9 天井の音

詠子は不愉快感に苛まれていた。煮えたぎる思いで胸の中がいっぱいだった。


日没が少し近づいてきた頃、入江にあるスーパーへ詠子は食材を買いに出かけた。


苛々するあまり、最近は家事も思ったように手がつかない。


当然ながら、原因の一つは美邦である。


最初は、コミュニケーションの上で引っかかりを感じるという程度であった。それが、詠子の周りで奇妙なことが起こるようになってから、美邦が家にいることさえも苦痛になりつつあった。なぜこのような不快な存在が家にいるのだろうという気がしてならない。それが家事の足を引っ張っている。本当はこのような「遅い」時間に買い物へ出かけたくもなかったのだが。


買い物を終え材料をレジ袋に入れているとき、声を掛けてくる者があった。


「あら――千秋ちゃんのお母さんじゃありませんの。」


振り向くと、そこには知り合いの中年女性――千秋のクラスメイトの母親の姿があった。濃い化粧の施された顔が、今日はより醜悪に見える。それでも愛想で、苛々するのも我慢して、二、三ほど他愛のない会話を交わした――徐々に暗くなりつつある外の景色を気に掛けながら。


「そういえば――美邦ちゃんでしたっけ?」ふと、彼女はその名前を口にした。「渡辺さんの処に居候されている、女の子。彼女、もうさっそく恋人ができたんですか?」


「はい――?」


言っていることが分からず、詠子は首を傾げる。


「お昼前でしたかしら? 私の近所に住んでいる男の子と、一緒に歩いているのを見掛けたんですよ。何やら――とても仲良さげでしたけど。確か、藤村さんっていう処の、美邦ちゃんと同学年くらいの男の子なんですけどね。他に、友達も付き添っている様子ではありませんでしたけれども。」


彼女は意味ありげな含み笑いをしていた。


頭に熱いものを感じた。都会の子供は色恋の沙汰が早いんですねえ――と言っているように思ったからだ。そして同時に、美邦が自分に嘘を吐いていたのだという怒りもあった。朝、家を出るときは、友人と調べ物をしに行くとしか言っていなかったのに――。


「いえ――そういうことは、私は知りませんでしたけど――」


詠子は平常心を装いながら、辛うじてそう答えた。その表情は、自分でも引き攣っていることが分かった。知り合いのその中年女性は、何かを悟ったかのように「あら、そうでしたか――」と言った。


美邦のこととなると、どうも沸点が低くなってしまう。


詠子は、先日郵便受けに入れられていた、生ゴミの臭いと感触を思い出した。その感触は今でも、自分の手から離れない。


――疫病神。


玄関のドアに書かれていたその言葉は、明らかに美邦を指すものであった。あの悪臭を放つ生ゴミも、本来ならば美邦がその手に受けるべきはずのものだったのだ。それがなぜ――詠子が不愉快な思いをしなければならないのか。


買い物を終えスーパーから出ると、空は既に藍色に染まりつつあった。最近は日が短くて、つくづく厭になる。大きな買い物袋を提げた手に、冷たい風がかじかんだ。


スーパーから帰る途中、詠子は頭の中に、知人の含み笑いがずっとちらついていた。都会の子はそういうことが早いんですねえ――という、発されてもいない言葉が脳内に響き渡っていた。詠子は自分がなぜ、こうも怒っているのかさえ、理解できていなかった。


家に帰ると、美邦は既に帰宅していた。居間でテレビ番組を見ていて、ぼーっとしている。千秋はといえば、パソコンに向かって何かの動画を見ている。この二人の子供が、それぞれ別の放送を見ているという状態が、なぜか腹立たしく感じられた。自分が小中学校の頃には、決してなかった状態だ。


「テレビなんぞ見ている場合ですか、大原さん。」


自分でも驚くほど恨みがましい声が出た。


美邦と千秋はこちらへ顔を向け、そしてぎょっとしたような表情をする。詠子は買い物袋を捨て、美邦に素早く近づくなりその頭を引っ叩いた。


「居候の分際でよくも抜け抜けと――」


一度叩いたら、なぜかますます怒りが増幅された。続いて、三度四度と立て続けに頭を叩く。テレビからかしましい笑い声がして、虚しく響き渡る。痛い――と美邦の軽い悲鳴が上がる。


「お母さん、やめて!」


千秋が制止する声を上げたものの、詠子には聞こえていなかった。


「学校の調べ物で友達と出かけるとか何とか言って、本当は色気づいとるでないの!」詠子は美邦の頭を、頬を、執拗に強く叩き続ける。「お前がこの家に来てから碌なことが起きてねぇんだよ! この疫病神! 疫病神!」


千秋は再び叫んだものの、何の効果もなかった。詠子のヒステリックな声と、頭を打ちつける音に紛れて、美邦は掠れるような声を上げている。


異変が起きたのは、そんなときであった。


床を激しく蹴りつけるような音が、天井から聞こえてきた。


落雷のような音だった。詠子は度肝を抜かれ、美邦を殴る手を止めた。そして天井を仰ぎ見る。美邦と千秋も同じであった。まるで心臓を射貫くような、大きな音だった。


啓はと言えば、今日は外出していてまだ帰っていない。この家には今、三人を除いて誰もいないはずだ。


一拍のあいだを置き、再び――今度は立て続けに床を蹴る音が鳴り響いた。まるで怒りをぶつけるかのように、それは激しく天井を打ち鳴らし続ける。かしましい音の中、恐れに駆られた千秋が泣き叫びだした。

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