4 神社の跡地へ

一日の授業が終わり、美邦は由香と共に学校を出た。


雨はまなかった。


傘を差し、二人で中通りを進む。


日没までまだ時間はあるというのに、町は薄暗い。家々の軒先に垂らされた紅い布は雨に濡れ、血のように濃い色となっている。朽ちかけた廃屋や、シャッターの閉まった商店には、雨模様のせいで暗い影が落ちていた。冬樹の言うとおり、過疎化は確実にこの町を蝕んでいるらしい。


「ねえ由香、この町ってそんなに事故が多いの?」


「ああ、藤村君が言ってたこと?」


由香は困ったように微笑む。


「確かに事故は多いほうかな? 私が知っとるだけでも、二件ほど死亡事故が起きとるし。坂道や小さな路地が多いと、やっぱ危ないでない?」


「――そうね。」


「それに――こういうことを言うのもどうかと思うだけど――藤村君のお父さんも、自動車事故で亡くなっとるの。私の知っとる死亡事故のうち、一つが、藤村君のお父さんが亡くなった事故なんだけどさ。」


「――そうなんだ?」


「だからこそ、余計、心配になるんかもな。」


美邦は視線を下へ落とした。父親がいない点で、美邦は冬樹と同じだ。


伊吹と平坂の間には、鞘川さやかわという小川が流れている。川幅は狭いが、深い川だ。鞘川に沿って細い道路が伸び、中通りと交差している。


二人はその道を、東へ向けて歩いていった。


山地が近いため、道は上り坂となっている。


通行人は、二人の背後を歩く男性が一人しかいない。


やがて廃屋と思しき家が目立ち始めた。同時に、二、三体ほどの人影もまた現れる。廃屋の中に、家々の隙間に、道端に――。顔の向きから察するに、こちらを窺っているようだ。それに気づき、美邦は微かに震える。


「美邦ちゃん、どうしたん?」


由香に問われ、我に返った。


無意識のうちに、不安や怯えが態度として現れていたらしい。


「大丈夫? 何だか、不安さあな顔しとるけど――」


「いや――その――ちょっと、幻視があって。」


「ええっと、あの、シルクドソレイユ症候群ってやつ?」


言葉こそ間違っていたが、美邦の不安な気持ちを由香は察してくれた。


「手、つなごうか?」


「うん――」


しかし、両手は鞄と傘で塞がれている。


話し合った結果、相合傘をすることとした。美邦が傘を畳み、由香と同じ傘に入る。肩を寄せ合い、二人で同じ傘の柄を握った。


女同士で相合傘をしたまま、何分か歩く。


冬樹からもらった地図を取り出し、由香はたびたび道を確認した。


伊吹山のほうへ垂直に伸びる道がやがて現れた。段状の石垣に挟まれた細い上り坂だ。石垣の上には民家や畑などがあるが、いずれも荒廃している。恐らく誰も住んでいないのであろう。


坂道は伊吹山の山頂を見上げるようにして、三百メートルほど伸びていた。奥へ進むにつれ勾配は急になり、道幅も細くなる。問題の空き地は、そんな突当りにあった。


空き地の前で二人は呆然とたたずんだ。


山に喰い入るようにして空き地は拡がっている。広さはおよそ住宅二つ分ほどか。子供の背丈ほどもある雑草が一面に生い茂っている。その向こうでは、鬱蒼とした森が口を開けていた。


空き地を目の前にして、由香は困惑した声を発する。


「あそこが、神社の入口だったってことかいなぁ――? だとしたら、祀られとった神様も可哀想に。こんな――荒れ果ててしまって。」


美邦は森の入口をじっと見つめていた。


目の前の荒れ果てた風景は、十年という時の長さを感じさせる。それでも、ここには来たことがあるような気がした。同時に、何やら得体の知れない不安もある。襟足の冷えるような、脚の竦むような感覚が、靴の裏からじりじりと這い上がってきている。


「どうしたん、美邦ちゃん?」


由香から声をかけられ、美邦はまたしても我に返る。


「うん――いや、何でもない。」


「もう、美邦ちゃんったら、さっきから呆っとしとるで?」


そうかもしれなかった。中通りを南へ折れたときから、美邦の心の中には言い知れぬ不安が漂っている。そしてそれは、この空き地へ近づくたびに高まっていた。なぜだか、ここにいてはいけないような気がする。


