7 冬樹を好きなのは
十二月一日月曜日――渡辺家の玄関から出ると、冷たい風が吹きつけた。
中通りを学校へ向けて歩いてゆく。
いつもの場所には、いつもどおり人影が
そして、それが今日は不憫に感じられた。この町に溜まっている「澱み」のような気がしたからだ。彼らは、一体いつまでこの地に縫い留められているのだろうか、と――ふとそんなことを思った。
恐らく心のどこかでは、これが脳の誤作動であるとは信じていなかったのだ。神社から感じられる不思議な気持ちも同じだ。ただ昭から「科学的な」説明を与えられていたので、そう解釈していたにすぎない。もっと言えば――昭は、そう解釈するように強要していたのではないか。
学校へ着いた。
教室は通夜のように静まり返っていた。
クラスメイトは美邦へと目を遣ると、わざとらしく目を逸らした。全員から無視されることは、全員から注視されることと同じであった。
ただ一人、教室の中から憎悪の視線を向けている者がいる――笹倉だ。その顔色は、先週にも増して悪くなっている。
自分の席へ着くと、そこにはやはり落書きが施されていた。
岩井は美邦などいないかのように読書に集中している。先週までは、岩井だけは必ず声をかけてくれたものだが。たとえそれが、建前のものであろうとも。しかしとうとう、その岩井からも無視されてしまった。
美邦はいつもどおり、保健室へと消毒用エタノールを借りに行った。
しかしこの日、養護教諭はよい顔をしなかった。どうしていつも落書きをされるのか、なぜ教師に相談しないのか、本当に落書きをされているのか――などと執拗に質問した。美邦はありのままのことを正直に答えたが、エタノールは貸してもらえなかった。あまり保健室の備品を持ちだすな――とのことであった。
失望に暮れつつも、とぼとぼと教室へ帰る。
始業時間の直前となり、冬樹が登校して来た。
それからすぐに予鈴が鳴り、鳩村が這入っていた。
午前中の授業のあいだ、美邦はその落書きされた机と共に過ごした。休憩時間、養護教諭がエタノールを貸してくれないことを説明すると、冬樹はとても驚いていた。保健室に抗議しに行こうともしていたが、落書きに対してあまり腹の立っていなかった美邦は、それを止めた。
それに、どうせ冬樹が行ったところで、養護教諭が動じるとも思えない。
給食時間が終わり、昼休みへと入る。
美邦は冬樹の目を盗み、一人で図書室へと向かった。
別にそこに用事があったからではない。給食時間が終わったあと、真っ先に教室から出てゆく者の姿を目にしたからだ。このところ昼休憩となると、彼はいつも図書室で孤独な時間を過ごしている。なので今日は、そのあとを追ってみることとしたのだ。
図書室は暖房が効いており、校舎の喧騒からも隔絶されていた。
彼はその窓辺に坐り、むっつりとした表情で本を読み始めた。それが柳田國雄の『遠野物語』であることに、美邦はいささか微笑ましさを覚える。
「芳賀君。」
美邦が声をかけると、芳賀は顔を上げ、警戒の色を浮かべた。
「最近はいつも一人で図書館にいるのね。」
途端に芳賀は、恐ろしく不愉快な表情となった。
「読書の邪魔せんでくれ。」
ぶっきら棒に言うと、芳賀は再び紙面へと視線を落とす。
「下駄箱に手紙を置いたのって、芳賀君でしょ?」
芳賀は何も答えなかった。ただ黙りこみ、ページへ顔を向けている。けれどもその視線は、既に活字を追っていなかった。
「別に、ここで話し続けてもいいのだけれども、じきに藤村君がやって来るかもしれないわ。彼には知られたくないでしょう? ――どうする? 私の机に落書きをしたことや、郵便受けに生ごみを入れたことも話す?」
芳賀は踌躇うような顔を見せた。やがて本を閉じ、分かったよと言う。
「移動しよう。ひとけのない処を知ってる。そこなら藤村君も来んだら。」
芳賀に連れられるがまま、美邦は図書室を出た――暖房の効いた部屋から、隙間風の通る廊下へと。そして渡り廊下を渡り、体育館の裏側へ連れて来られた。すぐ隣にはプールが接している。
「一体、どうして判った?」
芳賀のその声は、白い吐息となって虚空へと消えた。
「最初に私が気にかかったのは、下駄箱に入れられていた手紙よ。」
――実相寺が亡くなったのはお前のせいだ。責任をとれ。
「私は最初、この手紙の意味が分からなかったわ。けれども今から考えれば、それは平坂神社と関係があったのね。平坂神社や神祭りに関わってきた人達は、十年前から次々と亡くなられているのだから。けれども手紙が投函されたとき、そのことについて知っている人は、神社のことについて調べている私達くらいしかいなかったのではないかしら。」
すなわち、冬樹、幸子、芳賀の三人である。
「そしてその中で、最も可能性が高いのは芳賀君だわ。」
「一体、どうして?」
「だって、藤村君にはやる理由がないもの。そして、幸子はその前日から由香が亡くなったショックで休んでいたじゃない。」
芳賀は、再び押し黙った。
「そして、ドアと机にされていた落書きは全く同じものだったわ。となれば、ドアに落書きをした人も生ごみを入れた人も、この学校に通っている人になるはずよ。紅い線で書かれていたというところも同じだったし、下駄箱に手紙を置いた人と同じかもしれない。そこまで考えたとき、築島先生が亡くなった朝のことを思い出したの。」
あのとき美邦は、中性的な声をした若い男性の悲鳴を確かに聞いたのだ。
