2 疫病神
それと同じ朝のことだ。
いつものように美邦は目を覚まし、一階へ降りた。台所へ這入ると、憤然とした表情で詠子は朝食を作っていた。恐る恐る挨拶をしても、何も答えない。ともかくも非常に不機嫌な顔をしている。
当然――何があったのか美邦に訊けるわけがない。
――私、何かしたかな?
そう思うと、心臓が破裂しそうだった。
やがて、啓が起きてくる。
啓自身も、妻の姿に戸惑いを隠せないようであった。
「おい、何があったんだ?」
説明するより先に、詠子は怒りを爆発させた。
「ほんっと頭に来る! 一体、人様の家を何だと思っとるんだか! こっちはあとから落書きも消さんといけんだってのに!」
唖然としたような啓を前にして、詠子はさらに金切り声を立てる。
「玄関に落書きがされとったのよ! 落書きが! 岡山に帰れって書いてあったわ。」
まるで家族を責めているような口調だ。最後に起きてきた千秋も、こんな母親の姿を見たことがないという顔をしていた。
登校する際、美邦は実際にその落書きを目にした。紅いマジックで、大きく「岡山にかえれバカやろう」「やく病神」という文字、それから巻き貝のような図が描かれていた。
詠子があそこまで激怒していた理由が分かった。この落書きは、美邦を中傷するためのものだからだ。しかし姪に義憤を立てているわけではない。ただでさえ相性の合わない姪のせいで、自分の家にこのような落書きをされたことが腹立たしかったのだ。
――疫病神。
その言葉は美邦の胸に、一際大きな錐を突き立てた。
この一か月で、美邦に関わった者が二人も亡くなった。落書きは、その事実から目を逸らすなと言っているようでもある。
後ろ髪を引かれるような思いで登校した。
月曜日は文化の日であったため、三日ぶりの登校だ。通学路の随所には、いつもどおり黒い人影が立っている。案山子のようなその姿は、なぜだか美邦を非難しているようにも見えた。
――お前のせいで実相寺は死んだ。
下駄箱に入れられていたあの紙の文字が頭を
――私のせいで、菅野さんも?
手紙を出した者はそう思っているかもしれない。
――藤村君が聞いたら、一体どう思うんだろう。
そんなことを考えながら、通学路を歩いてゆく。
いつもの丁字路に差しかかった。しかし、幸子の姿はない。ひょっとしたら今日も来ないのではないか――そんな不安を抱きながら、しばらく幸子を待った。いつもより、少し長めに。
それでも来なかったので、仕方なく独りで学校へと向かう。
由香と幸子と三人で歩いた短い通学路が、もう二、三年ほど前のように思える。人が亡くなるということは、それほど大きな喪失なのだ。
学校へ着き、二年A組の教室へと這入る。
そして、教室の片隅に幸子の姿を見つけた。憂鬱そうな表情でクラスメイトの女子と何かを話している。美邦が登校していたことに気づき、一瞬だけ目を合わせたが、すぐに顔を背けてしまった。
美邦には、何がなんだか分からなかった。
戸惑いを覚えながらも自分の席へと歩いてゆく。足元はおぼつかなかった。席へと着いて、何が起こっているのかを考えだす。少なくとも今は、幸子に近づける雰囲気ではない。
いや――そもそもこの教室にはいつもの活気がない。
由香が亡くなった直後ほどではないにしろ、誰もが大きな声を立てていない。どうやら菅野が亡くなったことを噂しているようだ。教室の随所で何事かがささやき合われ、時として美邦のほうへ視線が飛んだ。
誰もが気にかけているのであろう――立て続けに起きた不審死を。
美邦の隣にはもう由香の席はなかった。休みの日に片づけられたらしい。
始業時間が始まっても冬樹は登校してこなかった。
身体中が妙にそわそわとする。
やがて朝学活が始まった。鳩村は、冬樹が体調を崩して欠席することを伝えた。その報せを聞いて、ようやく少し安堵する。
――藤村君だって、休むときくらいはあるもの。
ただしそれは完全な安堵ではない。本物の不安は、何が不安か分からないことなのだ。冬樹の欠席理由についても、どことなく信じられない気がしていた。
――変なことが、起きてなきゃいいんだけど。
その日、美邦は幸子と会話しなかった。
幸子が話しかけてこなかっただけではない。自分から話しかける勇気もなかったのだ。全ての時間を通して、幸子は美邦と距離を置いていたし、同じ班の女子達を話し相手としていた。
午前のあいだ、美邦は孤独に過ごした。昼休みが待ち遠しかった。
毎週火曜日と木曜日の昼休みには、竹下と会うこととなっている。そのときのために、この町へ来てから感じてきたことをノートにまとめていた。
