7 別れの決意
昭が亡くなったのは、秋も深まろうかとする九月下旬の未明のことであった。ちょうど美邦が深い眠りに就いていたころ、心筋梗塞――腎不全に最も多い死因である――を起こしたのだ。
受話器を落としたあとのことはよく覚えていない。
とにかく病院へ行かなければならないと思った。しかし気もそぞろで何をしたらいいのか分からなかったのだ。やがて谷川がマンションへ現れて、美邦を病院へと連れて行った。
病室へ
目頭が熱くなってきて――そのあとは何も考えられなくなった。
美邦は周囲の大人に連れられ、病室の前の長椅子に坐らされる。
谷川や啓や、その他の人々が次々とお悔やみの声をかけてきた。
ただなされるがまま、病院から葬儀場へと美邦は連れてゆかれる。葬儀に必要な全てのことは、啓や、昭の同僚だった者達の手で進められた。そのあとは通夜室の片隅でじっとしているほかなかった。本当は、お悔やみを言われたり、美邦を気遣う言葉もあったりしたはずなのだが、何も覚えていない。美邦はただ泣いたり呆然としたりするしかなかった。
しかしそうであっても、明確に浮かんでくるイメージが一つだけあった。昭が葬られることとなる墓のイメージだ。
その晩は葬儀場に泊まった。通夜に必要なものは、谷川がマンションから持って来てくれた。幼いころから顔馴染なだけあって、余計な気遣いはいらない。
*
叔母と従妹が姿を現したのは、翌日のことであった。
美邦はほぼ一日中、通夜室で呆っとしていた。訃報を聞いたときに襲ってきた様々な感情は、その頃になるとすっかり
そろそろ日も落ちる頃のことである。
啓に連れられて、通夜室へ二人の人物が現れた――三十代も後半かと思われる髪の短い女と、小学生の女の子であった。
「美邦ちゃんの叔母さんの詠子と、娘の千秋だよ。」
啓からそう説明され、目の前の人物が自分の親戚なのだと気がついた。詠子と呼ばれた女性は、美邦のそばに腰を下ろし、そっと肩を抱き寄せる。見知らぬ女性にいきなり触れられ、美邦は僅かな不愉快感を受けた。
「美邦ちゃん――大きくなってぇ――。叔母さんのこと、覚えとらん?」
「あの――いえ、その――よく覚えてないです。」
美邦は顔を逸らし、そう答える。
「あら――そう――」詠子は少し残念そうな顔をする。「昔は叔母さんの処に、よう遊びに来とっただよ? それが綺麗になってぇ――。ほんと、夏美さんに似てきたわぁ――」
瞳に薄らと涙を浮かべ、詠子は美邦を抱きかかえる。
平坂町にいた頃の記憶はほぼないのだし、詠子は他人も同然だ。ここまで馴れ馴れしくされるのは迷惑だった。
「ごめんなさいね、あんまりにも久しぶりなものだから、つい――」
美邦から離れ、詠子はハンカチで目元を拭う。それから背後で呆然と彳んでいた女の子を引き寄せ、美邦に紹介する。
「この子は、美邦ちゃんの従妹の、千秋って言うの。ほら、千秋――こちらが大原美邦さん。お父さんのお兄さんの、娘さんだよ。」
初めて顔を合わせた千秋は、美邦が心を動かされるほど愛らしい少女だった。美邦の目元を気にかけてか、あるいは初対面の相手に戸惑っているのか、目の遣り場に困ったような態度を取っている。
「初めまして。渡辺千秋――です。」
「お――大原美邦です。」
千秋を前にして、美邦はやたらと慇懃にお辞儀をした。この目元に関して無縁慮な言葉をかけられたのは、主に小学生のころだ。それゆえ小学生は――少しだけ怖い。
「千秋は小学四年生だけど、歳が近いけん話も合うかも知らんね。」
美邦の気持ちなど露ほども知らない詠子は、そんな言葉をかけた。
*
それから四人は斎場の近くにあるレストランで夕食を摂った。話題は自然と、美邦の今後についてのこととなる。美邦が同居することについて、詠子も千秋も、何も問題はないと言った。
食後、啓は一枚のメモ用紙をテーブルの上に差し出した。
そこには、
「みくにをたのむ」
という文字が記されていた。
「美邦ちゃんのお父さんは、この紙を握りしめて亡くなられとった。」
美邦はメモ用紙を眺める。確かに昭の筆跡に似ている。
「これは――叔父さんに宛てたものでしょうか?」
「少なくとも――そのように思えるが。」
これが昭の残した唯一の遺書であった。
昭は始終、平坂町と親戚に対して冷淡であった。しかし、美邦を平坂町へ寄越したくないわけでは必ずしもないとも言っていた。その本音を、今さら覗いたように思った。無論、平坂町で起きたことに対して、明確な説明をする前に昭は逝ってしまったが。
「美邦ちゃん自身は、どう思っているんだい? 岡山を離れても大丈夫だろうか? それとも一度、町を訪れてから決めてみる?」
「いえ――構いません。」
美邦は珍しく、迷いなく意思表示をした。
「私はできれば、平坂町で、みなさんのお世話になりたいです。そこが――私の、本当の故郷ですから。」
美邦の言葉に、啓は少し驚いていた。
そして短く、そうか――と言った。
「お姉さん、寂しくはないんですか?」そう問うたのは千秋であった。「学校の友達とも、知り合いともみんな離れちゃうのに――」
大丈夫――と美邦は答える。そして啓のほうへ向き直った。
「叔父さん――父のお墓は、やはり平坂町ですか?」
そういうことになるねと言い、啓はうなづいた。
「大原家のお墓は、もう十年間も放置されている。今からそこを綺麗にして葬ってあげようかと考えている。お葬式のお坊さんも、大原家の宗派の人を呼んできた。少なくとも、岡山に葬るという計画はないよ。美邦ちゃんがそれ以外のことを望めば、話は別だけど。」
「是非とも――母と同じお墓に入れて下さい。父も、本当は平坂町へ帰りたかったのではないかと思います。けれどもそうなれば――私は――本当の意味で父と離れ離れになってしまいますから――」
話しているうちに美邦は自然と目蓋が熱くなってきた。つい先ほどまで凪いでいた感情が蘇ってきて、両目から涙が流れ落ちる。そんな美邦の背中を、詠子はそっと撫でた。年下の子供の前で泣いてしまったことが、少しだけ恥ずかしかった。
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