4 カフェテリア

翌日の午後まで誰も冬樹の見舞に来なかった。


十三時を少し廻った頃、美邦がやって来た。三つ編みを二つ垂らしたその姿を目にし、冬樹の心にはようやく安らぎが訪れる。


「藤村君――」


冬樹は顔を傾け、ああ、大原さんと言う。


美邦がベッドに近づいた。


「大丈夫なの? 身体の調子はどう?」


「あまりよくはないかな。とりあえず今は、身体にあまり力が入らないって感じ。――火傷は、あんま深刻じゃないんだけどね。」


冬樹は右腕を美邦に差し出す。手首から肘にかけて包帯が巻かれていた。


「右腕と、あと両脚の脛がこんな感じになってる。」


「――そう。」


美邦は悲し気な眼差しを、冬樹の前腕かいなへと向ける。


「クラスは今、どんな感じ?」


「分からないわ――。昨日から休校になっているもの。――けれどもみんな、落ち込んでいると思う。」


「そっか。」


それから美邦は、しばし何事かを考えるような表情をした。


「あの――藤村君。立てる?」


冬樹は首をかしげ、そしてベッドの傍らにある車椅子へ視線を遣った。


「歩けんこともないけれども――怠いし、安静にしてろって言われとるけん、移動するときは車椅子使っとる。」


「そう――。」


美邦は再び悲しそうな顔をする。


「実は、藤村君に会ってもらいたい人がいるの。私のお父さんの同僚の人なのだけれども。平坂神社のことについて話したいことがあるって。本当は病室へ連れて来ようかとも思ったのだけど、あまり大っぴらに話すことでもないから、一階にある喫茶店カフェで待ってもらっているわ。」


平坂神社と聞き、冬樹の食指は動いた。


「ああ、そうなのか? それなら――今すぐに行くけども。」


「よかった。」


美邦は立ち上がり、妙に慣れた手つきで車椅子を開いた。持ち手を持って冬樹のほうへ向ける。


「さ――乗って。その人の処には、私が案内するわ。」


冬樹は、気恥ずかしいような、申し訳ないような気持を抱く。しかし断るわけにもいかなかったので、勧められるがまま車椅子へ乗った。


車椅子を押され、一階のレストランエリアへと向かう。それは間違いなく幸福な時間でもあった。美邦以外であったならば、冬樹は自分で車椅子を漕いでいたであろう。けれども美邦を前にしては、どのような言葉も断れそうな気がしなかった。


しかしその幸福な時間も、ほんの短い間で終わった。


中庭に面した喫茶台カフェテリアへと入る。昼間でも、そこにはあまり人はいなかった。隅の席に二人の大人が坐っている。一人は、切れ目で顔立ちの整った壮年男性であり、もう一人は二十代後半ほどの女性であった。


二人の元へと美邦は車椅子を寄せる。


「すみません――待たせてしまって。」


美邦がそう言うと、壮年男性のほうは、いや、いいよと言った。


「藤村君、こちらは、お父さんの同僚だった谷川さん。」美邦は壮年男性のほうに手を向けた。続いて女性のほうへも向ける。「そしてこちらは、私がお世話になっているスクールカウンセラーの竹下さん。」


美邦がスクールカウンセラーにかかっているという話は聞いていた。しかし、なぜその人物がここにいるのか。冬樹は上目遣いを二人に向け、どうもと言う。美邦に車椅子を押されている事実が急に恥ずかしくなった。


「君が藤村君だね? 僕は、こういう者です。」


そう言い、谷川は名刺を冬樹へと差し出す。


名刺を受け取り、まじまじと見つめる。


そこには谷川遼一という名前と、彼の所属する企業の名前が記されていた。一応は土木事業の営業職であるらしい。しかし釈然としないものを感じる。平坂神社のことと、彼が美邦の父親の同僚であったということがつながらなかったからだ。


「私はスクールカウンセラーの竹下です。生憎、名刺は持っていませんが。平坂中学校には、週二日で来ています。藤村君のことは、大原さんからよく聴いていました。今まで――色々と大変なことがありましたね。」