こんなとき悩みを相談できるような相手が、今は竹下しかいない。この不安を誰かに打ち明けたい気持ちでいっぱいであったが――こんなときに限って冬樹は休んでいる。
*
昼休みに入り、美邦はカウンセリングルームへ向かった。
少しショッキングな出来事に遭遇したのは、教室から出たときだ。
けたたましい奇声を聞いたかと思うと、美邦の目の前を歩いていた男子が、後ろから駆けてきた男子に蹴られた。蹴られた男子は少しよろめき、後ろへ振り返る。その横顔は、芳賀のものであった。
「おい芳賀ァ、今日藤村いねェんだってな!」
その男子は何やら嬉しそうな顔で耳障りな声を上げる。
「お
芳賀はそんな彼を無視し、どこかへ行こうとする。しかし彼は芳賀の詰襟を引っ掴み、小突き回し始めた。
「おら、無視すんじゃねえぞ、ゴラァ! 藤村もそのうちいなくなっちまうぞ!」
芳賀はまるで木偶のように、無抵抗に振り回され始めた。
見兼ねた美邦は教室へ戻り、岩井へ相談することとした。
芳賀が男子に絡まれているということを聞くなり、岩井は教室から飛び出した。そして大きな声で、こらあああああっ、東田あああああっ――と叫んだ。それまで岩井が敬語以外で喋るのを聞いたことがなかったため、少しだけ意外な感じがした。
岩井の一喝で、東田と呼ばれた男子はどこかへ退散する。
「芳賀さん――大丈夫ですか?」
芳賀はむすっとした表情のまま、別に、とだけ答える。そして、取り立てて感謝の言葉を述べることもなくその場から去っていった。
「まったく――東田ときたら。最近は大人しくなっていたと思っていたのに――」
「あの人は、いつもあんな感じなの?」
美邦が問うと、岩井は多少面倒臭そうな表情をした。
「ええ――。小学生のころからですよ、ずっと。」
きょとんとしていると、岩井はさらに説明を続けた。
「あの人は、東田っていうんです。小学校のころから、身体の弱い芳賀さんをよく苛めているんですよ。私も同じ小学校の出身なので、そのへんのことは昔からよく目にしてきました。」
「そうなんだ。」
「東田は、倫理観の発達が普通の人より三年ほど遅れています。幼少期に何か悪いことでもあったのかもしれませんね。行動が中学生とは思えないほど幼稚なのです。」
丁寧な言葉づかいで、岩井は随分なことを言った。ひょっとしたら、思ったことをそのまま口にしてしまう性格なのかもしれない。
「芳賀さんも芳賀さんで、病弱で学校を休むことが多かったためか、あまり社交的な方ではありません。それで友達がおらず、東田さんの行動を止める人も、あまりおられなかったのです。私だって、いつも芳賀さんの傍についていられるわけではありませんでしたので。」
最後の言葉は、まるで自分は東田の行動を止めなかったわけではないと言い訳しているかのようだ。実際、長年に亘って芳賀が苛められ続けてきたということは、岩井もあまり構わなかったのかもしれない。
「けれども――藤村さんが友人となられたからは、状況も変わられたんですよ? 藤村さん、普段は落ち着いておられますけど、結構義侠心の強いところがおありなので。クラスで孤立していた芳賀さんのことが、放っておけなかったのかもしれません。」
「――なるほどね。」
改めて、自分はこの町のことなど何も知らないのだと思った。もちろん転校してからまだ一か月程度しか経っていないのだから、当然と言えば当然の話ではあるが。
「そういえば、あの――東田君? だったかしら。彼がさっき、夜中に怪物が出るとか何とかって言っていたけれども、岩井さん、何か知ってる? 私は、居候している処の従妹から聞いたのだけれども。」
「ああ――まあ――」
岩井は、あまり喜ばしくない顔をした。
「犬だか人だか分からない獣がでてくるっていうやつでしょう? 最近は、よく噂されているみたいですよ? 上里のほうには、戦国時代に尼子氏と土豪の侍が戦ったという古戦場がありまして、そこの祟りだとか何だとかって話も聞きますけど。」
「へえ――。最近、っていうのは、いつぐらいから?」
「ここ、何週間かのことでしょうか。」
何かが引っ掛かった。
つまりは――美邦が引っ越して来てからではないか。
「いずれにしろ、このような話は慎むべきかもしれませんね。たとえ根も葉もない噂だったとしても、そのイメージが大勢の人に共有されれば、不必要な混乱や恐怖を煽るだけですので。」
美邦は静かにうなづいた。
「そうかもね。」
けれどもその古戦場については、冬樹が登校して来たときにでも訊いてみようかと思った。ひょっとしたら、これもまた神社のことと何か関わりがあるのかもしれない。
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