7 覚醒夢
美邦が不吉な噂を耳にしたのは、日曜日の晩のことであった。
そのとき美邦は夕食を摂り終え、居間で千秋と
台所からは、詠子が食器を洗う音が聞こえている。
啓は風呂に入っている最中だった。
引っ越してから何日かのあいだは、美邦は渡辺家の家事を手伝っていた。しかし、詠子は次第にそれを拒否するようになった。その気持ちは美邦も理解できる。会話をしても長続きしない、波長の合わない人物と長時間無言で一緒にいるのは正直なところ辛い。
「――ところでお姉さん、中学校のほうでも怪物の噂って伝わっとる?」
みかんの皮を剥きつつ、そんなことを千秋は口にした。
「怪物?」
「うん、何か今、すごい噂されとるだが。――夜歩いとると、犬みたいな、獣みたいなものに出会うって話なだけど。獣――っていっても、人の大きさくらいはあるんかな? 黒くって輪郭はよう分からんのだけど、
「いや――知らないけれども。」
美邦は思わず想像した――真っ暗な夜闇の中、発光ダイオードのような朱い光が二つ点るのを。獣のようだ――と言われても、そちらのほうはあまり想像ができない――何しろ輪郭は、夜闇に溶けて掴めないのだから。しかし、美邦の頭の中でなぜかそれは人のような姿をしていた。
「それでさあ――うちの学校にも、何人か見たって人がおるだが。クラスメイトの高橋君なんかがそれだけど。高橋君は浜通り沿いにある、古くて大きい家に住んどるだけど――夜中にトイレに起きたとき、窓の外に朱い光が、ちかーっ、ちかーって動いとるのが見えたって。何ていうか――海沿いを動いとったみたいらしいだけど。」
海辺という言葉が不安を掻き立てた。
言うまでもない。その「怪物」が平坂神社の寄神と重なったからだ。
不安を振り払うかのように美邦は反論する。
「それは、車か何かじゃないの?」
「クラスの子もそんなこと言とったけど――違うって。車だったらエンジン音が聞こえるはずだし、道路の上を真っ直ぐ動くだら? けれども、何かの動物みたいに、ゆらーっ、ゆらーって歩いとっただってさ。」
怪物の目が二つあるという点が気に掛かった。
平坂神社に祀られていた寄神は、一つ目の神ではなかったか。
「千秋、そんな話はやめんさい。」
台所から、詠子の不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「大原さんも、そんな話はさせなさんな。実相寺さんだって失踪しとる最中だってのに――。こんなときに――不謹慎な。」
「あ――」美邦はしばし唖然とする。「申し訳ありませんでした。」
詠子が美邦を「大原さん」などと呼んだのは、これが初めてであった。
そもそもこの話は、千秋が振ってきたものだった。それなのに美邦に対して怒りをぶつけるなど理不尽だ。やりきれない思いが湧いてくる。
とりあえず美邦は、学校の課題があるからと言って自分の部屋へ引き返していった。課題があるのは事実だったが、それ以上に、その場に居続けることが苦痛となりそうだったからだ。
部屋へ戻ると、真っ暗な闇が窓の外に写っていた。相変わらずの闇。遠くから微かに響いてくる潮騒は、何かがやって来る音のようでもあった。千秋から聴いたことを思い出し、そっとカーテンを閉じる。
風呂から上がったことを千秋が伝えに来るまで勉強に集中した。
一階へ降り、風呂へ入る。湯船には、髪の毛や垢などが浮かんでいた。疲れを癒せるようなものではない。それでも、自分の入れる風呂などこれしかないのだ。ゆっくりと長めに浸かった。
風呂から上がり、ドライヤで髪を乾かす。
とろとろとした眠気が浮かんできた。
気だるい足取りで、美邦は脱衣所から出る。
そんなときだ――足の裏の感覚が、微かな温かみのある板張りの床から、冷たいアスファルトのものへと変わったのは。
ひとけのない町を、どこへともなく美邦は歩いていた。
美邦は、自分が覚醒夢の中にいることに気づいていなかった。
冷たい空気が
ここは以前にも歩いたことがある。紅い布や、郵便局の位置も覚えている。菅野の家へ行くとき通った道だ。このまま真っ直ぐ行けば、駅へ辿り着くはずだった。目の前には踏切と遮断機もある。
突如として遮断機が耳障りな警鐘を鳴らし始めた。
これはまずいな――と、心のどこかで思った。それでも足取りは止まらない。唸るような機械音と共に遠くから汽車の灯りが近づいて来る。
美邦は遮断桿をまたぎ、踏切の中へと入る。
耳元では姦しい警鐘が鳴り響いている。
その音があまりにも
ここにいてはいけない――という意識が強まった。