そう言い、竹下は悲しそうな顔となった。


はあ――と言い、冬樹はうなづく。やはりこの組み合わせは分からない。


「藤村――冬樹です。その、失礼ですが――なぜスクールカウンセラーの方と土木業の方が一緒におられるのでしょうか? 平坂神社について、何か知っておられることがあると聞いたのですけれども。」


「あまり軽率に申し上げてもいけないのですけれどもね――」


谷川は声のトーンを低め、真剣な表情でこう言う。


「私の所属している企業は、企業としての実態はありません。実際は、主に土地に関わる特殊な調査と施術などを行っています。竹下さんもまた、本来の職業はスクールカウンセラーではありません。特定の児童を対象とした超心理学を専門とする臨床心理士なのですよ。」


冬樹は言葉を失った。話が明後日の方向へ飛んでいたからだ。


美邦のほうへと顔を向け、そうなのと問う。


しかし、美邦もまた意外そうな表情をしていた。


「初めて聞いたわ――そんなこと。」


「美邦ちゃんが知らなくても仕方ないよ。こんなことは家族にでも明かすものではないから。一体どこから秘密が漏れるか分からないし。」


冬樹はおずおずと訊ねる。


「あの――軽率に話してはいけないとは言いますが、それを僕達に言ってしまってもいいものなんでしょうか? 特殊な施術って一体何なんです?」


「まあ――そう急かさないで。とりあえずは、何か注文でも頼みましょうよ。珈琲一杯で長居するのも気が引けますからね。」


それもそうであった。


ウェイターを呼び、冬樹は珈琲を、美邦はレモンティーを頼んだ。


ウェイターが去ってゆくのを見計らい、谷川は再び口を開く。


「藤村君はご存知かと思いますが――どのような土地にも神様がおられます。人間は神様の持ち物である土地をもらい受け、その上に生活のための建設を行うのです。それゆえ土木工事や建築などの工事を行う前には、神様に土地の利用を行う許可を得るための地鎮祭が執り行われます。」


いや――と谷川は言う。


「神様ばかりではない。我々が立っているこの真下でも、千年や二千年前には何があったか分かったものではありません。墓があったのかもしれないし、何かの祭祀の施設があったのかもしれない。」


谷川は珈琲をすすって舌を湿らせた。


「――そしてそれらは、時として人々に多大な悪影響をもたらすこともあるのです。例えば藤村君は、T遺跡で起きた騒動のことをご存知ですか?」


「ああ――あの、市長が亡くなったってやつですか。」


美邦は不思議そうな顔を冬樹に向けた。


「何のこと?」


二千年頃に発掘された遺跡だよ――と冬樹は答える。


「確か、M市が病院を建てようとして発見されたでなかったかいな。そして建設予定地の丘を掘ったところ、弥生時代の遺跡が出てきたんだ。――丘の頂上が三重の壕で囲われた、他に例を見ない珍しい遺跡だった。」


冬樹は個人的に、その遺跡は祭祀の跡だったのではないかと考えている。


「そのときM市の市長は、遺跡を潰して病院を建設するつもりだった。勿論、遺跡を保存しろと主張する意見もあったけどね。」


それからすぐのことだ。


「それからすぐ――まずは病院建設賛成派の市会議員三人が亡くなった。そして病院建設を担当するはずだった建設会社の会長が亡くなり、続いて市長までもが亡くなってしまった。結局のところT遺跡は保存されることとなり、総合病院はその隣に建てられた。」


「それは――本当に起きたことなの?」


美邦の問いに答えたのは、谷川だった。


「ええ、藤村君が語ってくれたとおりですよ。むしろよく記憶しておられたなと思います。遺跡とは廃墟でもなければ、ただの学術調査の対象でもありません。――それを無視するからそんなことになったのです。」


言い終えると谷川は、冬樹の背後を一瞥し、急に口を閉ざした。


振り返ると、ちょうどウェイターが注文したものを運んで来るところだった。どうも、常に周囲を警戒しているらしい。


ウェイターが再び去ってゆくのを見計らい、谷川は続ける。


「我々の仕事は、そのようなことが起きないように、新たに開発する土地について調査したり、あるいは呪術的なことを施したりすることです。土地に関すること以外でも動くこともあります。時には日本の古い宗教と関わりのある行政機関や、民間法人――あるいは竹下さんのような、臨床心理士の方と連携しながら。」