「築島先生が亡くなった日、芳賀君は玄関にまた何かしようとしたんじゃないかしら。けれど、築島先生の遺体を発見して驚いて引き返したの。あのとき聞いた悲鳴は、よく考えれば芳賀君のものだったと思うのだけど。」
無論それは、あとから考えればそう思えたという程度の話だが。
「そして芳賀君は、神社のことについて関わってきたなかで、最も遠い感じがしていた。芳賀君の視線は、いつも藤村君に向けられていたもの。」
冬樹と芳賀が二人でいるときの姿は、まるで一枚の絵のようだった。積極的に会話をしたり笑ったりしているわけではないが、二人のあいだに奇妙な関係が築かれていることは明らかであった。そこへ美邦が闖入したとき、冬樹に変化はなかったものの、芳賀の表情には陰りが差していた。
芳賀はしばらく何も言わなかった。半開きにした口から白い吐息が漏れていた。寒さのためか、いつもは生白い彼の顔色がやや紅潮している。体育館から、スポーツに勤しむ生徒達のかけ声が迫った。
「大原さんの言うとおりだよ。」
そして、ふーっと長い息を吐いた。
「前から訊きたかった――大原さんは、僕と同じなのか?」
その言葉に、今度は美邦が戸惑う番だった。やがてそれは、芳賀が冬樹に対して抱いているであろう感情のことだと気づく。
「――好きなの? 藤村君のことが。」
「僕が訊いとるんだけど。」
美邦は何も答えられなかった。ただ、小首をかしげる。
冬樹が特別な存在であることには間違いはない。それは、出会ってまだ二か月程度しか経っていなくとも充分に分かる。しかし、それがいわゆる恋愛感情に当たるものかどうかと言われれば、違うような気がする。
芳賀は当てが外れたような、少し残念そうな表情となる。
「藤村君の周りに集まるのは、いつも弱い奴だ。実相寺も古泉も、クラスメイトとはあまり馴染のない奴だったし、僕はといえば、藤村君が友達になってくれるまで、散々な扱いしか受けとらんかった。」
その表情は、次第に悲しそうなものへと変わっていた。
「いつだったか、僕が他のクラスの奴にどつかれとったことがあったが? 中学に上がるまで毎日があんな感じだった。女子も――例えば岩井なんかも――ゴミでも見るような目を遠巻きに僕に向けとった――」
美邦の脳内に、岩井の冷徹な表情が浮かんだ。まるで、自分はいつも中立を保っていたとでも言わんかのような表情が――。
「藤村君が僕のこと助けてくれたんは、東田の存在が性に合わんかったからかもしらんね。それと、入江小の生徒だったけん、事情が呑めんかったのかも知らん。逆に大原さんが上里小の出身だったら、僕のこと見て見ぬふりしとったかもしらんよ?」
どきりとした。美邦がその場にいたのならば、確かに空気に呑まれて何もできなかったに違いない。
「藤村君が僕を助けてくれたときは――ちょうど笹倉から大原さんを守っとったときみたいだったよ。そのあとからだったな――上里小の奴らが東田のこと非難し始めて、岩井までもが手の平を返したのは。藤村君、小学校の頃から女子達の信頼があったみたいだし。」
「うん――。確かに、藤村君ならばそうかもね。」
「まあ――どうあれ僕にとっては嬉しいことではあったさ。藤村君が東田と喧嘩をした日――一緒に歩いた放課後の帰り道は、僕は決して死ぬまで忘れないと思う。僕には友達ができたことさえ、何年もなかったけん。」
芳賀はそこで言葉を区切り、美邦を見据える。
「それが大切な友達で済めばよかったんだ。けれども僕の場合はそれだけで済まんかった。酷いもんだ。別の意味で辛い思いをするなんて。」
美邦は始めて、芳賀に対して心が疼いた。
自分が冬樹に対してどのような感情を抱いているのか、具体的な言葉で表すことはできない。けれども芳賀は、そうは受け取らなかったのだろう。冬樹が特定の異性と急接近してゆくのを目の当たりにして、なおのこと辛い思いをしたのではないか。
「僕は大原さんなんかより、長いあいだ藤村君と付き合ってきたんだ。」
芳賀は引き攣った微笑を浮かべ、声を震わせる。
「それが、何でお前なんだ。――」
そう言ったあとで、芳賀は後悔した顔となった。恐らく、二人のあいだに妙な空気が流れていなければ、絶対に言えない言葉だったのではないか。芳賀はいつもの不愛想な表情に戻り、そして視線を下に落とす。
「ごめん。本当に――ごめん。」
それは単純に今の失言を謝罪しただけのことであって、美邦を中傷したことへの謝罪ではなかった。芳賀は美邦への中傷に対し、本当の意味で反省することなどできないのだ。美邦はその気持ちを簡単に察することができた。そうであるがゆえに、敢えて責める気持ちなど湧かない。
教室棟のほうが騒がしくなってきたのは、そんなときだ。
何か不吉なものを感じさせる騒がしさだ。
美邦も芳賀も、思わず教室棟のほうへ顔を向ける。
「――何かしら?」
芳賀は首を捻った。
とりあえず二人はそこから移動する。
渡り廊下を渡り、教室棟へ這入る。どうやら喧噪は、二階から聞こえているようだ。そして階段の手前まで差しかかったとき、血相を変えて駆け降りてきた何人かの女子と遭遇した。
「ああ、おった!」
そう声を上げたのは、同じ班の田中であった。
「大原さん――教室で――笹倉さんが――!」
言い終えるか終えないかのうちに、田中は美邦の腕を取った。
「とりあえず、早く来て!」
そして、強引に教室のほうへ引っ張ってゆく。何が起きているのか質問する間さえ与えられなかった。美邦のあとには、芳賀も続いた。
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