遠くから時報のサイレンが聞こえてきたのは、そんなときであった。


地の底から唸るような鋭い音が、降りやまない雨の中に響き続けている。サイレンは十数秒間続いたあと、余韻を引き摺りながら退いていった。


「美邦ちゃん、もうそろそろ帰ろ。――藤村君も言っとったでしょ? 今日は雨が降っとるけん、暗くなるのも早いって。暗くなると、危ないよ?」


由香は、急に真面目な声となった。


「うん――そうだね。」


危ないよ、という由香の言葉が、何か切実なものを感じさせた。


相合傘を続けながら坂道を下ってゆく。――少し、早めの足取りで。


その細い坂道から出ても、人の姿は一つしかなかった。先ほど、二人の背後を歩いていた男だ。山のほうから、心配そうに二人を眺めている。


徐々に暗くなってきているためと、雨のせいで、通りの見通しは悪い。買い物帰りの主婦や、学校帰りの子供達の姿はどこにあるのだろう。雨が降っているからといって、平坂町はここまで静かな場所なのであろうか。


そんなことを考えていたときだ。


突如として、右耳の奥に刺すような痛みがはしった。


美邦は右耳を押さえ、前かがみとなり、立ち止る。スピーカーから聞こえるような、キーンという耳鳴りが響いている。


由香は、心配そうに声を掛けた。


「大丈夫?」


「うん、ちょっと耳鳴りが――」


そう答え、美邦は顔を上げる。


そして――。


ぐしゃりという――泥を踏むような音を聞いた。


ぐしゃり、ぐしゃりと、音は大きくなってゆく。


どうやらこちらへ向け近づいてきているらしい。


顔を上げると、黒い人影が遠くに見えた。


――幻視だ。


泥を踏むような音は、その影が発している。


しかし、幻視ならば音を発することはない。


隣から、見ちゃ駄目だよという、ささやくような声が聞こえた。視線を横へ流せば、由香は、美邦がいつもするように視線を落としていた。


「あれは多分、見ちゃ駄目なものなんだと思う。」


幻視ではないのか――と思った。


美邦だけではなく、由香にまで見えている。それでも、こちらへ近づいて来ているものは、美邦がいつも見ている人影と変わりがなかった。


由香の言葉に従い、美邦もまた視線を下へ落とす。それから促されるがままに、二人で前へ――音のするほうへ歩きだした。


耳鳴りはなおも消えない。右耳の奥がじんじんと疼く。


泥を踏むような音は、どんどんと近づいてきた。


やがて四、五メートルほど先に、黒ずんだジーンズが現れた。どうやら男性であるらしい。ぐしゃりと泥を踏むような音を立てるのは、靴の中に雨水が充満しているためであろう。


男とすれ違ったとき、男の白い手の甲が一瞬だけ視界をかすめた。藻のようなもののついた汚い水を垂らす手。小指は第二関節あたりから先が欠けている。それと同時に、微かな潮の臭いも感じた――沙浜に立ったとき、打ち寄せる波から漂ってくる濃厚な臭いだ。


それから泥を踏む音は、やがて背後へと遠のいていった。


男から離れても、二人はしばらく無言のまま歩き続けた。町はいよいよ暗くなろうとしている。家々の窓からは、温かい明かりが漏れていた。


中通りへと差しかかったとき、由香はようやく口を開いた。


「じゃあ美邦ちゃん、私は伊吹だけん。」


そう言い、由香は中通りの、中学校がある方向を指さす。


「うん、分かった。」


美邦は由香の傘から出て、自分の傘を開いた。今まで同級生の女子と身体をくっつけて歩いていたということが、急に恥ずかしく感じられる。


「けれども大丈夫? 一人でちゃんと帰れる?」


由香は、なおも心配そうに声をかける。


「うん、大丈夫。由香のほうこそ――」


「私は、もうすぐそこだけん。――気をつけて帰ってね。その右耳も、痛いでないの?」


「ああ、耳は――まあ。」


そのときになって美邦は、先ほどまで酷かった痛みが、不思議と消えていることに気づいた。あれほど強かった不安な気持ちも、綺麗さっぱり消えてなくなっていた。


「そっかー。じゃあ、また明日ね。」そう言い、由香は手を振った。


「うん、また明日ね。」美邦もまた、手を振り返す。


美邦は自分の家へ向け、とぼとぼと歩きだした。


空は暗くなる寸前であった。


歩幅は次第に大きくなり、駆け足となった。泥が跳ね、脹脛ふくらはぎへとかかったものの、とりあえず今は気にしない。平坂町を今まさに覆おうとするこの闇が、耐え難いほどに怖くなったのだ。


――お前ら、早めに帰っとけよ?


冬樹の発した言葉が、頭の中で反芻されていた。

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