何となく察しがついた。


日本国内において、宗教に関わる行政機関は一つしかない。となればその民間法人というのも、その官庁と関係のある処であろう。


そうであるからこそ、冬樹はなおのこと信じられなくなっていた。


「貴方がたが、その官庁や民間法人と関わりを持っているということを証明することはできますか?」


「今ここで証明しろと言われると難しい話ではあります。けれども竹下さんは、平坂中学校から直截雇われたスクールカウンセラーですよ? そんな彼女が隣にいるこの場で冗談を言うことができると思いますか?」


その言葉に、竹下もまた同意する。


「藤村君が信じられないのも分かります。けれど、谷川さんが言われたことは事実です。市内には、谷川さんの所属する企業や神社庁の支所があります。そこの方々に問い合わせれば、本当であると分かると思います。私が平坂中学校に派遣されたのも彼らの采配でした。」


冬樹は何も言えなくなってしまった。


谷川は挑発するような顔をする。


「そもそも藤村君は、平坂神社のことについて神社庁に連絡して問い合わせましたね? しかし知らないと言われた。――けれど、たとえ独立法人の神社であったとしても、あれだけ歴史のある神社を神社庁が把握していないなんてことがあり得るでしょうか?」


市役所にしろそうですよ――と谷川は言う。


「平坂町の中では――まあ、仕方のない部分はありましたがね。平坂神社の神様は、神社の存在を町民から抹消するくらいの力はありましたが、それだって限界があるのです。万能ではない。」


その言葉から、冬樹はもう一つ重要なことを察した。


「貴方がたは――まさか僕の家の電話を盗聴していたんですか?」


谷川は少し申し訳なさそうにうなづいた。


「プライバシーを侵害してしまい本当に申し訳ありませんでした。藤村君の家だけではなく、美邦ちゃんの家の電話も盗聴していました。それどころか、二人の行動はたびたび尾行させてもらいましたよ。気づいていたのは、どうやら菅野のお爺さんだけのようでしたけどね。」


冬樹は溜息を一つ吐く。


「僕にヲナリ神のことを電話で伝えたのも、貴方がたですか。」


「はい。――というより、あの電話をかけたのは私自身ですよ。」


「一体――なぜそんな回りくどいことを? 神社庁の方も、平坂神社なんてないと仰っていましたよね? 真実を伝えたかったのであれば、最初から、大原さんに全て打ち明けていればよかったんじゃないですか?」


「それを話しに来たのですよ。」


そう言って谷川は、珈琲を一口だけすする。


「平坂神社は歴史の表舞台に立たず、延喜式にも名前は載っていなかった。けれどもその特殊性と独立性を維持しているという点においては、看過みすごせない神社でもありました。独立法人と言えども神社庁と交流を持っていたし、我々とも少なからず関係を持っていた。実際、神祭りの日には、神社庁の職員が雅楽の演奏などを手伝いに派遣されていたのですよ。」


それから一息ついて、さらにこう続ける。


「十年前――神社庁県支部のほうに、大原さんのお父さんから相談があったそうです。当時、既に大原糺さんは亡くなられており、宮司は大原昭さんが継いでおられました。――大原昭さんは、何者かが真夜中に家に侵入して来ている・そしてそれが、自分の身体を盗んでいるようなのだという相談をされたそうです。実際、そのとき昭さんは、既に片方の腎臓を含む、いくつかの臓器を失っている状態でした。」


ちょうど今の藤村君のようにね――と、谷川は含んだように言う。


「これは言うまでもなく、ただならぬ事態でした。それゆえ神社庁のほうでは、神籬かんなぎの方を平坂町に派遣して、何事が起ったか調査する予定だったのだそうです。しかし、その矢先でした――大原家で火災があったのは。不幸中の幸いと言うべきか、美邦ちゃんはその何日か前に高熱を出し、病院に運ばれていて無事でしたけどね。」


