第二章 神無月

1 平坂町への帰還

海岸線沿いの長い県道を下っていった先が平坂町であった。


やや高い崖の上を県道は通っている。窓の外には鉛色の海が拡がっていた。その景色に飽きてきたとき、前方に港町の姿が現れた。


「ほら、あれが平坂町だが。」


運転席から、叔母である詠子の声が聞こえた。


ええ――と美邦も相槌を打つ。


県道が大きく湾曲した。窓の外に港町の姿が現れる。車は坂道を下り、吸い込まれるように漁港へと這入はいって行った。


町の入口で道は二手に分かれる。一つは港沿いを通る県道であり、もう一つは町中を通る細い道であった。車は後者を進んでゆく。


町は起伏の多い地形をしているらしい。海側には、民家の二階の部分や屋根が見える。その向こうには港があった。突堤の先に建つ紅い燈台の姿が目に入り、しばらくのあいだ網膜から離れなかった。


車は次第に減速し、やがて町角の駐車場へ停まる。


美邦は自分の荷物を抱え、車から降りた。


周りを見回しても、覚えているものなど何もない。全く見知らぬ町だ。それなのに、どことなく懐かしく感じられるのは、幼少期のおぼろげな記憶と重なるためであろうか。


ここが昭の生まれ育った町であり、自分の本当の故郷なのだ。


「どお? 懐かしいでしょ。何か覚えとるものとかあるでない?」


何と答えたらいいか分からなかったが、とりあえず相槌を打つ。


「何となく覚えている気がします。紅い布とか――燈台のこととか。」


「そっか。」


こっちだで――と言い、詠子はその細い道の先を指し示す。


詠子に導かれて歩いてゆく。


道は緩やかに曲がりくねり、緩やかに上下していた。


渡辺家はその道に接した古い民家であった。昭の生まれ育ったこの家は、随所でリフォームした以外はあまり変わっていないという。


玄関へ上がると、学校帰りと思しき千秋が居間から顔を出した。


「あ、お姉さん、お帰りなさい。」


ただいま――と返事をしたものの、何だか可笑おかしくなってしまった。


「けれども、私はここに初めて来るのだけれども。」


「うーん。まあ、これから住むだけん、ええが。」


「そうかもね。」


美邦の口元は、自然とほころんでいった。


「美邦ちゃんの部屋は、こっちね。」


そう言い、詠子は階段の上を指さす。


階段を昇り、少し進んだ処に美邦の新しい部屋はあった。


六畳の殺風景な空間である。美邦は抱えていた大きなバッグを降ろし、一息つく。それ以外の荷物は、明日運ばれてくる予定だ。岡山から車で四時間、ようやく長旅が終わった。


ふと目を遣ると――窓の外に新しい景色が広まっていた。


美邦はサッシに手をかけ、その風景を眺める。


張り巡らされた電線や民家の屋根の彼方に、円錐形えんすいけいの小高い山があった。灰色がかった青い空の下に、青黒い巨躯きょくたたえている。


その美しい姿に魅せられて、美邦はしばらく動けなかった。


「気になる?」


詠子に問われ、ええ、と美邦は言う。


「綺麗な形の山だな、って思って。まるでピラミッドみたい。」


「ああ、あれは伊吹山だが。確かに綺麗な三角形だわな。美邦ちゃんの通うことになる学校も、あの伊吹山の麓にあるだで? こっからじゃ、屋根が邪魔になって見えんけど。」


「そう――なんですね。」


できれば詠子など無視して見入りたいほど、伊吹山は美しい形をしていた。けれども同時に、どことなく不安な印象も受ける。山そのものというよりかは、窓から見える風景から。まるで何かが欠けているかのような、漠然とした違和感がある。


「あ、そっだ――どこか行きたい処とかある? あるんなら、今のうちに行っちゃわあか。もうすぐ日が暮れるけん、遠くは行けれんけど。」


「いえ――別にいいです。」


美邦のそんな回答を少しばかり不愉快に思ったのか、詠子の笑みが翳る。しかし美邦は、この町のことなどまだ何も知らないのだ。そのようなことを言われても、何も答えられるわけがない。


詠子は声のトーンを少し落とす。


「一応、言っとくけれども、暗くなったらあまり外へは出んでよ。まあ――外へ出る用事なんてないとは思うけど。この町は複雑な地形だけん、坂道が多くて道路が複雑で、夜になると交通事故とかが多いだが。そうでなくても、岡山と違って、ここでは暗くなってからは人通りが全くと言っていいほどないし、色々と危ないかも。」


「そう――なんですか?」


「うん。私らもあんま出歩かんし。治安が悪いとか、そういうことでないけど――何か、とても寂しくなっちゃうけん。町の外で働いている人でも、遅くまで帰って来ないということは、あまりないかな。」


何かが引っかかる言い方であった。まるで慎重に言葉を選んでいるようでもあり、暗に含んだものがあるような言い方でもあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る