5 十三年前の当屋

右眼が見えなくなってから三日経った。


そのあいだ、冬樹の身体からは何も消えなかった。もっとも、何日置きかの間隔で今まで臓器は消えていたので、予断は許さない。


それでも――と、冬樹は思うのだ。


自分の右眼が見えなくなったのは、今まで臓器を奪ってきた者とは、別の者の仕業なのではないか――そもそも、十年前の美邦にも同じことは起きたのではないか――と。


ただし体調はすぐれないままだ。空腹であるにも拘わらず食慾はなく、何か気持ちの悪いものが胃の中には溜まっている。大便は常に下痢気味であったし、体育の時間は保健室で休むようになっていた。


土曜日の午後には、伊吹にある病院へと行った。


本当は午前中に行きたかったのだが、疲労から寝過ごしたのだ。倦怠感を抱えた身体に、海から吹きつける冷たい風が沁みた。


幸いなことに、土曜の午後からの診察をその医院は受けつけていた。


腎臓や胆嚢がなくなった――とは正直には言えない。冬樹は、自分に起きている症状について述べるに留めた。大した検査も行わないまま、過敏性腸症候群ですねと医師は言う。もちろん誤診には違いない。しかし何も言い返せなかった。処方箋だけをもらって、医院をあとにする。


家の方角へ向けて中通りを歩いてゆく。最近は日が落ちるのが早い。青ヶ浜の方角には日が傾きかけている。


真っ直ぐに家には帰らず、図書館へと向かった。


一ヶ月ほど前ならば、寄り道などしないはずであった。しかし、最近は夜の闇からあまり恐れを感じない。別に明日でもよかったのだが、できれば他の利用者はいないほうがいい。


図書館に着いた。中に利用者は見当たらない。館内を一巡りし、自分以外に利用者がいないことを知ると、カウンターへ向かった。


カウンターにいたのは田代であった。


冬樹が手に何も持っていないのを目にして、田代は怪訝な顔をする。


「おや、どうかされましたか――藤村君?」


「いえ、ちょっと質問したいことがありまして。」


冬樹は一瞬、目を逸らす。


「失礼ですが、田代さんの苗字って、元々は寺田だったりしますか?」


田代は表情を少しも変えなかった。顔をじっと冬樹に向けたまま動かさない。しかし、僅かな変化もないことこそが、動揺の証拠でもあった。


ややあって田代は訊き返す。


「どうしてそう思うの?」


「僕は前に、平坂神社のことについて調べてるって言いましたよね? 築島先生が覚えておられました――十三年前に、当屋となった人のことについて。亡くなる前に、田代さんだって教えて下さいましたよ。」


「――そう。」


田代は視線を落とす。その目元には、悲しげな色が浮かんでいた。しかし、すぐに疑惑の色へと変わって顔を上げる。


「本当に?」


さすがに申し訳ない気持ちとなった。


「築島先生が教えてくれたというのは嘘です。」


心に溜まったものを押し出すように冬樹は言う。


「けれども、神社のことについて調べていると言ったら、十年から十三年前までの一年神主の名前を調べて下さいました。十三年前の当屋の名前が気にかかったのは、そのときです。田代さんの名前は、職業体験学習のときに知っていたので――。もちろん、ただ名前が同じというだけであって、深く気に留めていなかったのですが――。しかしその後、十三年前の当屋について調べてゆくうちに、田代さんの話されていたことと似ているように思ったのです。」


すなわち、高校のときに平坂町から引っ越したということである。


「年齢も、大体同じくらいじゃないかなと思いましたし。――なので先日、学校の図書室で過去の卒業アルバムを調べてみました。そしたら、田代さんの顔写真が載ってましたよ。」


