8 博物館

それから電車に乗り、県庁所在地へと向かった。


美邦は、引っ越してきてから初めて平坂町の外へと出た。


県庁所在地へ着くまで、普通電車で一時間以上も掛かった。窓の外にはほぼ田畑しかない。それでも、ときとして海が姿を覗かせた――いかにも冷たそうな鉛色の海が。


電車に乗っているとき、ふと冬樹は、こんなことを口にした。


「勤労感謝の日――って、あるだら?」


美邦は小首をかしげる。


「うん。――それが?」


「勤労感謝の日って、戦前までは『新嘗祭にいなめさい』って名前の祭日だっただん。『新嘗祭』は、今でも皇居で行われてる重要な儀式だけど。」


儀式では――と冬樹は言う。


「天皇陛下が、その年に初めて穫れた穀物を神様に捧げられ、自らも食される。新嘗祭は長いあいだ、収穫を神に感謝する収穫祭だと考えられてきた。だから、名前が変わった今は『勤労感謝の日』っていうんだ。」


「――へえ。」


それが一体、どうしたのだろうと思う。


「けれども最近の研究では、実際の収穫祭は、十月十七日に行われる神嘗祭だったんじゃないかと考えられてる。そもそも新嘗祭は、元々は旧暦十一月の卯の日に行われていた。これは真冬のこと――冬至の日と近くなる。収穫祭には少し遅い。」


冬至という言葉に、神送りと何らかの接点を感じた。


「天皇陛下は――新嘗祭の日、『真床御衾まどこおぶすま』と呼ばれる寝床で休まれる。これは瓊瓊杵尊ににぎのみことの『おくるみ』――つまり、赤ちゃんを包む布を模したものらしい。記紀によれば、天照大御神の孫である瓊瓊杵尊は、新生児のまま地上に降臨したから。」


揺り篭のようなものだろうか――と美邦は思う。


悠久の時を生きる神々からすれば――。


天皇がどれだけ高齢であろうとも、新生児と等しいのかもしれない。


「冬至の日というのは、一年で最も太陽のエネルギーが衰えるときだ。そして天皇は、太陽神の子孫であると同時に、国土の体現でもある。日本の国土は、陛下の玉体おからだによって現されている。つまり新嘗祭というのは、冬至の日に天皇が神々と共に食事を摂られることによって、国土に新たなエネルギーを吹き込む儀式だったのではないか――ということ。」


「なるほどね。」


「俺は、神送り・神迎えの儀式が、平坂町における新嘗祭なんだと思う。」


冬樹は窓の外へと目を遣った。


「平坂町には、新しいエネルギーを吹き込まなきゃいけない。そうでなきゃ、過疎化と少子化で、ゆっくりと滅んで、人がいなくなってしまうんじゃないかって――そんな気がしてならない。」


その気持ちは、美邦にも何となく分かった。


平坂町に引っ越して来て以来、岡山との落差を美邦は肌で感じていた。遊ぶ場所がないとか、買い物をする場所がないとかいう程度ではない。人がいないのだ。廃屋やシャッターの閉まった商店が目立ち、田畑も放置されている。若者は――恐らく進学や就職などで、どんどんと町を離れてゆくのだろう。


ではその先には――何があるのだろうか。


しばらくして、県庁所在地の駅へと着いた。


駅前のセルフうどん屋で昼食を摂ってから、バスへと乗る。


県庁所在地の街竝みが窓の外に流れてゆく。岡山と比べれば見劣りがするが、平坂町に住んでいたためか、随分と都会のように感じられる。


博物館へと着いた。緑に囲まれた洋館のような建物だ。


展示物は■■県の歴史や文化に関連したものであった。ナウマンゾウの化石があったかと思えば、県特産の染め物が展示されたりしている。


展示物の九割以上は、平坂町とも古代史とも関係がない。それでも、決してつまらないものではなかった。古いものは同時に美しい。数十年では、この美しさは出ない。


民俗学や考古学について詳しい者がいると由香から聞いたときは、変わった趣味の持ち主だなと思った。しかし今は冬樹の気持ちも分かる。


特にそれを深く感じたのは、考古物の展示コーナーへ立ち寄ったときだ。


そこだけ他の処とは空気が変わって感じられた。


淡く調節された照明とやや冷たい空気は、地下室に似ている。硝子匣子ガラスケースの中には、土器や勾玉、銅剣や銅矛などが静かに横たわっていた。


肝心の銅鐸は、展示室の真ん中にある別個の匣子ケースに収められている。


美邦は匣子の前で身動きができなくなった。


不思議な気持ちがした。


変わり果てた銅鐸の姿を目の当たりにして、胸が痛んだ。吊り手が折れ曲がり、腐蝕し、欠けたその姿は、地中に埋もれていた悠久の時を物語っている。美邦がこの銅鐸と顔を合わせるのは、どうやらこれが初めてではないようだ。それが再び地上へ出て、大切に保管されつつも人目に触れていることへ安堵を覚えた。


