9 耳鼻科

早苗が通勤する車に乗せられて市内へ出た。


帰りは電車を利用するよう早苗は言い、耳鼻科の前で冬樹を降ろす。


曇った空の下、冬樹は早苗の車を見送った。


溜息を一つ吐くと、息が白くなっていることに気づいた。もう一年も一月と半分近くしかない。そんな季節になったのだ。


薬臭い待合室で診察を待った。


あまり新しい病院ではない。床のリノリウムが随所で剥がれかけている。


しばらくして名前を呼ばれたので、診察室へ這入った。馬面の老医師と対面し、左耳が聞こえなくなった旨を伝える。老医師は怪訝な表情をして、耳鏡――漏斗状の小さな器具――を冬樹の左耳へと突っ込んだ。


しばらく左耳を弄りまわしてから、困惑した表情で老医師は言う。


「特に、異常は見当たりませんけどねえ――。とりあえず、これだけでは何も分かりませんので、レントゲンを撮ってみましょうか。」


同意すると、看護婦にレントゲン室まで案内された。


レントゲンを撮り終え、診察室前の長椅子でしばらく待った。


やがて名前を呼ばれたので、診察室へ這入る。蛍光板シャウカステンにX線写真が貼られていた。老医師は難しそうな表情をし、耳の断面図を開いて説明しだす。


「ほら――見て下さい。」


老医師は断面図の、鼓膜の内側を指さした。鼓膜からはぐにゃりと曲がった器官が出ており、蝸牛かたつむりのような器官へとつながっている。


「これは耳小骨じしょうこつという器官です。鼓膜が音として受け取った振動を蝸牛管かぎゅうかんという器官へ伝えるための役割があります。蝸牛管で受け止められた振動は信号へと変換されて、脳に伝えられるわけです。」


そして老医師は――X線写真の、耳小骨があるはずの部分を指した。そこには、断面図に描かれているものがなかった。


「無くなっていますね。――その、耳小骨が。」


冬樹は言葉を失った。


しばらくは、ただ不気味な静寂だけが続いていた。待合室のほうから、幼児の泣きわめく声が聞こえてくる。もちろん、右耳からしか聞こえない。


「そのようなことが――あるのですか?」


老医師は返答に困った表情をする。


「――ありません。普通なら、あり得ません。中耳は、普通は完全に密閉されています。貴方の耳もまたそうでした。鼓膜が破れているわけでもなかったし――。もしも本当に、今朝いきなり耳が聞こえなくなったというのであれば、もっと大きな病院で精密検査をしてみるべきでしょうね。」


老医師は、冬樹の言葉を疑っているようであった。


断面図から察するに、耳小骨が消えることは確かにあり得ないのだろう。そもそも、診断される前から医学的な説明を冬樹は諦めていた気がする。


「どうにかして、治療はできますか――?」


その質問の意味を、老医師は理解できないようだった。


「とりあえずは、何かの病気の症状である可能性もありますから、総合病院で診てもらったほうがいいと思います。――紹介状、書きましょうか?」


老医師の言葉に、冬樹は機械的にうなづいた。


再び耳が聞こえるようになるか訊きたかったのだが、老医師にとってそれは論外であったのであろう。左耳の聴力は永久に失われた。その事実が重く圧し掛かっている。


これからは――何が起きるのか。


神事に関わった者が次々と亡くなっていると聞いても、なぜだか冬樹にはあまり実感が湧かなかった。だが――次に目覚めたときは、ひょっとしたら、右耳が聞こえなくなっているのかもしれない。


命に関わることに自分が首を突っ込んでいるのだと初めて実感した。


それでも――。


不思議と、後悔は感じなかったのだけれども。

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