ちょうど、この病院だったそうですよと谷川は言う。


それを受け、美邦は何やら納得したような表情をしていた。何か、心当たりのあることがあったのだろうか。


「火災によって、残念ながら美邦ちゃんのお母さんは亡くなってしまわれました。けれども、そのことにより神社庁は、異常なことが起きているということに気づかざるを得なかったのです。ひとまず昭さんと美邦ちゃんは神社庁に保護され、平坂町に対する調査が行われました。それには、我々の仲間もまた参加しました。」


しかしその調査の最中、調査員の乗った車が、平坂町伊吹で断崖に追突して大破した。乗っていた調査員三人は全員が死亡した。これが冬樹の調べてきた、十年前の六月一日に起こった自動車事故である。


「全く迂闊なことでした――平坂神社に災厄をもたらした存在は、宮司の家を燃やしてしまうほど強い力を持っていた存在なのです。いや、そうであるがゆえに、我々も霊的に身を守っていたはずでした。けれども相手は、そんなものが全く意味をなさないほど力の強い存在であったわけです。」


確かに、そのようなことが起きても不思議ではない。つい先日も、列車が脱線したり、校舎がほぼ全焼したりしたばかりだ。


「やがて町民は平坂神社の存在を忘れてゆき、神事に参加しておられた方々も次々と不自然な亡くなり方をしてゆきました。」


そうして平坂神社の存在は、町から消し去られた。


「一体何が起きているのかは分かりませんでしたが、何者かが神社の存在を抹消したがり、また、そのことについて調査している者や、神社について詳しく知っている者を次から次へと粛清しているらしいことだけは明らかでした。そうであるがゆえに、その存在から気づかれないよう我々はできるだけ慎重に行動する必要があったのです。もしそうでなければ――築島先生のようになりかねなかった。」


谷川のその言葉に、美邦は何か気がついたような顔をする。


「築島先生も――谷川さんの仲間だったんですか?」


「仲間と言うよりかは――協力者と言ったほうが正確ですね。町民の方々は神社の存在を忘れてはいましたが、思い出させることは可能でしたから。協力して下さる方もいましたが、積極的な協力を拒否する方も当然ながらおられました。前者は築島先生や渡辺家の方々で、後者は鳩村先生などです。鳩村先生が異常な行動を取りだしたのは、神社の存在を思い出したあとで、再び忘れてしまったからでしょう。」


――町のこと教えとらんの、本当だっただな。


美邦は、大して驚いたような顔はしなかった。恐らくは半ば分かっていたのだろう。


「勿論、美邦ちゃんを預かるということは、同時に危険に晒されるということでもありました。小さなお子さんもおられるのに、よく承諾して下さったと思います。ただし我々としても、特殊な呪術を施したお守りを渡すなどできる限りのサポートは致しましたが。ほら――藤村君たち、いつだったか、築島先生からお守りを渡されたことがあったでしょう? あのお守りも、我々が作ったものですよ。」


お祓いをしたついでにもらってきたお守りのことか――と冬樹は思う。あのとき築島は、本当は出雲などへは行っていかなかったのだ。


ずっと黙っていた竹下が口を開いた。


「築島先生は、本当は神社のことについて口にしてはならなかったのです。そんなことをしたら、命の保証はないと伝えられていたはずです。――これは藤村君を責めているのではありません。藤村君から神社のことについて問われたとき、白を切ることは充分にできたはずですから。それでも藤村君に対して協力の姿勢を取ったのは――築島先生が、町をこのままにしておいてはならないと考えられていたためでした。」


「そう――でしたか。」


冬樹は、今さらながら築島に相談したことを後悔した。しかしながら、築島も覚悟の上だったということなのだろうか。


「――しかし我々が作ったそのお守りも、あまり効果はないようでした。」


谷川は残念そうな顔をする。


「平坂神社の神様というのは、それくらい厄介な存在なのです。我々が藤村君となかなか接触できなかったのは、それゆえです。ましてや、このようなことを藤村君に打ち明けてもいいかどうかも不明でした。」


冬樹はそのことに一応は納得する。ただし、なぜ美邦が今までそれを知らされてこなかったのかは分からなかったが。


「このころになると、平坂町に災厄をもたらした存在が寄神であろうとは我々も推測するようになりました。しかし、なぜそのようなことが起こったのかは分からなかったのです。平坂町の歴史や、土地の形状、風水、近年に起きた事故や工事なども、徹底的に調べられました。しかし、それらに原因があるようではなかった――。神薙の方々の言葉を借りれば、神様はいるのと同時に、いないように感じられていたそうです。」


