3 由香の目覚め

障子の格子模様が逆光で黒く浮かんでいた。


ここはどこだろう――と由香は思う。


広い和室に親戚中の人間が集まり、ご馳走を食べている。テーブルの上には色とりどりの海の幸が竝べられていた。しかし、どれも美味しそうには思えない。平坂町に住んでいれば、蟹だの刺身だのといったものは一年中でも食べられる。何より、まだ幼い由香の口に合わない。


つまらない思いで河童巻きを摘まんでいると、隣から声を掛けられた。


「ほら、貞君が来たで。」


顔を上げてみると、そこには絶縁して久しい本家の伯母の姿があった。


そして由香は思い出す。


ここは入江にある本家の二階だ。


そういえば今はお盆であったか――そんなことを考えていると、左隣に一人の青年が坐った。肩から上は見えなかったので、どのような顔をしているのかは分からない。けれども、何だか懐かしい感じがする。


「伯母さん、遅くなってすみません。」


いや、ええだけえ――と伯母は言った。


「そがなことよりな、由香ちゃん、貞君のこと待っとっただで? 由香ちゃんは、貞君に懐いとるけえな。今日なんかも、貞君は私の隣に坐るだなんて言うて、ここの席、確保しとったくらいだに。」


確かに、そんなことも言っただろうか。


ああ、そうですかと言い、彼はそっと由香の頭を撫でる。


「由香ちゃん、すまんなあ。お父さんも仕事であんま家におらんだらあに。寂しかったでないだか?」


思い出した――この人は貞夫お兄さんだ。由香は、ぱっと明るくなる。兄弟のいない由香の兄代わりをしてくれている従兄のお兄さんなのだ。


「貞兄さんがおるけえ、寂しくない。」


「そっか。」貞夫は口元をほころばせる。「蟹の身ぃ、剥いたろうか? 由香ちゃん、まだ上手に剥けんでない?」


「うん、剥いて。」


皿の上に盛られた蟹の脚へ貞夫は手を伸ばした。


その右手の小指は、第二関節から先がない。貞夫が幼い頃、港で遊んでいて、船に指を挟まれたために負った傷だという。


そういえば、貞夫はどんな顔をしていたのだろう。どういうわけか、由香は貞夫の顔を正視していない。いや――そもそも自分はいつからここにいるのか。貞夫の顔も、見ていないのではなくて、見られないのではないか。なぜならば――。


そこまで考えたとき、自然とまぶたは開いていった。


寝ぼけまなこに写ったのは、朝日の差し込む自分の部屋であった。目の前の大広間が消えたことに、ほんの少しだけ戸惑いを覚える。


由香は枕元にあるぬいぐるみを抱きしめた。


貞夫は――もう七年も前に亡くなっているのだ。


港の排水溝に、恐らくは誤って転落したのだという。最初は行方不明事件として騒がれていたが、しばらくして腐敗した遺体が発見された。


目覚まし時計に目を遣ると、起床時間である七時に差し掛かろうとしていた。寝過ごしてしまっても由香を起こす者など誰もいない。目覚まし時計を解除し、布団からのそのそと起き上がる。


身体が、妙に軽く感じられた。


頭がぼんやりとしているのは、寝起きなのだから仕方がない。それでも今日は、入るべき力がいつもより入らないような気がする。ただし、登校に支障をきたすほどではないため、大して気にも留めなかった。


寝間着のまま台所へ向かう。


台所は久しく掃除されていない。ゴミ袋はいくつか放置されたままだし、流し台には朱い苔がべったりとついている。


母は――もう帰って来ているだろうか。いや、帰って来ていたとしても分かるまい。夜の仕事をする母とは、起床時間があまりにも違っている。


父が事業に失敗してからもう五年ほど経った。


それからしばらくは肉体労働を行っていたようだが、今はもう辞めてしまい、酒浸りの生活を送っている。最近は、安い焼酎を水で割って四六時中ちびちびと呑み続けているようだ。今頃は父も、寝室で由香と同じく昔の夢を見ているのだろうか。


由香は食パンを一枚取り出し、トースターに叩き込んだ。続いて、電気ポットのスイッチを入れる。


インスタント珈琲の瓶を手に取ったとき、棚の上に放置されている食器の隙間から、さっと素早く動く影が目に入った。ほんの一瞬のことであったが、影は平べったい楕円をしていた。


由香は背筋が凍りつく。


まさかこの季節になって、あの大嫌いな蟲が現れたというのだろうか。


由香は人にも増して、あの害蟲が嫌いなのだ。それゆえ、あの蟲が出て来ないよう自分なりの工夫をしていた。夏の間は小まめに掃除をしていたし、隙間という隙間はガムテープで塞いでいた。前者よりも、後者のほうが効果的であって、出現数は年々、減りつつあるはずであった。


――隙間――。


途端に、食器の隙間や、冷蔵庫の後ろにある影が恐くなった。


この季節になるまで、どこに潜んでいたというのだろう。床下や下水に潜んでいて、まだ由香の知らない隙間から出て来たということだろうか。


由香は恐る恐る排水口を覗き込んだ。塞いでいない隙間で、思い当たるのがそこだったからだ。それでも、配水管が途中でS字型に湾曲していて、水の層ができていることは知っている。ならば、ここから侵入して来ることは無理だろう。


そう思った矢先だ。


排水口に被せてあるゴムの隙間から、髪の毛のように細い触角がちらちらと動いているのが見えた。それはまるで、こちらへ向かうための出口を探しているようでもある。


由香は、全身の毛穴が一気に開くのを感じた。


ごぼごぼと湯気を立て、電気ポットから湯気が噴き出す。


由香は素早くポットを手に取り、熱湯を排水口へ注いだ。それから、棚に重ねられた食器の上にも振り掛ける。台所はたちまち水びだしとなった。


一枚の皿を熱湯で念入りに消毒する。


その上へトーストを載せると、由香は自分の部屋へ引き返していった。この何がいるかも分からない台所で、食事を摂る気になれなかったのだ。

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