白く強い灯りが急速に近づく。美邦は顔を上げた。
汽車が目の前にまで迫ってきたところだった。
美邦は跳ね飛ばされた――かのように思った。
しかし客観的に見た場合、それは居間の床の上へ倒れ込んだに過ぎなかった。それからしばらくの間、自分が汽車に跳ね飛ばされたわけではないことに美邦は気づかなかった。
「美邦ちゃん! どうした!?」
居間でくつろいでいた啓が近寄り、美邦の身体を抱き起す。
美邦は啓の身体へと抱きつき、激しく泣き始めた。
詠子もまた、心配そうな表情で近寄ってくる。
その場にいた者達にとって――美邦は脱衣所から出て来たところで、急に立ち止ったかのように見えた。その時間が妙に長いので、啓も詠子も少し不審に思った。美邦はまるで、魂が抜けたかのように突っ立っていた。それから唐突として悲鳴を上げ、倒れたのだ。
美邦の悲鳴で目を覚ましたらしく、二階から千秋が降りてきた。
そして啓にすがりついて泣く美邦の姿を目にし、唖然とした表情をする。すかさず、そんな千秋を詠子は怒鳴り飛ばした。
「あんたは寝てなさい!」
何時間か前に叱られたばかりの千秋は、委縮して二階へと戻っていった。
随分と泣きじゃくったあと、美邦はようやく冷静さを取り戻した。自分が汽車に跳ね飛ばされたわけではないことを、徐々に理解し始めたのだ。それでも死への恐ろしさは消えず、啓の胸から離れられなかった。
「美邦ちゃん――一体、何があったんだい?」
美邦の背中を優しく撫で、啓は問うた。
ついさっき起こったことを美邦は語り始める。ただし後で振り返ってみれば、それは全く容量の得ない言葉ばかりだった。それでも自分に起きたことを説明しようとしたことは、美邦の心を落ち着けることへ貢献した。
――あれは一体、何だったの?
まるで突発的に襲ってきた暴力のようだった。そしてその暴力の意味を、なぜだか美邦は薄らと感じることができた。
――由香。
冷静になるにつれ、断続的にその名前が頭に浮かんでくる。
――由香は、大丈夫なの?
ふと家の外が騒がしくなった。真夜中の平坂町は静まり返っているはずなのに、一、二人ほどの跫音と、掛け合う声が聞こえている。そして遠くからは、救急車のサイレン音が聞こえてきた。
詠子はカーテンを少し開け、外をうかがう。
「何だらあか?」
その言葉を耳にし、美邦は跳ね起きた。
「由香――!」
「えっ――?」
美邦は詠子にすがりつくように言う。
「由香なんでしょう!? 今のは!」
「美邦ちゃん、少し落ち着きんさい――」
詠子の言葉は美邦の耳には届いていなかった。
「由香が汽車に跳ね飛ばされたんです! それでみんな集まっているんじゃないんですか!? 違うのなら違うとそう言ってください――!」
詠子の平手打ちが飛んできた。
何が起きたか再び分からなくなった。ただ頬に強い痛みを感じていた。
またしても、両目からぼろぼろと涙が零れ落ちてきた。
おい、と啓は言い、詠子の腕を掴もうとする。詠子はそれを振り払った。
「いい加減にしなさいよ! こっちには小さな子供だっているんだから!」
静寂が訪れた。
美邦は涙を拭うこともなく、ただ呆然と突き立って泣いていた。
啓は、詠子がここまで激怒しているのを随分と久しぶりに見た。そうであるがゆえに、何も言えなくなってしまったのだ。負の感情をほとんど見せない、陽気ないつもの詠子とは別人のようにさえ思えた。
実際、詠子は冷静さを失っていた。
しばらくして、詠子もそのことに気づき始めたらしい。頬を紅く腫らして涙をだらだらと流す美邦の姿を目にして、さすがに可愛そうに思ったのだ。詠子は、今の傍らに畳んであるタオルの一枚を手に取ると、そっと美邦の涙を拭ってやった。
「美邦ちゃん、とりあえず今日は寝なさい。詳しいことは、明日にでも落ち着いて話しましょう。」
美邦は操り人形のように、こくりとうなづいた。
詠子は美邦の肩を抱き、二階へと連れてゆく。部屋へ着くと、詠子は布団を敷いて美邦を寝かしつけた。明かりを消し、詠子が出てゆくと、再び死への恐怖が湧き上がってきた。
どこか遠くからは、再び救急車のサイレン音が聞こえている。
――神祭りの夜は外へ出てはならない。
どういうわけかそんな言葉が頭の中に響いていた。御忌の日の夜、町民は家の中に篭って、震えて眠らなければならないのだという。その言葉はまさに、今の美邦の状態と同じではなかっただろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます