7 伊吹山への侵入

二人が幸子の家を訪れたその日、冬樹は平坂神社跡地を訪れていた。


危険は充分に承知していた。それでも、一旦決意してみると、どうしても行ってみたいという欲求を抑えられなかったのだ。最近は、何かに取憑かれたように平坂神社のことしか考えられない。


幸いと言うべきか土曜日は快晴であった。


冬樹が家を出たのは、午前九時のことだ。早苗は仕事に出ていたため不在であった。出かける前に、芳賀と市内の博物館へゆくと嘘を吐き、良子から昼食代をもらった。恐らくは、道なき道を進まなければならないのだろう。リュックサックの中には、軍手・ジャージ・蟲除けスプレー・懐中電灯・鉈・鋸・デジタルカメラなどが詰め込まれていた。


普段着のまま家を出て、入江にあるスーパーへと向かう。


スーパーでは、昼食用の栄養調整食品とスポーツドリンクを買った。おにぎりやサンドイッチなどといったものは、山の中では気持ちが悪くて食べられないであろう。


それから、伊吹山へ向けて浜通りを歩いていった。


浜通りは港のすぐそばを通る県道である。しかし、休日だというのに人通りはない。通行人は、冬樹の背後を歩く一人の男だけだ。


鞘川の河口付近には、湊公園と呼ばれる公園がある。そこの公衆便所で、冬樹はジャージへと着替えた。


それから鞘川に沿って伊吹山へと近づいてゆく。


ネットからコピーしてきた地図に従い、平坂神社へと至る道を発見する。


再び周囲を見回した。散歩中と思しき中年男性が遠くに見える以外、人はいない。


冬樹はその細い坂道を登ってゆく。


数百メートルほど昇ったところで、平坂神社跡地へ辿り着いた。子供の背丈ほどもある雑草が生い茂っている。その向こうには森があった。


森には、暗い闇のぽっかりと開いた部分がある。恐らく、そこに平坂神社の入口があったのであろう。


一応、背後を確認してから、草叢の中へ這入っていった。


雑草を掻き分け、森の入口へと近づく。


当然、それでさえも簡単なことではなかった。


しかし、近づくにつれて森の中にある石段が見えてきた。


五分ほど時間を掛け、山の麓まで近づいた。


山の中には長い参道があった。


――大原さんの言っとったとおりだ。


石段の幅は、背の高い大人が身を横たえたほど。両側にはステンレス製の手摺が設けてある。参道を覆う広葉樹の繁殖が凄まじく、緑のトンネルを作っている。行く先々では、枯れ枝や蜘蛛の巣が通路を阻んでいた。


ふと足元へと目を遣ると、すり鉢状の石が置かれていることに気づいた。注意深く観察すると、少し離れた処にもう一つ同じものがある。どうやら鳥居の礎石らしい。


冬樹は再び参道へと目を遣り、溜め息を一つ吐く。


――これを通り抜けてゆくのかよ。


しかしここまで来たのならば、引き返すのも癪だ。


リュックサックから片刃の鋸を取り出し、石段を昇り始める。


靴底を隔て、落ち葉と苔の柔らかい感触が足の裏に伝わってきた。うっかりすれば、足を滑らせかねない。手摺を握り、慎重に足を進めてゆく。


そこからは単純作業の繰り返しだった。


蜘蛛の巣や倒木が目の前にあった場合は、鋸で振り払った。参道には茸が生え、蛾が飛び交っている。いくら田舎で生まれ育ったとはいえ、こんな山の中へ這入ることに慣れているわけではない。帰ろうかと途中で何度も思った。石段の中腹まで進んだときには、既に額から汗が滴り落ちていた。


しかしそんな不快感の中にあって、妙な感覚を冬樹は抱き始めた。


樹木や雑草や、有象無象の蟲達――その生命力の強さと圧倒的な存在感が強く迫ってきたのだ。冬樹も蟲達も、樹木も雑草も、全てが生きている。それらの生命と自分を隔てる境界が、次第に曖昧になってきた。


地球上に存在する全ての生命は同じ祖先から誕生した。無数の細胞と菌が人体を作っているように、伊吹山という生命体の中にあって、冬樹はその一部でしかない。そしてそれは、地球という巨大な生命体にまで敷衍おしひろげられることでもある。


参道の随所では、磐座いわくらと思しきものがいくつか顔を出していた。それらも、神が宿るものとしてかつては崇拝されていたのだろうか。


石段を数十メートルほど昇ったところで、楼門のようなものが見えてきた。樹々に埋もれ、大量の落ち葉を被りつつも、かしいでいる。


石段を昇り切ると、そこから先は緩やかな坂道となり、再び短い石段が続いた。楼門はその上に立っている。坂道のかたわらには、子供の背丈ほどもある大きな磐座が置かれていた。