確か美邦も、全く同じことを言ってはいなかったか。


「それはちょうど、神が依り代に隠れているときと似ていたそうです。」


「そうなんですか?」


「ええ。恐らく神様は、神送りの儀式が何らかの理由によって失敗して常世の国へと帰らなかったのです。では、なぜ神送りの儀式は失敗してしまったのか――。それは儀式を行ったとき、平坂神社の御神体に神様がおられなかったからだとも考えられます。何者かが、別の依り代に神様を隠してしまったのです。現在、神様がおられるのは、その依り代の中です。」


「そのようなことが、できるのですか?」


「できませんよ、普通ならば。――平坂神社の境内というのは、稀にも見ないイヤシロチだ。すなわち神様を祀るために、この上もないほど適した場所なのです。終戦後すぐのこと、平坂神社に賽銭泥棒に入った奴が石段から転がり落ちて死んだという例もある。もし平坂神社に不届きな真似をしようとする者がいれば、同じ目に遭うでしょうね。」


「しかし、それをやった奴がいるかもしれないんでしょう?」


「はい――そのとおりです。もしそんなことができた奴がいたとしたら、言うまでもなくただ者ではありませんね。尋常ではない能力を持ったシャーマンとか、呪術者だということになる。厄介な話だというのは、そういうことです。つまり平坂神社に祟りをもたらした存在は、神様というより、その呪術者なりシャーマンなりかもしれない。映画とか漫画とかに、よく式神っていうやつがでてくるでしょう? そんな具合にして、神様をいいように遣っていた奴がいるかもしれなかったのです。」


あるいは――と谷川は言う。


「偶然にも、波長が合ってしまった人なのかもしれませんね。」


波長ですか――と美邦は問う。


これに答えたのは竹下だった。


「シャーマンが霊や神の声を聴くのは、ラジオが電波を受信することとほぼ同じです。――例えば何の変哲もない屑鉄でも、異なる金属が重なり合えばラジオの検波器となることがあります。空き缶にクリスタルイヤフォンを結んだだけで、なぜか異国語のラジオ放送を聴くことができた――などという話もあります。それまでシャーマンとして経験のなかった者が、覚醒したときにとる異常行動のことを巫病といいます。」


すなわち、由香が亡くなったときに美邦のとった行動がこれに当たる。


「つまりは突発的な事故と同様に、偶然にも波長が合ってしまった方がおられるかもしれないということです。そういう場合は、呪術者が神様を操るのではなく、神様がシャーマンを操っているような状態となります。低級な例で言えば――いわゆる狐憑きだとか、精神疾患者の言動とされているものがそれですけれども。」


谷川は再びしゃべりだした。


「ともあれ、原因が判らないうちは、大原さん達を平坂町に置いておくわけにはいきませんでした。それどころか、市内でさえ安全かも分からなかった。――大原さん達が岡山へと引っ越したのは、そういうわけでした。」


美邦は再び疑念を差し挟む。


「それなのになぜ――谷川さんは今になって、私を平坂町へ帰したんですか? 私が平坂町へ引っ越すことによって、何が起きるのか――谷川さんには予想がついていたように思うのですけれども。」


美邦の言葉は、暗に谷川を非難しているようでもあった。もし美邦が平坂町へ引っ越さなかったのならば――恐らくは、ここまで人死にが出ることもなかったのだから。冬樹でさえも、酷い目に遭わずに済んだはずだ。


「美邦ちゃんは、帰るべくして帰って来たのですよ。」


そう答えると、谷川は急に憂鬱そうな表情となった。


「自覚しているとは思いますが――美邦ちゃんにはシャーマンとしての資質があります。それが判ったのは、ちょうど美邦ちゃんの実家が全焼したとき、美邦ちゃんに『御印おしるし』が下ったためでした。」