言わなければ分からないという程度であったが、寺田直美の顔立ちは、たしかに田代を十数歳ほど若くしたようなものであった。


「――そう。」


田代は再び視線を下に落とし、悲しげな表情となる。


「それで藤村君は一体、何がしたいの?」


「神送りの儀式について知りたいのです。」


冬樹はやや語気を強める。


「神送りの儀式のときに何か秘儀を行うと、郷土史家の方から聞きました。それが何であったのか、覚えてはいませんか?」


田代は露骨に眉根を寄せた。


「正直、神祭りのことは思い出したくない。厭な思い出しかないし、この町は正常じゃない。一年神主だった人も、次々と亡くなられとるし。」


そう言われれば、冬樹には何も言い返すことはできない。


しかし、しばらく黙ったあとで田代は語り始めた。


「儀式の最中は、何もしゃべるなって言われとったの。だけん、儀式の段取りは、事前に全部覚えてかんといけんかった。けれども、事前に教えられとらんかったことも儀式の最中にはあったけん、多分それでないかな? 儀式が終わったあとに、今晩のことは誰にも言うなと宮司さんから言われたけど。――」


それから、神送りの夜に行われていたことを田代は説明する――主に、祭壇に二つの人形が供えられていたこと、神饌が何か生臭いものであったこと、首を斬られるような動作があったことなどを。


言うまでもなく、これらは冬樹に一つの暗示を与えた。


祭壇の人形は一年神主の代わりで、首を斬る真似事は、本当に斬っていた時代の名残ではないだろうか。


「宮司さんが口止めするのも、無理のないことね。」


「そう――ですか。」


冬樹の頭には、柳田國雄が『一目小僧』で示した仮説が浮かんでいた。


「もう一つだけ、訊いてもいいですか?」


「――何かな?」


「平坂神社が無くなったことについて、何か心当たりはありませんか?」


カウンターの上の蛍光灯が瞬いて、それが田代の顔の上へ不気味な陰翳を作り出した。


何もないけど――と田代は言う。


「私は高校を卒業したあと、この町から引っ越したけん。」


それから田代は、十三年前に妹が鉄道事故で亡くなったことを聞かせた。当然ながら、それは冬樹が既に知っていたことであった。


「引っ越しの直截的な原因は、それだった。私は県外に出とったけど――平坂町に帰ることはなかった、妹が亡くなったことで、母が心を病んだだが。それから色々と悶着があって、家庭が崩壊したの。」


「そう――でしたか。」


「しかも十年前からは、大学へ通うために県外に出とったわ。だけん、平坂神社が無くなったことについては、何も知らんのよ。」


田代の瞳の奥に、微かな憎悪の焔が燈った。


「正直なところ、こんな町にはもう二度と帰って来るつもりはなかった。遊ぶ処なんて何一つとしてないし、出会いもない。あるものといえば、神社に祀られている気味の悪いものだけ。就職に失敗しない限りは、県にすら帰って来る気はなかった。」


田代の言葉は、次第に恨み節のようになっていった。


この町を嫌いだと冬樹は思ったことはない。ましてや田代のような発想などあろうはずがない。なのでそれは理解しがたい感情でもある。


だけんね――と田代は言う。


「神祭りのことについては、正直あんま触れんでほしいだが。」


蛍光灯が、じじっと蟲の羽音のような音を立てた。


館内は静寂に包まれている。外は既に暗くなっており、蛍光灯の光は虚ろなほど白かった。


「――分かりました。」


冬樹はそれだけ言うと、田代にいとまを告げる。


図書館から出ると、薄暗い闇の中、等間隔に街燈が竝んでいた。冷たく力強い風が身体に吹き付ける。海から離れているにも拘わらず、遠くから潮騒が聞こえる。


家に着いたのは十八時前ごろであった。早苗は既に帰って来ていた。早苗が機械的にお帰りと言ったので、冬樹はただいまと答える。


夕食は鍋であった。


体調の悪さから、あまり多くは食べられない。それでも、なぜか嬉しい気持ちとなる。食事とは、ただ味を愉しみ、空腹を満たすためだけのものではないのだ。鍋に盛られた色とりどりの具材から豊かさを感じ、温かな見た目から冬を感じる。


短い食事の時間を終えて、部屋へと戻った。どうせ明日は休日なので、風呂に入らず休むこととする。


暗い部屋のベッドに横たわり、眠りに就こうとした。


全身の倦怠感と微かな満腹感は、すぐに眠気を呼んだ。


そのときだ――犬の吠えるような音が遠くから聞こえてきたのは。救急車輌のサイレン音であった。微睡みが軽く冴えるのを感じる。サイレン音は伊吹山のほうへと向かっているようだ。しかも一つだけではない。次第にその数は、二つ、三つと増えていった。

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