腕時計を見ると、既に一時を廻ったところであった。


随分と時間が経っていたことに驚く。作業に熱中するあまり空腹を忘れていたらしい。とりあえず昼食を摂り、一休みすることとする。


冬樹の立っているその場所からは、遠くに海が見えた。樹々の僅かな間から、糸のように細い沙浜と蒼い海が望める。十年前は樹々も手入れされていたであろうから、絶景であったに違いない。その風景を眺めながら、冬樹は栄養調整食品を食べた。決して悪い昼食ではなかった。


食事を終え、冬樹は再び坂道を進みだす。


体力がついたため、ゴールまでの道のりは楽であった。


楼門の向こうには境内が拡がっていた。


境内は鬱蒼とした社叢に包まれており、雑草が生い茂っている。薄暗い闇の中に、大きな社殿が建っていた。楼門から社殿までは落ち葉の積み重なった石畳が続いており、そこだけ辛うじて草が生えていない。


まさかここまで建物が残っているとは思わなかった。


楼門へ近寄り、まじまじと観察する。左右には格子戸のついた空間があり、雛人形の左大臣と右大臣を大きくしたような木像が入っていた。


ゆっくりとした足取りで、冬樹は境内へ足を踏み入れる。


境内は広いが、社叢に覆われて薄暗い。雑草の中に、手水舎や社務所・磐座などが島のように浮かんでいる。樹々の合間から見える空は狭く、そうであるがゆえにより蒼く感じられる。湿っぽい場所ではあるが、冬樹は妙な安堵感を覚えた。


その場所から連想したものは、沖縄の御嶽うたきであった。


冬樹は沖縄へ行ったことはない。けれども、写真などから察するに、こんな感じではないだろうかと思う。


御嶽は琉球神道の聖地であり、ニライカナイから来訪した神を祀る場所である。基本的に社殿も何もなく、神道の原始的な形態を維持している。


十年間も放置されてきた分、境内は原始的な姿に近づいているのだろう。


それが冬樹の想像を駆り立てた。


はるか太古、この場所を発見した人々は、こここそが客神の鎮まる場所に相応しいと考えたに違いない。この中にあって、客神はまどろむ胎児であった。ここは、海から来た荒魂を幸魂として祀る場所だったのだ。


冬樹は社殿へと近づいた。


やや横幅の広い、寝殿造りを思わせる木造の拝殿。普通の神社ならば正面に階段きざはしと賽銭箱があるところだろう。しかし、ここでは一旦回廊が途切れ、代わりに大きな扉が両翼を拡げている。拝殿の中に三畳ほどの土間があり、階段きざはしと賽銭箱もそこにある。


――それが、どうして。


扉や雨戸はずっと開け放たれたままだったらしい――恐らくは十年前から。回廊には落ち葉が降り積もり、苔が生している。古い木造建築であるため、腐蝕が著しい。


――まるで、打ち捨てられたみたいだ。


何か事情があって、扉を閉めるのも忘れたまま放置された――そんな印象を受ける。倒産したとはいうが、どちらかというと神職が夜逃げをしたかのようである。


社殿をしみじみと観察してから、冬樹は一応、二礼二拍一拝した。


社殿から出て、境内を見回す。大きめの磐座が複数、草叢くさむらの中から姿を覗かせていた。磐座は境内に散在しているようであったが、それぞれを線で結んでゆくと、確かに社殿を取り囲む歪な円となった。


ふと、四角く切りそろえられた石が草叢の中にあることに気づいた。


磐座ではない。どうやら石碑のようだ。


草叢くさむらを掻き分け、石碑へと近づく。


石の状態から察するに、まだ新しい。大きさは、縦一メートル半、横三メートル程度。「奉献の碑」と大きく彫られ、氏子の名前と寄付金が記してある。一人当たり、五万円から十万円といった金額が竝んでいる。


――これだけの出資者があって、石碑を作るほど金が余っていたということか。


ふと冬樹は、その中に見知った名前を見つけた。しばらくはその文字に目が釘付けとなった。顎に手を当て、じっと考え始める。石碑の最後には「昭和四十五年 十月 平坂神社代表役員 大原糺」と彫られている。


冬樹はその石碑の文面を、カメラで写真に収めた。ここに名前を記された人物から、平坂神社について何事かを訊くことができるかもしれない。


社務所のほうから何か音が聞こえたのは、そんなときだ。


枯葉の擦れるような音であった。


咄嗟に顔を上げたものの、当然、そこには誰もいない。


それでも、社務所の中で一瞬、何かが動いたような気がした。社務所の窓には曇り硝子が嵌められていて、詳しく中を窺うことはできない。ひょっとしたら見間違いかもしれなかった。


