3 カウンセリングルーム

昼休憩――鉄筋校舎にあるカウンセリングルームへと美邦は向かった。


カウンセリングルームなど今まで利用したこともなかったし、そこへ行くこと自体が恥ずかしくも感じられる。しかし詠子が予約を入れたのだ。自分も付き添おうかと詠子は提案したが、当然ながら拒否した。


カウンセリングルームの前に立ち、ドアをノックする。


どうぞ――という声が聞こえてきた。


美邦は扉を開ける。


そこには落ち着いた部屋があった。


広さは教室の半分ほどか。ソファが二つと小さなテーブルが置かれている。ソファの上に、二十代後半ほどの女性が坐っていた。


少女のような大人だ――となぜかそう思った。


束ねられていないセミロングの髪と――白いワイシャツと紺色のスカート。まるで学校制服のような格好がそう感じさせたのかもしれない。


「大原美邦さんですか?」


はいと答えると、どうぞかけて下さいと彼女は言った。


勧められるがままに、美邦はソファへと腰をかける。


「臨床心理士の竹下です。――よろしくお願いします。」


竹下は軽くお辞儀をし、静かに微笑んだ。


それから立ち上がり、部屋の隅にあるポットからお茶を淹れた。


美邦は竹下からお茶を受け取った。緊張がわずかに和らいだ。美邦の手の平の中にある湯飲みは、じんわりと温かくて熱かった。


「大原さんに起こったことは、叔母さんからある程度は聞いています。ひょっとしたら、あまり思い出したくないかもしれませんが――大原さんからも詳しい話を聴かせてはくれませんか?」


ええ――と言い、美邦はうなづく。


由香が亡くなったときのことを、ぽつりぽつりと語り始める。


美邦の言葉を、竹下は丁寧に書き留めてゆく。


それが終わると、今度はシャルルボネ症候群のことや、家庭環境のこと、学校での人間関係などのことについても訊ねられた。


美邦は年上の同性が苦手だ。竹下は、その振る舞いも言葉づかいも大人の女性そのものである。しかし不愉快感はない。むしろ不思議なほどすらすらと言葉が出た。どういうわけか、年上と話しているという気がしない。


一通り質問を終えると、竹下は次のように問うた。


「大原さんは、シャルルボネ以外で今までに幻視や幻覚を見たことはありますか? 特に――白日夢のようなものを見たことは?」


「いえ――特に心当たりはありませんが。」


言ってから、ふと美邦は心当たりに気づく。


「あの――白日夢かどうかは分かりませんが、あったかもしれません。」


「――どのようなことですか?」


「あの――この町に来てから、まだ間のないころのことなんです。夢を見たんです――夜に。平坂町の、どこかも分からない処を歩いている夢なんですけど。」


美邦は、つい一ヶ月ほど前に夢から目覚めたときのことを語った。語っているうちに、今までよく思い出せなかった夢の内容は明確となった。自分は――そのときはまだ行ったこともなかったはずの踏切を訪れたのだ。


「それは――実相寺さんが亡くなったときに見た幻視と同じものだったということでしょうか?」


ええ――とうなづき、美邦は視線を落とす。


「記憶違いじゃなきゃ、そうだと思うんですけど。」


――そして。


目覚めてからは、部屋の中に何かがいるのを確かに見た。


ふむ――と言い、竹下はシャープペンシルの尻を唇の下に当てる。


「それは不思議な話ではありますね。まるで予知夢のようです。」


美邦は恥ずかしくなった。気が触れていると思われていそうで怖かった。


「もちろん――私自身にもなかなか信じられないんですけど。」


「信じますよ――私は。」


美邦は少し驚き、顔を上げる。


集合的無意識という考えがあります――と竹下は言った。


「人は心の奥深い部分――無意識の部分で全ての人々とつながっているという仮説です。友達同士だけで共有されている無意識があり、町の人だけで共有されている無意識もあります。偶然の一致とされていることも、実は個々人が集合的無意識を通じて起こしていることなのかもしれません。」


