第九章 小雪

1 誰かの夢

彼女は深い眠りの中にあった。


夢の中で、彼女は小学五年生に戻っていた。


夕闇に染まる平坂町を、わんわんと泣き叫びながら歩いている。しかし、誰も彼女を気に留めようとしない。


妹が失踪して、お前のせいだと両親からなじられた末の家出だった。妹の失踪によって最もショックを受けていたのは彼女自身だったのに、両親は不満を全て娘へとぶつけていた。


顔も頭の出来も、何もかも姉のほうが格段に劣っていた。姉のことを慕っていたのは、家族の中で妹だけであった。同じ両親から生まれた子供なのに、自分だけがぞんざいな扱いを受けていることを彼女は知っていた。その不公平に対し、何も反論することができないまま過ごしてきた。


そのストレスが、この日になってようやく爆発したのだ。


散々泣き疲れ、やがて声も出なくなった。


ふと、自分が見知らぬ場所へ来ていることに気づいた。


そこは、子供の背丈ほどもある雑草の茂った空き地であった。空き地の奥は山に接しており、黒々とした穴がもりには開いている。


不気味さを感じ、彼女は冷静となる。見知らぬ場所へ一人で来ていることに不安を感じ始めたのだ。


空の色は、いつの間にか濃い青色に染まっていた。透き通った群青の空に、濃い色をした雲が浮いている。その景色は、深海から海面を見上げたときのようでもある。


早く帰らなければ――と思い、踵を返したときだ。


雑草の中から、彼女を呼ぶ声がした。


数日ぶりに聞く声に、不安は一瞬にして吹き飛ぶ。


背後の雑草の中から、かさかさという跫音あしおとが聞こえる。振り向くと、高く生い茂った草叢くさむらの中から何者かが近づいてきていた。


そして、彼女を呼ぶ声が再び聞こえる。


彼女は、草叢の中へ向けて妹の名を呼んだ。それに呼応して、再び彼女を呼ぶ声が聞こえた。やがて草叢の中から、何かが出てきた。薄暗い闇に紛れて判然としなかったが、どうやら小さな子供のようだ。


ああ、こんなとこにおっただか――と彼女は言った。


薄闇の中の存在は、軽く微笑んだ――ような気がした。


――一緒にお家帰ろ。お父さんもお母さんも待っとんなるで? 今日の晩御飯はカレーかな? あんたの大好物だがな。


妹の手をつなぎ、彼女は家路に就いた。妹が帰ってきたならば、両親の怒りもまた解けるはずだ。そうすれば、またあの幸福な家庭が戻るに違いない。たとえそれが、妹と両親だけで完成していて、自分は完全な除け者の「幸福」だったとしても――。


自分が手をつないでいるものが、薄闇に紛れた、何か形の判然としない存在であったとしても――。

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