冬樹は急に怖くなった。


自分がここにいることが、重大な犯罪のように思えたからだ。もしも冬樹の所業を見ている者がいたとしたら――それは一体だれなのだろう。


「どなたか、おられますか?」


一応はそう声を掛けてみたものの、ただ虚しい静寂に吸い込まれた。


莫迦ばかだな――と心の中で自分を叱責する。今まで苦労して蜘蛛の巣や茸のついた枝を振り払ってきたのは、一体誰だったのか。ここにはもう――恐らくは――十年もの間、誰も足を踏み入れてはいないのだ。


けれども社務所の中は覗いておく必要があるだろう。ひょっとしたら、何か手掛かりが残っているのかもしれない。


そう思い、雑草を掻き分けて社務所へと近づく。


社殿が開け放たれたままだったので、社務所もそうではないかと期待した。しかし、こちらにはしっかりと鍵がかけられていた。受付口の窓も、その隣にある玄関もそうであった。玄関は引き戸であり、格子状に組まれた木に硝子が嵌め込まれている。随分と腐蝕が進行していたが、少し押しただけではびくともしない。


――仕方がない。


冬樹は入口を破壊することとした。


のこぎりをリュックサックへと仕舞い、代わりになたを取り出す。そして鍵の付いている付近へと狙いを定め、力一杯振り下ろした。自分でも驚くほどの音が響き、硝子が割れ、格子が裂ける。それを二回、三回と繰り返した。安全に手が通るほどの穴が開いたので、手を入れて内側から鍵を開ける。


扉を横に引く。立て付けは悪くなっていたものの、難なく開いた。


玄関からは短い廊下が伸びていた。


薄闇の中、隅々で黒い影が素早く動いた。小さな楕円形の影だ。


冬樹は思わず眉をひそめる。誰もが嫌うあの害蟲が、こんな季節になってまでこんな処に潜んでいたというのか。


壁は一面が蒼黒く塗りつぶされていた。よく観察してみれば、それは黴なのだ。


――どうやったらこんなにも湿気しけるんだよ。


社務所の中は異様なほどの湿気で満たされている。襖はもはや紙が溶けだしてぼろぼろだ。しかも、何やら泥水のような臭いさえしている。いや――泥水というよりかは、海水を腐らせたような臭いだ。


冬樹は土足で廊下へと踏み込む。石段と同じく、しっとりとした感触が靴底に伝わる。


廊下の左手が件の受付であり、右手はトイレや物置になっているようだ。


襖の前に立ち、冬樹は鉈を構える。


襖そのものは簡単に開けられそうだった。鉈を構えたのは、急に湧き上がってきた警戒心がそうさせたのだ。なぜだか――ここはあまり開けたくはなかった。もしも、先ほどの物音が気のせいでなかったとしたら、ここには一体、何がいるのだろうか。


冬樹は襖の取っ手に手を掛け、一息吐いた。


力を込めると、がたがたと音を立てその襖は開いていった。


そして叫びそうになった。


部屋の一面に楕円の黒い影が這っていたからだ。それは天然痘患者の皮膚に生じる膿疱にも似ていた。楕円の影は部屋の片隅に密集し、黒い塊をなしている。初めは例の害蟲かと思ったのだが、違うものであった。背中には、団子蟲と同じような横縞がある。


――舟蟲ふなむしだ。


冬樹はたたらを踏み、背後の壁にぶつかった。


そして部屋の片隅の真っ黒な塊が動きだす。舟蟲の群れに覆われているだけで、どうやらそれは人のようだった。それが上半身を起こしたとき、頭上から何匹かの舟蟲がばらばらと落ち、一瞬だけ、老人の白髪が姿を覗かせた。


その黒い塊が動きだしたためか、蟲達は一斉に動き出し、廊下へと這い出てくる。


冬樹はぬめぬめと滑る廊下を蹴飛ばし、その場から逃げ出した。


社務所から飛び出し、草叢の中を必死で駆け抜けてゆく。鉈をどこかへ振り捨て、肩や腕を両手で払いながら参道へと駆け出た。このジャージのどこかに舟蟲がついていないか不安だった。もう、一秒たりともこの山の中にはいたくはない。背後を振り返ることもなく、一目散に石段を駆け下りる。無論、転ばないように手摺はしっかりと握っていたが。


――ここは異常だ。


もう十年もの間、ここには誰も這入らなかったのかもしれない。


けれどもその閉ざされた空間に、何者かがずっと存在していたのではないか。


そうであるならば――やはり冬樹は、こんな処へ来るべきではなかったのだ。


そう後悔したところで、今さら遅かった。見るべきではないものを見てしまったような気がしていた。ともかく冬樹は、滑り落ちないよう最低限気をつけながら、平坂神社の石段を猛スピードで下っていった。

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