3 ストーヴの出た教室

一昨日の夜――啓が帰って来るまで、三人は居間で震えていた。


千秋はわんわん泣いていたし、詠子は千秋を抱きかかえ、恨めしそうな視線を美邦に向けていた。美邦もまた、どうすることもできずソファの上で縮こまるばかりであった。


帰ってきた啓が目にしたものは、そんな異様な光景であった。何事かと訊ねる啓に対し、三人は異口同音に取り止めのない説明を行った。美邦はこのときになって初めて、止まっていた時が動いたような印象を受けた。


啓は恐る恐る二階を確認したが、当然、誰もいなかった。それどころか、窓など出入り口となりそうなところは、全て鍵がかけられていたという。


あの音は一体何だったのか。


確かに、恐ろしかったことには恐ろしかった。


しかし、美邦はそのとき詠子から暴行を受けている最中だったのだ。怪音によってそれが止まったのは幸いであった。あの音を立てた主は、詠子の行為に対して怒っていたようにも思える。


そこまで考えたとき、美邦の胸の中には何か温かいものが込み上げてくるのだ。あの音からは、自分の知っている何かがあった。


二年A組の教室へ這入ると、石油の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


石油ストーヴが出されているのだ。そういえば、先週の学活で灯油当番が決められたばかりであったか。ストーヴの周りには、既に何人もの男子達が集まって温まっている。女子にとっては中々近寄れない状態だ。


登校中も、制服の上にコートやカーディガンを羽織った生徒が多かった。そろそろ本格的な冬が始まろうとしている。


例により、冬樹が登校して来たのは始業時間ぎりぎりであった。


その顔を目にして美邦は再び不安となる。先週と比べ、さらに白くなっていたからだ。それでも、芳賀とあまり変わりない程度であったが――。


朝学活と読書の時間を経て、休み時間へと入る。


授業の準備をしていると、冬樹が声をかけてきた。手には一枚の紙を持っている。冬樹が本題を切り出すより先に、美邦は口を開いた。


「藤村君――体調は、大丈夫なの?」


「あまり――ようはないかな。」


「そう。――早めに、お医者さんへ行ったほうがいいんじゃないかしら。」


今の冬樹は、体調を崩し始めたころの昭を連想させる。


「ああ。まあ――さぁなんだけどな。」


困ったような顔をしてから、冬樹は本題を切り出した。


「昨日、母さんと祖母ちゃんに、駅前のことについて訊いてみた。そしたら、十年前までは駅前にアーチ状の看板があっただってさ。老朽化してたのと、商店街が破綻してたから、取り払われたらしぃだけど。ネットで検索してみたら、ちょうどそのときの画像が上がっとった。」


そして冬樹は、手にしていた紙を美邦に差し出す。


全体的にほんのりとピンク色のかかった色褪せた写真であった。平坂駅前を写したものであり、中央にアーチ状の看板が見える。看板はかなり老朽化しており、表面には錆が浮き出ていた。


看板そのものに――というよりかは、風景そのものに見覚えがあった。


「多分――間違いないんじゃないかな。よくは覚えていないのだけれど、夢の中に出てきた風景はこれに近いと思うわ。」


「さぁだらぁと思った。あそこには元々、郵便局や薬局もあったらしぃし。いつごろなくなったかは曖昧だったけど。」


「――そう。」


しかしながら、なぜ十年ほど前の風景が出てきたのだろうか。


ふっと気づいて、美邦は口を開く。


「私が見たものは、由香が亡くなった瞬間ではなかったのかしら。」


冬樹はこくりとうなづいた。


「俺もちょうど同じこと考えとった。そもそも大原さんが初めて夢を見たとき、実相寺はまだ生きとったわけだし。それに――あの踏切じゃ、よく人身事故が起こるから。ひょっとしたら、十年前にも同じような事故があったのかもしらん。」


「そう。」


「そんなわけだけん――昨日、鉄道会社にメールしてきた。ここ十年から二十年のあいだで、平坂駅の踏切で起こった人身事故を教えてくださいって。実相寺だけでなくって、俺が覚えとるだけでも、何件か起こりよったはずだし。ホームページには、返信があるまで何日かかかる可能性があるって書かれとったけども。」


「――なるほどね。」


美邦は、何だかほっとしたような、自信がついたような気がしていた。自分の書いたノートがどれだけ役に立つのか今まで不安だったからだ。けれども冬樹の言うとおり、この町に起こっていることについて何らかの真実を反映しているのかもしれない。


築島の声が聞こえてきたのは、そんなときであった。


「藤村君か、大原さんはいますか?」


顔を向けると、教室の前のほうの入口から築島が顔を覗かせていた。


その顔色を目の当たりにして、美邦に芽生えかけていた自信は瞬く間に消え失せた。築島の顔は、冬樹の比ではないほどに蒼褪めていたのだ。どちらかといえば、失踪する前の由香に近い。


冬樹は、はいと返事をして築島の元へと近寄った。


美邦もまた、それに続く。


恐らくは、隣のクラスへ行く途中で立ち寄ったのであろう。築島は教材のあいだから、ケースに入ったDVDのようなものを取り出した。


「土日のあいだ、知人達に電話をかけて神嘗祭の映像を探してきました。幸い、ビデオに撮っておられる方がいたので、DVDに焼いてもらいましたよ。この中に、神楽舞の奉納と平坂神社の境内の映像が入っています。」


「あ――ありがとうございます!」


冬樹は顔を明るくし、DVDのケースを受け取った。


しかしその表情も、すぐに不安なものへと変わった。


「あの――ところで先生、体調は大丈夫なんですか?」


築島は首を傾げる。


「どういう――ことなのかな?」


「先生の顔色――失礼ですが、とても悪くなってはいませんか?」


築島は、何かに気づいたような顔をし、自らのほほを撫でる。それからその指先へと視線を遣り、まじまじと見つめる。眼は虚ろであり、口元もぽかんと開いていた。


「僕は――何も感じませんが。」


「そう――なんですか?」


冬樹は呆れて問い返した。美邦もまた同調する。


「私も――先生の顔色は、とても悪そうに見えるのですけれども。何だか――病気が悪くなったころの父のようでもありますけど――。今まで、気づかれませんでした?」


「いえ――特に変わっているとは思ってもいませんでした。」


由香のときと全く同じであった。


ここまで顔色を悪くしておきながら、自分で気づかないということがあるのだろうか。ましてや、体調不良を感じないということが――。


あるいは――徐々に変化していけば自分でも気づけないのかもしれない。


いずれにしろ、築島が受けてきたというお祓いも、お守りも、何の効果も生まなかったことだけは確かなようだ。


そこまで考えたとき、始業のチャイムが鳴り響いた。築島は、では失礼しますと言い、隣のクラスへと去っていった。美邦らも、築島を引き止めるわけにもいかなかったので、自分の席へと戻ってゆく。会話は、不完全燃焼のままに閉ざされた。


いつもどおりの一日が始まろうとしている。

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