3 詠子の悪寒

午後の昼下がり、詠子は家で拭き掃除をしていた。


詠子はやや潔癖であった。台所はいつも新品同様に綺麗にしておかなければ気が済まない。そうでなければ気持ちよく使えないのだ。


ガスコンロの下から何かが飛び出てきたのは、そんなときだ。


それは、楕円形の黒い蟲であった。


詠子は驚き、飛びのく。


蟲は素早い動きでどこかへ消えていった。


詠子はしばらく呆然とたたずんでいたが、やがて腹立たしくなってきた。


――こんな季節になってまで、何で出てくるかねえ。


自分に手落ちがあるわけがない。台所はいつも熱心に掃除している。それなのに、なぜこんな不快なものが出なければならないのか。


詠子はリビングから椅子を一つ持ってくると、それを台代わりにして戸棚から殺虫剤と硼酸団子を取り出そうとした。


背後から何者かの気這いを感じたのは、そんなときだ。


詠子は思わず振り返る。


しかし、当然そこには誰もいなかった。


美邦も千秋も学校だし、啓も出勤している。今この家には詠子しかいない。そうであるにも拘わらず、何者かがいるように思えたのだ。


美邦が引っ越して来て以来、こんなことがよくある。初めは、家の中が何となく狭く感じられただけであった。しかし、やがて見ず知らずの何者かが同居しているような気がしてきた。


この間も、こんなことがあった。――


真夜中のことである。枕元で物音を聞いたように思い、詠子は目を覚ました。しかし、周囲を見回しても何もない。隣では啓が寝息を立てている。


気のせいか――と思い眼を閉じると、やはり廊下からかすかな跫音あしおとが聞こえた。忍び足のような音が部屋の前を通り過ぎようとしている。


こんな時間に起きてくるのは誰であろうか。


しかし、なぜだかそのときは美邦だと決めてかかっていた。無性に腹立たしくなり、音を立てないようにそっと起き上がる。


――居候の分際で。


文句を言ってやろうと思い、ふすまを開けた。


しかし廊下には誰もいなかった。


闇の中へ詠子は目を凝らした。


完全な暗黒というわけではない。何者かがいたなら簡単に判るはずだ。しかし、どう見ても廊下には誰もいない。怪訝に思っていると、忍び足のような音が闇の中から再び聞こえてきた。


誰もいない闇の中を跫音だけが階段のほうへ向かってゆく。


跫音はやがて階段を昇り、段々と小さくなっていった。


跫音が消えるまで、詠子は身体を動かせなかった。


詠子は襖を閉じ、速やかに自分の布団へと駈け込んだ。身体を丸め、背中を廊下へと向ける。布団の外に拡がる闇が異様なほど恐ろしかった。


恐怖はワンテンポ遅れてやって来る。廊下を覗いていたときは、暗闇から目が離せなかった。むしろ布団に包まったあとや、こうして昼間に思い出しているときにこそ悪寒を感じる。


――家鳴りだ。


家鳴りだったに違いない――詠子は無理にそう考えることとした。大の大人が、昼間からこんなことを思い出して怖がっているものではない。


詠子は戸棚から殺虫剤と硼酸団子を取り出した。


ガスコンロへと近寄り、その下の隙間に殺虫剤を噴射する。それから、黒い影の逃げ込んだと思われる隙間へも。気になりだすと、隙間という隙間が気に掛かった。詠子はそちらにも隈なく殺虫剤を噴霧していった。


そのあとでガスコンロを取り除けて掃除を行ったが、害蟲の死骸を見つけることはできなかった。

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