向けて歩いてゆく。曇った空の下、遠くから潮騒の立てる低いうねりが聞こえている。生殖器の一部を失ったせいか、登校している最中、冬樹の心はどこか遠くにあった。


平坂へ差し掛かってしばらくすると、何やら騒ぎが起きているのに気づいた。普段なら、通学・通勤以外で人通りのないはずの道を、何人もの老人や主婦達が不安そうな顔で行き交い、言葉を交わしている。


――また、何かあったんだらあか?


トイレで聞いたサイレン音のことを思い出さざるを得なかった。


そして美邦の家の前まで近づいたとき、呆気に取られてたたずんだ。


そこには数台のパトカーが停まり、立ち入り禁止と書かれた黄色いテープが張られていた。美邦の家に何か大変なことが起きたのだ。そして、考え得る限りで最悪の出来事が脳裏をよぎった。


不安に駆られ、通りすがりの中年女を捕まえ、問いかける。


「すみません――一体、何が起きたんですか?」


彼女は渋い顔をして、首吊りがあったみたいよと言った。


「首吊り――ですか?」冬樹は白い息を震わせる。「それは一体、どんな方が首を吊られたんです? 無事なんですか? この家の人達は――」


「さあ――何でも、男の人みたいね。渡辺さんとこの人かどうかは、分からないけども。まあ、この分じゃあ、生きとらんでないかなあ。」


被害者が男性だと聞き、安堵を覚える。どうやら最悪の事態にはなっていないらしい。そしてすぐに、次の懸念が襲ってきた。


最悪の事態に至っていないだけで、どうあれ死者がまた出たのだ。しかもよりによって、美邦の家か、そのすぐそばで。となれば、美邦を取り巻く環境はさらに悪くなるであろう。


遅刻するわけにもいかないので、とりあえず学校へ向かう。しかし冬樹は歯を強く噛みしめていた。寄神は一体、何をしたいのか、どこにいるのか――。そもそも、平坂町で起きている怪事件の原因が本当に寄神かどうかさえも確固とした証拠はない。


学校へ着き、二年A組の教室へ這入る。


やはりと言うべきか、美邦は登校して来ていなかった。


教室へ這入った瞬間、何人かのクラスメイトが冬樹に視線を遣った――まるで、ここ最近平坂町で起きていることの原因が、冬樹であると言わんばかりに。恐らくは、美邦もこのような目でクラスメイトから見られていたに違いない。


冬樹は鞄を置き、芳賀の席へと近寄る。芳賀はむっつりと押し黙ったまま、読書に集中していた。最近、このように芳賀は不機嫌な表情ばかりしている。


「また――何か変なことがあったみたいだな。」


冬樹がそう言うと、芳賀は顔を動かさず、うん、と言った。


「芳賀、何があったか知らないか?」


芳賀はそのとき初めて本から視線を逸らし、冬樹のほうを向いた。


「僕は上里のほうから来とるのに、何があったかだなんて知るわけないが。何か――平坂のほうが騒がしくなっとったけど。むしろ藤村君のほうこそ何か知っとるでないの?」


「ああ――まあ、さあか。」


棘のある口調に、冬樹は目を逸らさざるを得なかった。


「登校しとる最中――大原さんの家の周りが、封鎖されとったんだ。警察とかもいっぱい来とって――。それで心配になって、通りすがりの人に訊いただけど――首吊りがあったみたいだって言っとんなったわ。何でも、男の人が亡くなっとっただって。詳しいことはよう判らんかったけど。」


美邦の名前が出てきたあたりで、芳賀は露骨に眉間へ皺を寄せた。


「また大原さんの話だ――」芳賀は鬱陶しそうな声を出す。「そんなこと、僕なんかが知るわけがないが。そんなに気になるんなら、大原さんが登校して来たときにでも訊いてみたらええがん。僕――あの人とは、あんま関わりたくないし。」


言い終えると、再び本のほうへと顔を向けた。


それが今まで見せたことのない態度だったので、冬樹は少し驚いていた。


無論、冬樹は芳賀の全てを知っているわけではない。それでも――冬樹に対してこのような表情を見せることはなかったし、思いもよらないことであった。


予鈴が鳴ったので、冬樹は自分の席へと戻ってゆく。


教室へ這入ってきた鳩村の表情は、見るからに険しいものであった。教壇に着くと、鳩村はくぐもった声でこう言った。


「ええ――知っている人もいるかとは思いますが、大原さんは、今日は諸事情で学校へ来られません。築島先生も、今日は来られない状態です。詳しいことは後日、改めて説明がありますので、それまではできるだけ落ち着いた行動を心掛けるようにしましょう。くれぐれも、根も葉もない流言などを立て、空騒ぎなどを起こさないように。」


冬樹は、自分の厭な予感が的中したことを悟る。美邦にではなく――築島に対して何かが起きたのだ。机の上で、上半身から気が抜けるような、軽い眩暈を起こしたような状態となる。神社のことに築島を巻き込んだことを激しく後悔した。


「はい――先生ぇ!」


冬樹の背後で、笹倉が妙に元気な声を出し、立ち上がる。


「築島先生が、大原さんの家の前で首を吊って死んだって、本当ですか?」


その場にいた誰もが、ぎょっとしたような表情をする。


教室内の温度が急に冷えたのを感じる。鳩村の顔がますます険しいものとなった。窓硝子が、強風に煽られてガタガタと音を立てる。


「そのように考えてしまう気持ちも分かりますが、今は証拠も何もない状態ですので、身勝手な言動は控えて下さい。」


「けれども登校中に見たという人がいます!」


愉しんでいる様子を隠すこともなく、笹倉は問い続ける。


「大原さんが来てから、この町やクラスで変なことばかり起きています。それについて藤村君も何か知っているはずなのに、知らん顔してます!」


冬樹は背筋が冷えるのを感じた。鳩村は苛々した表情で続ける。


「黙りなさい。今はそういうことを話す時間ではありません。」


「大原さんが、築島先生の頸を締めて殺したというのは本当なんでしょうか? 大原さんと藤村君は、最近何だか築島先生と何かを話している様子でした。これは私の想像なんですが、思うに――」


「黙れ!」


鳩村に一喝されて、さすがの笹倉も黙り込んだ。鳩村は――怒鳴り終えたあとも白い頬をふるふると震わせていた。


冬樹は、まるで自分が叱られているような居心地の悪さを感じる。


「それでは――出席を取ります。」


打って変わって冷静な声となり、鳩村は点呼を取り始めた。

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