美邦は咄嗟に、自分の左眼へと手を遣った。


釣られて冬樹も、自分の右眼へ手を遣る。左眼を失った者と右眼を失った者――。両者が両者とも、鉛色の真珠のような瞳をしている。


「十年前――美邦ちゃんは高熱を出し、この病院へと入院しました。病名は視神経炎でした。美邦ちゃんが失明したのはこのときですが――奇しくもそのために、火災に巻き込まれずに済んだのです。」


やはり片目の失明は、シャーマンとなるために必要なことであったのか。


「平坂神社に何が起こったのか、そもそも何が原因であったのか――調査は難航しました。しかし美邦ちゃんに『御印』が下ったことは、それが平坂神社の祭神であることを暗示していたのです。我々も、平坂神社の神様に一つ目や隻眼の伝承があることは把握していましたから。古代――生活が祭祀と密接していたころ、神主いはいぬしは隻眼の方が勤められていたのです。あるいは逆に、神主となるべき方が、片目を失明する場合があったものと考えられます。我々は、それを『御印』と呼んでいます。」


「つまり大原さんを、当屋に立てろという神様からの命令ですか?」


「そのとおりです。」


「その――御印を下した神様というのは、平坂神社の神様?」


「いいえ。もっと畏れ多い存在ですよ。それについては、今はあまり詳しく語るだけのことはできませんけれども。」


そこまで言い、谷川は一息吐く。さすがに先ほどからしゃべりっぱなしで、少し疲れたらしい。珈琲を一口すすり、再び口を湿らせる。


「こう言っては何ですけれども――昭さんが亡くなられたのは、美邦ちゃんを庇護する使命を終えられたからなのだと考えられます。」


美邦は少し怪訝な顔をした。しかし驚いているというほどでもない。


「昭さんは、内臓を幾つか失い、または火災に巻き込まれることがあっても、結局のところ今年の秋まで生き長らえました。しかしながら、平坂神社の神様であれば、昭さんの命を奪うことくらいは簡単であったはずです。それは、藤村君にしろ同じです。」


冬樹には、谷川の言わんとすることはすぐ理解できた。


「ええ。本当に殺したいのであれば、わざわざ命に別状のない臓器から抜いてゆく必要はありません。真っ先に心臓を抜き取ってしまえばいい。」


「まあ――そういうことですね。その右眼が失われたことも、平坂神社の神様に盗られたからではありません。美邦ちゃんが今まで直截的な被害を受けることがなかったことと、同じ理由です。」


冬樹は谷川から目を逸らす。いくら何でも、自分の目に現れた障碍について遠慮なく語られるのは、あまり気持ちのいいものではない。


「僕が『守られていた』のは、やはり頭屋となるべきだからでしょうか? 神送りの儀式を行う役割があるから――」


「藤村君の考えているとおりで間違いはありません。男性の頭屋となる候補は、こちらで用意していましたが、その必要はなかったということですね。『御印』の下ったことこそ、まさにその証拠です。平坂町で起きた異変に対する対処は、我々の意思とは別に進んでいるかのようです。もちろん、神送りに必要な準備は、我々が全て取り計らいますが。」


そこまで聞き、再び美邦が口を開いた。


「なぜ私には、今まで平坂町や、平坂神社のことについて知らされていなかったのでしょうか? もし知らされていたのであれば――ここまで、被害が出ることもなかったのではないかとは思うのですが。」


美邦の言葉に、谷川は詰まった。そして、ちらりと竹下へと目を遣る。どうやら二人のあいだには、何かしらの役割分担があるようであった。


少しばかり考えてから、竹下は次のように説明する。


「幼いころから、あまり一般とは異なった価値観を持たせてしまってはいけないからです。それに、当屋となるべきかどうかも、大原さん達の自由意思に基づかなければならないのではないかと考えました。それに、神様に対しては、我々の存在を気づかせない必要がある。啓さんが我々の協力者であることを、神様に知られてはならなかったのです。そのためには、あえて知らせるべきではないという判断が下されました。」


竹下の説明は、言うまでもなくぎこちなく感じられた。


というより、そんなものがただの詭弁でしかないことを冬樹は知っていた。なのでここでは、敢えて深くは追及しなかった。実際、美邦も不審そうな表情を向けつつも、質問を続けるようなことはしなかった。


