4 平坂中学校

十月六日――月曜日。美邦は予定どおり市立平坂中学校へと登校した。


渡辺家から中通りを北上する。朝の冷たい風が海から吹きつけていた。


その途中で、美邦は二体の黒い人影と出会った。平坂町に引っ越してきて一週間――どういうわけか、この町ではあの人影をよく目にする。


そして。


神社だけではなく、平坂町には何かが欠けている感じがする。それなのに、何が欠けているのか自分自身にも分からないのだ。


――何か、大切な。


港のほうへと目を遣ると、突堤の先に建つ紅い燈台が目に入った。燈台は、ここからは糸屑のように小さく見える。その紅い点は、まるで強い光を見たときのようにしばらく網膜から離れなかった。


    *


市立平坂中学校の校舎は木造であった。


正確に言えば、教室棟のみがそうであるらしい。下見に来たとき、実習棟はそのまま「鉄筋校舎」と呼ばれているのだと、かつて在校生であった詠子が教えてくれた。


外来用昇降口から職員に声をかける。生徒用の昇降口に新しい下足箱を用意したから、そこに下足を納めてこいと事務員は言った。指示どおり生徒用昇降口から上がって、指定された下足箱へ下足を納める。


再び外来用昇降口まで来ると、二人の教員が待っていた。


一人は四十代初めほどの女教師であった。見るからに神経質そうな顔をしており、角ばった眉毛が吊り上がっている。


美邦はただそれだけで怖気づいてしまった。


もう一人は、灰色の髪をした、縁なし眼鏡をかけた男性教師であった。こちらは、近所に住む好々爺こうこうやといったような親しみやすい外見をしている。


「大原美邦さんですね。」


女教師のほうから声をかけられ、思わずびくりとした。視線を落とし、俯き、小さな声ではいと答える。初対面の年上と会話をするのは未だ苦手だ。それが同性であれば、なおのことである。


「初めまして。今日から大原さんの担任となる、鳩村です。」


続いて老教師のほうも、学年主任の築島ですと言った。


「はい――初めまして。」


築島に対してはつかえることもなく返事が出た。昭と長く暮らしてきたせいか、歳の過ぎた男性に対しては特に緊張しない。


鳩村は続けて言葉を発する。


「大原さんは、短いあいだにに色々なことが起きすぎて、大変だったかとは思います。大原さんが抱えておられる障碍については、叔母さんから聞いています。我々も、できる限り大原さんをサポートするよう心がけますので、早めに学校生活に馴染めるよう、頑張ってください。」


「あ――はい。」


それから鳩村は、校舎の大まかな説明や、掃除当番・給食当番・委員会など、学校生活における諸事項の簡単な説明を行った。また、これから美邦の属すことになる班には、女子の学級委員長がいるので、判らないことがあれば彼女に訊いてほしいとも言った。


予鈴が鳴る。


「それでは行きましょうか。」


感情を込めるでもなく、鳩村はそう言う。築島は、よろしくお願いしますと念を押すように言い、職員室へと戻っていった。


    *


鳩村に導かれ、教室へと向かう。


ただそれだけなのに、息が詰まりそうだった。やはり美邦は鳩村が恐い。ましてや、自分はこれから新しいクラスメイトの前で挨拶をしなければならないのだ。そう思うと、なおのこと緊張する。


新しいクラスは二年A組という。


廊下で美邦を待たせ、鳩村は先に教室へと這入る。


教室の中から見えない位置に立って、美邦はそっと深呼吸した。


教室の中からは、朝の挨拶をする鳩村の声が聞こえている。束の間の安息。鳩村は連絡事項や欠席の有無などを伝えてから、美邦を中へ呼んだ。


「さて――もう知っている人もいると思いますが、今日からこのクラスに新しい仲間が加わります。大原さん――中へ這入ってきてください。」


身体中に緊張が奔った。


教室へ向け、はいと弱々しい声を出す。


震える手で教室の扉を開ける。


クラスメイトの全ての眼が視界に飛びこんだ。好奇の視線、期待の視線、値踏むような視線――。顔を伏せても痛いほど強く感じられる。強張る足を無理に動かし、教壇の横まで移動する。一挙一動まで見られていると思えば思うほど、動きの一つ一つがぎこちなくなる。


教壇の隣に建つと、鳩村は黒板に美邦の名前を書いた。


「大原さんは、家庭の事情で岡山から引っ越して来ました。こちらへ来てから、まだあまり日にちが経っていません。平坂町には慣れていないと思います。左眼には障碍を抱えられており、色々と不自由なことも多いと思いますので、皆さんで助けてあげましょう。では大原さん――」


自己紹介をお願いします――と鳩村は言った。


「はい。」


密かに息を呑み、顔を上げる。いくら人前で話すのが苦手だとはいえ、自己紹介くらいは避けて通れない。大丈夫だ――と心の中で念じる。できるだけ短い言葉を、淡々と発してゆけばいいのだ。


「お、大原美邦です。どうか、よろしきゅお願――」


そうであるにも拘わらず噛んでしまった。美邦は慌てて言い直す。


「どうかよろしく、お願いしま、まま、す――」


言い終えたあとは、素早く頭を下げた。後頭部には冷たいものが流れている。誰もが気を遣っているのか、教室は夜のように静かだった。


「じゃあ大原さん、一番前の、空いている席へ着いて下さい。」


「――はい。」


いつもより深めに顔を伏せ、指定された席へ着く。


そして鳩村は、何事もない声で出席を取り始めた。

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