「この銅鐸は昭和二十八年――平坂中学校を造るとき、ちょうど教室棟の建っているあたりから、ぜつと共に発見された。」


冬樹のそんな言葉で、美邦はふと現実へと戻される。


「――ぜつ?」


冬樹は銅鐸の隣を指し示す。


そこには、手の平大の棒状の青銅が置かれていた。


「銅鐸を打ち鳴らすための部品だね。銅鐸は全国的に発見されているけれども、舌を伴った発見は、平坂町を除けば淡路島と鳥取の湯梨浜町くらいしか例がない。」


「どうして? 舌も、銅鐸の一部なんじゃないの?」


「分からない。ただ――舌を埋めないことには、何か意味があったのかもしれない。そもそも銅鐸を埋めるという行為そのものが、何らかの宗教儀式だったらしい。普通、銅鐸は丁寧に『埋納』されているものだから。」


冬樹は銅鐸に向き直る。


「けれどもこの銅鐸は、海沙――海の沙に埋もれて発見された。しかも、丁重に埋納された状態ではなかった。ひょっとしたら、何事かがあって打ち捨てられたのかもしれない。」


「――そう。」


それから十分間ほど、美邦は銅鐸の前から離れることができなかった。


長いあいだその場に留まっているのも気が退けた。他の展示物へも美邦は目を遣る。平坂町から出土した物といえば、少数の土器や管玉しかない。それ以外の展示物で目を惹いた物は、県内から出土した銅矛であった。


全長四十センチ以上はある銅矛が四本、ショーウィンドウの中に竝べられていた。幅は広く、まるで大きなしゃもじのようにも見える。


「随分と、大きいようね。」


美邦のつぶやきに、銅鐸と同じだよと冬樹は答えた。


「弥生時代に造られた青銅器は、祭器だったんだ。だから銅矛や銅剣といったものも、武器として役に立たないほど巨大化してゆく。」


「やはり、つぁなきを吊るしていたのかしら。」


美邦が唐突に発した言葉に、冬樹は首を傾げた。


「ツァナキ?」


「えっ――?」


冬樹が復唱したことによって、自分が意味不明な言葉を発したことに美邦は気づいた。そして、このような言葉が口から出たことに驚きを感じる。


「ツァナキって、ひょっとして『さなき』のこと? 銅鐸の『鐸』と書いて。」


「よく――分からないわ。」


銅矛と銅鐸へ交互に視線を遣り、やがて冬樹は言う。


「矛に――吊るしていたということかな? 銅鐸を。」


「うん、ごめん――。自分でも、よく分からなくって――」


「まあ、さぁいうこともあるらだぁさ。俺も、大原さんが何か思いつくんでないかな、って思って博物館に誘っただし。」


「――そう。」


美邦は銅矛へと視線を向け、目を細める。


「ほら――矛の下のほうに、何かを吊るすための出っ張りがあるでしょう? 何となくだけれども――そこに、銅鐸を吊るしていたんじゃないかな、って思うのだけれども。」


美邦が指さした部分位は、学術的には「耳」と呼ばれる部位であり、何かの飾りを吊るしたものであろうと考えられている。


「なるほど――そういう使い方もあるな、確かに。」


美邦の指さしたほうへ、しげしげと冬樹は目を遣った。


「平坂神社の神祭りで使われていたという杖も、鉄鐸が吊るされていたんだっけか。ひょっとしたら、それは銅矛に銅鐸を吊り下げていた頃の名残かもしれないな。」


「平坂町から、出土した銅矛はないの?」


美邦に問われ、冬樹は首を捻る。


「生憎――平坂町から銅矛が出土したという話は聞いたことがないな。」


それは少しだけ残念なことではあった。


しかしそのとき、美邦の中に、ふっとまた別のイメージが湧き上がってきた――神祭りの夜に、家の中へ引き篭って怯えながら過ごす古代の人々の姿が。外からは、澄み渡った銅鐸の音色が聞こえてくる。


銅鐸はかつて、共同体の神器だったのだ。最初は海から神を招くための器具として使用され、時を経たあとは、神そのものを宿す入れ物として使われた。それがなぜ打ち捨てられたかは分からない。けれども古代に行われた神祭りは、十年前まで平坂町で行われていた儀式と全く同じものであった。


博物館を出たあとは、市内で少し休憩を取ってから、平坂町へと戻った。冬樹の体調があまり芳しくなかったためと、長居をしていては帰宅が日没後となってしまうからだ。


それでも実際に銅鐸を目にしたことによって、美邦の無意識には一つの変化が起きていた。今までは突発的に、しかも断片的にしか湧き上がって来なかったものが、沙が水を吸うように、徐々に意識の上へと浸透してきたのである。

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