「平坂神社で異変が起こって以来、我々はその原因を持続的に調査してきました。神様がどこにおられるのかも、ずっと探ってきたのです。しかし現在に至るまで、詳しいことは分かっていません。」


その言葉を、冬樹は意外に思った。


「そうだったんですか?」


谷川はやや苦い顔となる。


「先ほども言ったとおり、神様は現在、何か安定した依り代に隠されているものと考えられています。暗闇の中から明るい場所はよく見えますが、明るい場所から暗い場所はよく見えません。神様を見るということは、そういうことなのです。そもそも、我々が平坂町へ潜入して何らかの調査をするということ自体が、既に危険なことでもあります。」


冬樹は肩を落とす。自分よりも長く平坂町で起きた異変について調べている者ならば、既に何かを掴んでいるのではないかと思っていたのだが。


「けれども美邦ちゃんにならば、恐らくは暗闇が見えるのではないかと考えています。平坂町での出来事は、恐らくは我々の意思とは関係なく、何らかの予定調和によって進んでいるのでしょう。そうであるがゆえに、美邦ちゃんばかりではなく、藤村君にも『御印』が下ったのです。これは今年中に神送りを行えという、神様からの託宣でしょう。」


その言葉が、冬樹は少し気にかかる。


「今年でなければならない理由が、何かあるのですか?」


「そのへんは、私達にも分かりませんよ。けれども――今年じゃなければならない理由というのは、確かに何かあるのではないかと思います。あるいは、美邦ちゃんが当屋とし申し分のない年齢に達する必要があったのかもしれない。そのことを調査するために、竹下さんも中学校へと派遣されたのです。」


竹下もまたうなづく。


「シャーマンというのは、一種の超能力を持った人たちです。神様がどういった理由で大原さんを当屋に据えたのかは分かりませんが――そのような人達は、そうそう現れるものではありません。大原さんはどうやら、潜在的なESP――超感覚的知覚の持ち主であることは明らかです。訓練を重ねてゆけば、思いどおりのままに、自分の見たいものを見ることも可能ではないかと思われます。」


美邦は少し不安そうな顔をする。


「私なんかに――そんなことができるんですか?」


「今はまだ、その能力が研かれていないだけですよ。けれども実際、大原さんはこの町へ来てから、今までにはなかった、新しい感覚が芽生えてきていることに気づいているのではありませんか? 大原さんの書いてきて下さったノートからは、そのことが端的に読み取れるようでしたが。」


「美邦ちゃんの書いてきたノートは、私達も拝読させてもらいましたよ。」


谷川は同意して言う。


「海の向こうから何者かが呼んでいる夢も、あるいは神祭りに携わったと思われる夢も、全て読ませてもらいました。この姉妹が何者であるのか、我々のほうでも調べさせてもらっているところです。」


美邦はしばし黙ってから、確かにそうかもしれませんと言った。


「この町に来てから――私は、酷く昔のことを思い出すことがあるんです。多分それは、私が生まれるよりも、遥か昔のことなのではないかと思います。それと同時に、神社のことを放っておけば、何か大変なことが起きるような気がしてきたんです。今までに見なかったものや、奇妙な夢も見るようになった。」


しかし冬樹は、谷川の言葉から白々しいものを感じていた。


「というより――谷川さん、もう判っとるんでないですか? 聞いたところ、大原さんが書いてきたノートは、竹下さんを通じてそちらに横流しされていたように思えますが。妹が平坂駅付近の踏切で亡くなった当屋など、そうそういないのでは?」


谷川は苦笑した。


「まあ、少し待ってくださいよ。物事を話すのにも順序というものがありますし、確認しなければならないこともあといくつかありますから。」


そして、珈琲カップに残った黒い液体を飲み干した。


「どうあれ、神送りは行われなければなりません。これは平坂町に住む人達の安全を守るというだけの話ではなく、神様の意思のようなのですから。そのためには、美邦ちゃんにも藤村君にも、祭儀に携わることを一通り覚えてもらう必要があります。時間はあまりありませんし、藤村君は病み上がりでしょうが――あまり難しいことではないので。」


「分かっていますよ。ずっと前から覚悟していたことです。」


そう言い、冬樹もまた珈琲を一口すすった。そして言う。


「神にされるんでしょ、僕ら。」

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