「私が見たものも――それと関係があるのですか?」


「あくまでも、そういう想像ができるのではないか――という話ですが。集合的無意識については、科学的にははっきりと判っていないのです。」


けれどもね――と竹下は続ける。


「私自身は、人間の心はつながっていると思いますよ。人間は偶然の中に生きているのではなく、人と人との関係性の中に生きているのですから。」


「そう――ですか?」


「少なくとも私はそうだと思います。何かおかしいものを見たとしても、なぜそれを見たのだろうと考えてゆくと、しっかりとした意味につながってくるのです。なので、他にもそういうことがあったのならば、何でも遠慮なく仰ってください。」


言われて、ふっと美邦は気にかかることが浮かんできた。


「この町へ来てから、何だか変な感覚を受けることがあるんです。その――あまり、関係のないことかもしれませんが。」


「いえ、構いませんよ。」竹下は軽く微笑んだ。「思いついたことは、何でも言ってくださったほうが助かります。」


「そう――ですか。」


それから美邦は、記憶にあるはずの神社が見当たらないことや、それについて調べていることを説明し始めた。話してゆくうちに、この町へ来てから気になっていたことが次々と口から出た。夜の闇が恐ろしく感じられることや、紅い燈台の姿が網膜から焼き付いて離れないことなども。


竹下はそれらに注意深く耳を傾け、ときとして何かを書き留めていた。


「それで――確かに大原さんの言うとおり、神社はあったのですね?」


「はい。けれども――大人の人達は、誰も知らないと言うんです。」


竹下は左手の薬指を頬に当て、しばし何事かを考え始める。


「確かに――大原さんの話を聴く限り――この町の人達が、神社のことを『知らない』と言うのは奇妙ですね。私はこの町のことについては詳しくないので、神社のことについては何も答えられませんが。」


「そう――ですよね。」


竹下は一旦ペンを置き、静かにこう言う。


「大原さんが体験された白日夢は、過眠症によく見られるものです。」


「かみんしょう――ですか?」


「簡単に言えば、眠りすぎる病ですね。起きているときや、歩いたり走ったりしているときでさえも、急激に眠り込んで夢を見てしまうのです。」


「私が――それなんでしょうか?」


「まだ分かりません。けれども、お父さんの死や引っ越しなどでストレスがあり、お風呂上がりで気持ちよくなっていたために、急激に眠りに落ちてしまった――という可能性が、考えられなくもないのです。」


「そう――ですか。」


「もちろんこれは、あくまでも可能性の一つです。もっといいのは、精神科のお医者さんにかかられることですが。――」


美邦は考え込んでしまった。


精神科の診察を受けることは少し抵抗がある。それは詠子にとってもそうだろう。だからこそ、スクールカウンセラーに診せるという妥協的な選択がなされたのだ。


「もちろん、精神科にかかることは敷居が低いとは言えません。」


竹下は少し悲しそうな顔をする。


「けれどもお家の人に話してみれば、理解をしてくれないことはないでしょう。叔母さんも、大原さんに何があったのか知りたいと思います。」


美邦は何も答えられなかった。


竹下はこう続ける。


「それでも難しい場合は、少し様子をみても構いません。――私は、火曜日と木曜日にこの学校へ来ることとなっています。よろしければ定期的にお話をしてみましょうか。家庭環境のことでも、学校のことでも、何でも相談していただいて構いませんので。」


「あ、はい。」


美邦はうなづいた。


「それならばできます。」


実際、美邦にとってはそちらのほうがありがたかった。


「それでは、定期的に――火曜日と木曜日にお話をしましょうか。」


これにも当然、うなづいた。


「それでしたら――ノートを用意していただけますか?」


「ノート、ですか?」


「はい。そこに、今までに感じてきたことや、今悩んでいることなどを、簡単でも構いませんので書き留めてみて下さい。そうすることによって、自分の気持ちを整理することもできると思います。」


なるほど――と思った。そうしたほうが、次に竹下と会うときも筋道だった説明ができるだろう。なので、やってみますと美邦は答えた。


時計に目を遣ると、昼休みは終わりに差しかかっていた。


それから竹下は、お勧めの精神科医についての情報を紙に書いて渡してくれた。もちろん、ここにかかるかどうかはまだ未確定であったが。

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